第9話 舞踏会前
両親のあの危険を回避できた日の後、カイルは忙しい仕事の合間を縫ってわざわざリリーナに会いに来てくれた。
両親に何もなかったことに安堵しつつも、リリーナはこんなに自分のことを気遣ってくれるカイルの優しさに胸がいっぱいになり、ますます彼のことが好きになっていくのを感じた。
それから数日後、カイルの仕事もひと段落し、いよいよ王宮の舞踏会は明日に迫っていた。
ルミナにお願いしていたドレスも無事に家に届き、思わず小さくスキップしたくなるくらいワクワクが胸いっぱいに広がる。
その夜、リリーナは机の上で、淡く光るノートに気づいた。
(……名無しさんだわ。明日が舞踏会だって、書かなくちゃ!)
リリーナはわくわくした気持ちで、そっとノートを開いた。
『明日はもしかして、王宮の舞踏会がある?』
名無しさんから届いたその文字を見て、リリーナはふと考える。やっぱり名無しさんは同じ国の貴族で、自分に近しい人なのでは……と。
首を小さくブンブン振りながら、いやいや、余計な詮索はしないって決めたんだもの、と自分に言い聞かせた。
いつもの万年筆を手に取る。
『そうよ!とっても楽しみなの』
エメラルド色のインクが、リリーナの心の弾む気持ちを映すかのように、机の上できらめいた。思わず顔がほころび、頬が自然にゆるむ。
するとすぐにノートが淡く光った。
『僕が舞踏会に行かないでくれって言ったら、行かないでくれる?』
『それは……難しいわ』
『そうだよね、言ってみただけだよ。
じゃあこれだけはお願い。
階段にはくれぐれも気をつけて。
ヒールは低めに、
手すり側を歩いて。
そして決して一人にならないこと』
リリーナはページを見つめ、息を呑んだ。
この前の警告は、両親を守るためのもの。あれがなかったら両親は……。ならば、この警告は自分を守るためのもの。と言うことは――
リリーナはぞっとした。楽しみでいっぱいだった気持ちが、急に心臓の奥で冷えたようにきゅっと締め付けられる。
(ううん、名無しさんの警告は、守るためのものよ。大丈夫。前も、ちゃんと守ったら大丈夫だったんだから)
そう思いながら、リリーナは返事を書く。
『わかったわ。舞踏会で何かあると言うことなのね?』
『⬛︎⬛︎⬛︎⬛︎⬛︎⬛︎⬛︎』
すぐに返事が届く。だが文字は黒いモヤに覆われていて、読むことができない――以前、名前を書いたときのように。
しばらくすると、また文字が浮かんだ。
『ごめん、やっぱり詳しくは書けないようだ。お願いだ。さっき僕が書いたことを、しっかり守ってくれ』
ノートからは、名無しさんの必死さが伝わってくる。この人は、私のために――
『ありがとう。絶対守るわ』
深呼吸をして万年筆をそっと置いた。リリーナはノートを閉じる前に、もう一度ページを見つめた。黒く滲んだ文字や、必死に伝えようとする名無しさんの思いが胸にずっしりと重くのしかかる。
深く息を吸い込み、ゆっくりと吐いた。そして彼女はそっとノートを閉じ、舞踏会の準備に思いを馳せた。
そして次の日の朝。いよいよ王宮の舞踏会当日だ。朝食を終え、リリーナはそそくさと自分の部屋に戻った。
部屋の扉を開けると、メイドのサラがにこやかに立ち、トルソーにドレスを着せていた。
「お嬢様、準備は整いました」
「わぁ……!」
リリーナは思わず声を上げ、目の前の光景に胸を躍らせた。
箱の中にあったドレスがトルソーに美しく着せられ、優雅なシルエットを見せている。軽やかなペールグリーンのドレスをウエストのダークグリーンがきゅっと引き締めている。細部まできらびやかな金糸の刺繍。光沢のある生地が朝の光にほんのり反射し、まるで魔法をかけられたかのように輝いていた。
そしてドレスの横に置かれた台にはキラキラと輝くシトリンのアクセサリーが置かれていた。
リリーナは息をのんでドレスを撫で、つい顔がほころぶ。
「やっぱり……すごくきれい……」
サラはそんなリリーナを見てにこりと微笑み、アクセサリーや靴の確認も手際よく進めていった。リリーナはワクワクしながら、舞踏会への期待を胸に膨らませた。
リリーナはトルソーのドレスに目を奪われていたが、ふと足元に視線を落とした。
「そうだ、靴も確認しなくちゃ……」
サラがすでに箱からいくつかの靴を取り出し、整然と並べてくれていた。しかし、そのどれもが少しヒールがある。名無しさんの警告を思い出すと、できれば今日はフラットのほうが安心だ。
「サラ、フラットシューズってなかったかしら?」
声をかけると、サラは少し驚いたように目を瞬かせた。
「まあ。いつもはヒールのほうをお選びになりますのに。もちろんございますよ。少しお待ちください」
そう言ってサラは、ドレッサー横の衣装棚――靴やアクセサリー専用の収納棚――を開け、丁寧に探り始めた。ほどなくして、淡いきらめきのあるサテンの靴を取り出す。
「こちらはいかがでしょう? ほとんどヒールがなくて歩きやすいですし、ドレスにもあいますよ」
「ありがとう、サラ。今日はこれにするわ」
リリーナは頷き、そっと靴を履いた。かかとが安定していることにほっとしながら、鏡の前を軽く歩いてみる。歩き心地も見た目も申し分ない。
そしてドレス、アクセサリー、そして靴――すべてが整った。
胸の奥で期待が高まりつつ、同時に名無しさんの警告が静かに緊張を添える。
(きっと大丈夫……)
リリーナはそっと深呼吸をし、胸のざわめきを落ち着かせた。そして舞踏会の時間までできるだけ心を穏やかに整えようと決め、ゆっくりと過ごすことにした。
あっという間に時は経ち、時刻はもう夕方。
陽が傾き、窓から差し込む金色の光の中で、サラをはじめとしたメイドたちが手際よくリリーナの支度を進めていた。
鏡に映る自分は、いつもよりもずっと華やかで、まるで光を纏っているかのように見える。
やがてサラが鏡越しににっこり微笑んだ。
「お嬢様、準備が整いましたよ。カイル様も玄関でお待ちです」
サラの声に促され、リリーナはゆっくりと全身鏡の前へ歩み寄った。
そこには、ペールグリーンのドレスを纏った若い淑女がいた。
淡い緑の生地に、ウエストの深いグリーンのリボンがしなやかな曲線を描き、全体をきゅっと上品に引き締めている。
金糸の刺繍は朝に見たときよりもさらに夕陽の色を受けてほのかな輝きを増し、スカート部分に重ねられたオーガンジーが光を柔らかく透かしながらふわりと揺れて軽やかだった。
耳元と首元では、カイルの瞳を思わせるシトリンのアクセサリーが繊細にきらめき、リリーナの表情を優しく縁取っている。
髪もメイドたちが丁寧に整えてくれていた。
繊細な編み込みが後ろで束ねられ、ふんわりとまとめたシニヨンへと流れ込むように仕上げられており、いつもの可憐さに落ち着いた気品が加わって、リリーナは自分でも驚くほど大人びた雰囲気をまとっていた。
「あなたたち、ありがとうね」
リリーナは胸の高鳴りを抑えながら部屋を出た。──カイルは、私を見てなんと言ってくれるだろう。そんな期待を胸に抱きつつ階段を下りていく。
そして玄関ホールへ足を踏み入れた瞬間、思わず息を呑む。
そこには、ダークグリーンの礼服に身を包んだカイルが立っていた。深い森を思わせる色合いが彼の長身をいっそう引き立て、胸元から肩へと流れる金糸の刺繍が、夕日の光を受けて柔らかく輝いている。
長めのダークブラウンの髪は、いつもより丁寧に整えられ、首の後ろで黒いリボンによってゆるくひとつに結われていた。動くたびにさらりと揺れる毛先が、彼の落ち着いた佇まいにどこか優しい色気を添えている。
そして胸元に留められたペリドットのブローチ。それは、リリーナの瞳の色を思って選んだ宝石だ。自分の色が彼の胸元に光っている――そう思うだけで、リリーナの胸がくすぐったく温かくなった。
カイルは、階段から降りてきたリリーナを見上げ、ほんの一瞬、息をのんだように目を見開くと、静かに、しかし確かな温度を込めて微笑んだ。
「リリーナ。とても綺麗だ」
「ありがとうカイル。あなたも、とても素敵すぎて……なんだか照れちゃうわ」
互いに照れたように微笑み合う。
ダリアとオリバーはすでに一台目の馬車へ乗り込み、出発の準備を整えていた。玄関前では、アイリスが両手を胸の前でぎゅっと握りしめて待っていた。
「お姉様、すっっごく綺麗! カイルお義兄様もかっこいいわ!」
ぱあっと花が咲くような笑顔に、リリーナの頬も自然とゆるむ。
「ふふっ……ありがとう、アイリス」
「私も行きたかったなぁ〜! お姉様、楽しんできてね!明日は絶対、舞踏会のお話聞かせてね!」
その明るい声が背中を軽く押すように響き、リリーナとカイルは二人で二台目の馬車へ向かった。
「行こうか、リリーナ」
「ええ」
カイルがそっと手を差し出し、リリーナはその手を取る。二人が馬車に乗り込むと、扉が静かに閉じ、御者が前方へ声をかけた。
アイリスはいつまでも手を振っている。
「いってらっしゃーい! 楽しんできてーー!」
馬車がゆっくりと動き出した。夕暮れの光が車窓を揺らし、胸の奥には舞踏会への期待がふくらむ。
けれどその奥底で、名無しさんからの警告が静かに脈打つように残っていた。
(大丈夫。ちゃんと気をつければ……)
そうそっと心の中で呟きながら、リリーナは揺れる馬車の中で小さく息を整えた。
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