第10話 王宮にて

 馬車がゆっくりと停まり、王宮に到着した。カイルにそっと手を取られてリリーナは馬車を降りる。

 夕陽に照らされた王宮の正面は、白亜の壁と金の装飾が輝き、とても壮大で今夜の舞踏会の華やかさを予感させた。

 

 二人は広々としたホールに足を踏み入れた。奥には堂々たる大階段がそびえ、大理石の床は光を反射してきらめく。天井からは壮麗なシャンデリアが吊るされ、壁には数え切れないほどの装飾が施されている。そのすべてが、リリーナの目にはまるで宝石のようにキラキラと輝いて見えた。

 二人は大階段へと進む。登る前、リリーナの胸に名無しさんの警告がよぎり、一瞬体が固まった。

 

(カイルも横にいるし、大丈夫……手すり側を……)

 

 リリーナは自然と手すりの近くを歩かせてもらいながら、片手でカイルの腕を取り、もう片方の手でドレスの裾をそっと持ち上げてゆっくりと一段ずつ慎重に階段を登っていった。

  階段を上りきると、控室でしばしの時間を過ごした。やがて、リリーナたちの入場の順番が訪れる。両親であるドゥヴァル家とブロッサム家に続き、リリーナとカイルも大広間へと足を進めた。

 

 そして――その先に待つ大広間の扉が開かれると、リリーナの心は思わず跳ねた。

 大広間に足を踏み入れた瞬間、リリーナの視界いっぱいに光が広がった。天井からは幾層にも連なる巨大なシャンデリアが輝き、足元には真紅のカーペット。壁や天井には繊細な金の装飾が施され、広間を彩るのは、宝石のような衣装をまとった貴族たち。


「わぁ……!」


 思わず息をのむリリーナ。その横顔を見つめ、カイルはわずかに目を細めた。

 二人は緊張しながらも他の招待客に続いて壇上の王族へと挨拶したり、周囲の貴族らと挨拶したりする中で、人混みに飲まれないように壁際のところで落ち着いた。


「すごい人数だな。リリーナ、大丈夫?」


 カイルは気遣うようにリリーナの背をそっと撫でる。


「大丈夫よ、ありがとう。ちょっと緊張しちゃった」


 リリーナは照れくさそうに微笑みながら答えた。


 ほどなくしてドゥヴァル家とブロッサム家の両親も合流し、しばし和やかな談笑の時間が流れる。やがて楽団の演奏がふっと静まり、広間のざわめきも自然と落ち着いてき、招待客の視線がゆるやかに壇上へと向かう。

 国王が一歩前に進み、朗々とした声で開宴の辞を告げ、王宮の舞踏会が幕を開けた。 

  広間の中央では、王太子夫妻が優雅に踊りはじめている。まるで絵画の中から抜け出してきたようなふたりが、軽やかに、息を合わせて舞っていた。


「すごく素敵だわ……」


 リリーナはうっとりと呟いた。


「本当だね。お二人の息がぴったりだ」


 カイルも頷きながら見惚れるように視線を向けている。

 やがて曲が終わると、楽団が次の曲へ向けて静かに音色を整え始めた。他の貴族たちもいよいよ自分たちの番だと言わんばかりに動き出した。

 そんな空気の変化を感じ取ったように、カイルはリリーナの方へ向き直る。


「でもきっと、僕たちだって負けてないよ。……というわけで、最初の一曲、僕と踊ってくれませんか?」


 少し照れたように、しかし改まった口調で手を差し出す。

 リリーナは頬を染めながらそっと笑った。


「……よろこんで。でも、あんなに綺麗に踊れる自信ないわ」

「大丈夫。僕がちゃんとエスコートするから」


 小さく囁くような声に背中を押され、リリーナはカイルの手を取った。二人はゆっくりと輪へと加わっていく。

 最初の数歩は緊張でわずかにぎこちなさが残っていたものの、カイルの手の温もりと、静かに導くようなリードに合わせているうちに、自然と足取りが揃いはじめた。

 やがて気づけば、リリーナの世界にはカイルしかいなかった。周囲には大勢の客がいるはずなのに、その気配すら遠くかすみ、ただ見つめ合う彼のシトリンと、二人の呼吸だけがはっきりと感じられる。

 まるで広間の中心に、二人だけの小さな世界が生まれたかのように。リリーナは周囲の視線も忘れ、ただカイルと踊ることの心地よさに身をゆだねた。

 ダンスを終えたリリーナとカイルは、広間の喧騒から少し離れるため、庭園が見渡せる小さなバルコニーへと出た。庭園には遠くに揺れるランプや整えられた花壇、噴水の水音が広がり、華やかな舞踏会の光景とは別世界の静けさを作り出していた。

 カイルがそっと手を差し伸べる。リリーナはその手を取り、二人は並んで手すりに寄りかかるように立った。柔らかな夜風がドレスの裾を軽く揺らし、髪をそっと撫でる。

 

「寒くない?」

「ええ、大丈夫よ」

 

 リリーナは、いつもこうして自分のことを気にかけてくれるカイルに、にっこりと微笑んだ。

 

「私、あなたと出会えて本当に幸せよ」


 リリーナは小さな声で、でも真剣にそう呟いた。


「どうしたの?急に。そんなこと、僕も思っているけど」


 カイルは少し驚いた顔をして、しかしすぐに優しく微笑む。


「本当よ。この歳まで婚約者がいないなんて遅い方かなって思ってたの。でも、あなたに初めて会ったあの日、実は一目惚れだったの」

「そんなの、僕の台詞だよ。絶対逃しちゃいけないって思ったんだ。母同士が知り合いなのに、なんで今まで知り合わなかったんだろうって、不思議にも思ったけど」

「私も同じこと思ってたわ。もっと早く出会えていたら、もっとたくさんの同じ時間を過ごせたのに……なんてね」

「僕もそうだよ。でも、これからはずっと一緒にいられるってことが、とても嬉しいんだ」


「あなたに会えてよかったわ」


「僕もだよ。これからもよろしくね」


「ふふ、もちろんよ」

 

 二人の間を夜風が通り過ぎる。すぐ近くには広間の華やかさがあるが、ここではただ二人だけの時間が静かに流れていた。

 リリーナは、絶対に今日この日のことを忘れることはないだろうと、心の奥で思った。

 

「あ、リリーナ。カイルくんも。ちょっといらっしゃい」


 ゆっくり二人の時間を過ごしていると、リリーナの両親、オリバーとダリアがやってきた。


「どうしたの?」リリーナが尋ねる。


「ごめんね邪魔して。ローゼリエ家の方にご挨拶しておくんだよ。時期当主だから、リリーナも一緒にご挨拶しなきゃね」


 オリバーはにこやかに微笑みながら、手を軽く差し伸べて教えてくれる。


 ちょうどそのとき、カイルの両親もやってきた。


「いたいた。おや、リリーナさんのご両親も」

「ちょうどリリーナをローゼリエ家の方にご挨拶に連れて行こうと思ってね」

「なるほど。カイルも、昔お世話になったワイス家の御当主が、お前の顔が見たいと言ってきたから、顔を見せに行きなさい」


 リリーナとカイルは互いに軽く目を合わせる。


「じゃあ、お互いの挨拶が終わったら、またここで合流しようか」

「ええ、そうしましょう。ではまたあとでね」


 二人は微笑み合い、別々の方向へと歩き出した。

 

 ローゼリエ家の方をはじめ、いくつものご挨拶を終えたリリーナは、少し疲れたな……と思いながら、カイルとの待ち合わせ場所にしていたバルコニーへ向かった。


 バルコニーが近づくと、近くにいたご令嬢たちの声が耳に入ってくる。


「ねぇねぇ、あれってヘレヴィア様とカイル様じゃない?」


 その声に、リリーナは思わず足を止める。

 

「まあ、本当だわ。そういえばカイル様、婚約されたって聞いたけど……ヘレヴィア様とだったのね」

「ヘレヴィア様、カイル様のこと本当にお好きだったものね」

「ほら、お似合いですわ」

 

 リリーナはゆっくりとバルコニーを見やると、そこにはカイルがいた。そして横にはヘレヴィアもいる。カイルの腕にぴったりと寄り添って。

 どうしたものか……と二人を見ていると、ふとヘレヴィアがこちらを向き、目が合った。くすっと笑ったかと思うと、すぐに目を逸らす。

  内心で、リリーナはまたか……と思う。あからさまなに嫌がらせをされたわけではないが、日々のマウントのような振る舞いに、少し嫌な気持ちが湧き上がる。カイルの気持ちを疑うことはない。しかし、このモヤモヤした気分でバルコニーに向かっても、楽しめないだろう。

 そう考えたリリーナは、気分を落ち着けるために庭園に出てみることにした。夜の庭園には人や王宮の護衛もいて、灯りも十分に灯されている。危なくはない。少しだけ、気持ちを整理するだけ――そう思い、リリーナは踵を返し、大階段へと向かった。

 大階段を降りる前、リリーナは名無しさんの忠告を思い出した。ここには人もたくさんいるし、手すりを持ちながら降りれば大丈夫……と思いながら、低めのヒールに意識を集中し一段ずつ慎重に階段を下りていた。


 そのとき、背後から鋭い声が響いた。


「ねぇ!!!ちょっと!!!」


 足元に集中していたリリーナには、それが自分に向けられた声だとはすぐにわからなかった。

 声の主はヘレヴィアだった。彼女は自分がカイルの横に寄り添いマウントを取ったつもりでいたが、リリーナに無視されたことに苛立ち、追いかけてきたのだ。

 大きな声でも振り向かないリリーナに、ヘレヴィアは思わず肩に手を伸ばした――その瞬間。

 後ろを振り向こうとしたリリーナのドレスの裾が踵に引っかかり、バランスを崩した。


(――あ、落ちる)


 視界に王宮の高い天井が広がる中、リリーナはそう思った。しかし名無しさんの忠告が頭をかすめる。反射的に手すりに手を伸ばすが薄手の手袋が滑り、しっかり握ることはできない。それでもわずかに衝撃を受け流すことはできた。

 横向きに倒れ、肩と側頭部を強く打つ。どこかで誰かの叫ぶ声が聞こえる中、視界はゆっくりと白く染まっていった。

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