第8話 警告
それから数日が過ぎた。
ルミナが仕上げの確認連絡を届けてきたり、家族と舞踏会の準備を進めたり――穏やかで、心躍る日々が続く。
そして、とある夜。
リリーナは部屋のソファに腰を下ろし、静かに本を読んでいた。すると、机の上のノートがふわりと淡い光を放った。
(……名無しさんだ!)
胸が跳ね、リリーナは本を置いてすぐにノートを開く。そこには見慣れたネイビーのインクで新しい文字が並んでいた。
『近々、ご両親が早朝に出かける予定がある?
もしその前日に大雨が降ったなら、
当日に天気が回復したとしても、その日は出かけないでほしい。』
一文一文を追うたび、胸の奥が冷たくなっていく。けれど、ただの冗談だとはどうしても思えなかった。
(どういうこと……?お父様とお母様に何かあるの……?)
名無しさんは、理由もなく不安を煽ったりする人じゃない。だとすれば――一体何を知っているのだろう。
リリーナは震える指でペンをつかんだ。
『両親の予定は聞いてみないとわからない……。
でもどういうこと? 何か知っているの?』
そう書き込んで、ページを見つめて待つ。だが、ノートはそれ以上何も語らなかった。返事のない白いページを見つめているうちに、不安が胸にじわりと広がっていく。
(……明日の朝、外出の予定聞いてみよう……)
そう思いながらベッドに潜り込むが、まぶたを閉じても落ち着かず、胸のざわめきだけが静かな夜を長くしていった。眠れないまま、夜はゆっくりと更けていく――。
翌朝。
ほとんど眠れぬまま迎えた朝は、まだほんのり薄暗い。
(早く、お父様とお母様に予定を聞かなきゃ……落ち着かないわ)
リリーナはじっとしていられず薄暗い部屋の中をゆっくりと起き上がった。軽く顔を洗い、髪を整えていると控えめなノックが聞こえる。
「お嬢様失礼致します……あら、もうお目覚めだったのですね?」
サラが驚いたように目を丸くする。
「うん。ちょっと早く目が覚めちゃって……」
「まあ。ではすぐにご支度をお手伝いしますね」
サラは慣れた手つきでブラシを取り、リリーナの髪を梳かす。リリーナはちょっとソワソワしながら鏡越しにその動きを見つめていた。
「サラ、お父様とお母様ってもう起きてる?」
思わず問いかけると、サラはブラシを止め小さく首を傾げた。
「起きていらっしゃいますよ。今の時間だと、お嬢様が朝食に向かう頃にちょうど一緒になるのではないでしょうか」
「……ありがとう」
そうして髪も整え着替えも終わったリリーナは、少し急ぐように階下へと向かった。
朝食の席に向かうと、ちょうど両親が揃ってテーブルについたところだった。パンの焼ける香ばしい匂いと、湯気を立てるスープが静かな朝を満たしている。
「おはようございます、お父様、お母様」
リリーナが席につくと、ダリアがにこやかに微笑んだ。
「おはよう、リリーナ。ずいぶん早いのね」
「うん……ちょっと早く目が覚めちゃって」
胸の奥は落ち着かず、言葉とは裏腹に心はそわそわしていた。
席につくと、リリーナは意を決して口を開く。
「ねぇ、お父様とお母様って……近いうちに早朝にお出かけする予定ってある?」
ふたりは小さく顔を見合わせ、不思議そうに瞬きをする。そしてオリバーが「ああ」と思い出したように頷いた。
「そういえば――四日後の早朝に、領地へ向かわないといけない用事ができてね。
少し急ぎだから、夜明け前には出ようと思っているよ」
ドキン、と胸が跳ねた。
(……名無しさんの言う通り……)
顔には出さないようにしても、心臓の音は隠せない。ダリアが不思議そうに首をかしげる。
「どうかしたの? 何か気になることでもあった?」
「う、ううん。なんでもないよ。ちょっと……気になっただけ」
ぎこちなく笑うと、両親はそれ以上は追及しなかった。けれどリリーナの胸のざわめきは、静まるどころかいっそう強くなっていった
それからの三日間、リリーナの胸の奥はずっとざわついていた。あれから名無しさんから何か聞けることはないかとノートに書き込んでみるも、返事はないようだ。
両親を止めるべきなのか、それとも自分の早とちりなのか。
予言なんて信じてもらえないに決まってるし、引き止める理由が思い浮かばない。もし違っていたら、ただのわがままになってしまう——。
(カイルに相談できたら……)
そう思うたび、ここ数日はカイルが急ぎの仕事に追われ、会えないことを思い出して、余計に不安が募った。
手紙を書こうかとも思ったが、彼の邪魔になるかもしれないと躊躇して、結局何もできずにいた。
そして迎えた前日の夜。窓に打ちつける雨音が部屋中に響く中、リリーナは眠れず、震える指でノートを開いた。
(やっぱり、名無しさんの言う通りだわ……)
明日の早朝、絶対に両親を引き止める。もし何もなかったとしても——そう決意し、眠れないまま夜は更けていった。
そして早朝。
メイドたちがまだ動き始める前の静かな時間、リリーナは自分で軽く身支度を整え、誰よりも早く居間へ向かった。
(……お母様たちは、まだみたいね)
胸元の布をぎゅっと握りしめ、リリーナは呼吸を整えながら両親の来るのを待つ。
昨夜の激しい雨が嘘のように止み、窓の向こうには澄みきった青空が広がっていた。
やがて、軽やかな足音が近づき、ダリアとオリバーが入ってきた。
「まあ、今日は早いのね。どうしたの?」
そして窓の外を見て微笑む。
「昨夜はあんなに雨がひどかったのに……今朝は快晴でよかったわ。これなら出かけられるわね」
その言葉に、リリーナの胸はきゅっと縮んだ。喉の奥がひりつくほど緊張していたが、勇気を振り絞る。
「ねえ、お父さま、お母さま……まだ出かけないで。一緒にいて欲しいの」
ダリアは一瞬きょとんとした顔で娘を見つめ、オリバーも同じように驚いた表情を見せた。
しかし、リリーナの瞳が怯えと決意に揺れているのに気づき、ふたりは詳しくは聞こうとせず、顔を見合わせて小さくうなずく。
「どうしたのリリーナ。昨夜の大雨で不安になったの?」
ダリアが安心させるように微笑みながら言った。
「……そうだね、今は晴れているとはいえ、昨夜雨がすごかったし道がぬかるんでるかもしれない。出発はちょっと様子を見てからにしようか」
オリバーもリリーナの頭を撫でながら言った。
ひとまず、早朝に出発するのを防げたことによりリリーナの張り詰めていた心が、少しだけほどけた。
昼前。家族四人は居間でくつろいでいた。
ダリアは編み物をしており、アイリスはその横で本を読んでいる。オリバーは新聞をめくり、リリーナは落ち着かないながらも皆のそばにいた。
――その静けさを破るように、慌ただしい足音とともに扉が叩かれた。
「失礼します! 緊急のご報告が!」
伝令の青年は息を切らしながら深く頭を下げ、報告を読み上げた。
「領土へ向かう街道で……大規模な土砂崩れが発生したとのことです!」
「なんだって?」
オリバーの表情が一気に引き締まる。すぐに立ち上がり、地図を持ってくるよう使用人に指示し、伝令へ向き直る。
「崩れたのは、どのあたりだ?」
伝令が地図のある一点を指した瞬間、オリバーは息を飲んだ。
「……この位置か。私たちが今朝通るはずだった街道だな……」
ダリアの手から編み棒が落ち、アイリスは目を大きくしてオリバーを見つめる。
オリバーは眉を寄せ、低い声で続ける。
「もし予定通りに出発していたら……巻き込まれていた可能性も高かった。……しばらく領地には戻れないかもしれないな」
ダリアが震えた声で夫の袖をつまむ。
「オリバー……どうしましょう。領地の皆さんは大丈夫かしら……?」
「このあたりは民家もないし、大きな被害は出ていないはずだ。ただ……早く復旧させないと、行き来する人たちが困ってしまうだろうね」
地図を見下ろしながら、オリバーは短く息をついた。その声音には、安堵と当主としての責任感が入り混じっている。
「すぐに必要な手配を進めてくるよ」
そう言って、オリバーは席を立った。部屋を出る直前、リリーナの頭を優しくひと撫でし、書斎へ向かっていった。
扉が閉まる音がしてから、ダリアがそっとリリーナの横に腰を下ろす。
「あなたが引き留めてくれなかったら今頃……なんて思っちゃうわね。詳しいことは聞かない方がいいんでしょう。でも、本当に……ありがとう、リリーナ」
母の手がそっとリリーナの手を包み込む。続くように、アイリスが反対側から抱きついてきた。
「お父様もお母様も無事でよかった……!」
ふたりの温もりに挟まれながら、リリーナは胸の奥の張りつめていた糸が緩んでいくのを感じた。
(名無しさんはこのことを言っていたんだわ。
でも……どうしてそんなことがわかったの……?)
不安と安堵、そして小さな疑問が入り混じったまま、リリーナはそっと母と妹を抱き返した。
屋敷が静けさを取り戻した夜。リリーナは一人、机にノートを広げていた。
今日、両親を止めることができていなかったら、巻き込まれていたかもしれない。よくて大怪我、最悪の場合……そう考えてリリーナはぶるっと身震いをした。
震える指でペンを取り、ゆっくりと書き始めた。
『名無しさん。今日、土砂崩れがありました。あなたのおかげで、両親が助かりました。本当に……ありがとう。』
そう書いて、しばらくリリーナは椅子に座ったままぼうっと天井をみつめていた。
やがて、ノートが淡く光るのが見えた。
『なんともなくてよかった。』
リリーナはその文字を見つめて、どうしても聞かずにはいられない疑問が、胸の奥で静かに形を取ったのを感じた。
『あなたは……一体、誰なんですか?』
ページはしばらく沈黙した。ランプの光が揺れ、影だけがゆらゆらと揺れている。
やがて。
『ごめんね、言えないんだ。でも、君の幸せを世界で一番願っている者だよ。』
その言葉を見た瞬間、ふっと胸が温かくなる。安堵と、寄せる波のような優しさが胸を満たし、視界が滲んだ。
『教えてはくれないのね。わかったわ、でも、ありがとう』
返事はなかった。けれど、ページに残された文字からは、ノートの向こう側にいる“誰か”の温もりが、かすかに伝わってくるようだった。
「……おやすみなさい、名無しさん」
リリーナはそっとノートを閉じ、その表紙を指先でなでる。それだけで、胸の奥のざわつきが少し和らいだ。
ランプの火を落とし、静まり返った部屋の中でベッドへ潜り込む。今夜は、ようやく穏やかに眠れそうだ――そう思った瞬間、まるで導かれるように、リリーナはすとんと深い眠りへ落ちていった。
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