第6話 花籠

 屋敷の玄関前で、リリーナはカイルへの贈り物にと、アレンジメントした花籠を抱えていた。

 気に入ってくれるといいな、そんなことを思いながら、花々の香りがふわりと広がり、心なしか胸も弾む。


 そこへ、軽やかな足音とともにヘレヴィアが現れる。

 

「まあ、素敵ね。あなたの手作り?」

「はい。いつもお世話になっているので……」

「ふふ、カイルも喜ぶわね」

 

 そう言いながら、ヘレヴィアは花籠を覗き込み、目を細めた。


「――ちょうどいいわ」

「え?」

「これ、私の母からカイルのお母様宛のお手紙なの。リリーナさん、届けてくださらない?」

「……私が、ですか?」

 

 リリーナは少したじろいだ。

 ヘレヴィアはにっこりと笑いながら、まるで当たり前のことのように言う。

 

「そう。お願いね」

 

 その瞬間、リリーナの腕から花籠がすっと抜き取られ、手紙を押し付けられていた。気づけばヘレヴィアがそれを軽やかに手に取って、にこやかに言う。


「こちらは私が預かっておくわ。すぐ戻っていらしてね」

 

 そう言うと、ヘレヴィアはリリーナの返事を待たずに玄関ホールの奥へと歩いていった。レースの裾が軽く揺れ、足音だけが遠ざかっていく。

 リリーナは手紙を両手に抱えたまま、しばらく立ち尽くした。止める間もなく去っていったため、ヘレヴィアに手紙を返すことができなかった。手の中の封筒がやけに重く感じられる。人の手紙を雑に扱うわけにもいかず、リリーナは小さく息を吐いた。

 そして、胸の奥のもやを押し隠すように背筋を伸ばし、リリーナはカイルの母のもとへと歩き出した。


 廊下を進むあいだも、胸の中に残る小さな違和感。


 手紙を無事にカイルの母へ届け終えたあと、

リリーナは胸の前で小さく息を吐いた。


「……よし」


 ひとつ肩の力を抜いてから、カイルのいるはずの中庭へと足を向ける。

 

 屋敷の裏手に回ると、陽光がやわらかく降り注ぐ中庭が見えた。白いテーブルの上には紅茶のカップが二つと、リリーナの準備した花籠。向かい合って座るカイルとヘレヴィアが、親しげに言葉を交わしている。

 その光景を見た瞬間、リリーナの足が自然と止まった。遠くで響く笑い声は、なぜか胸の奥をかすかに締めつけた。

 花籠を預けたままにしておくわけにはいかない。リリーナはそっと息を整え、微笑みをつくってテラスへ歩み寄った。


「カイル」


 カイルが顔を上げ、ぱっと表情を明るくする。


「リリーナ、戻ってきたんだね。用事はもう済んだ?」

「えぇ。もう大丈夫よ」

「よかった」


 カイルがほっとしたように微笑む。そのそばで、ヘレヴィアも優雅にカップを置いた。


「まあ、ちょうどいいところに戻っていらしたのね」

 

 そう言ってヘレヴィアは、すっと立ち上がる。


「リリーナ様もいらしたことですし、私はそろそろ失礼するわ」 

「もう帰るのかい?」

 

 カイルが尋ねると、彼女は柔らかく微笑んで首を振った。

 

「ええ。長居してしまうのも悪いもの。今日はお顔を見られて嬉しかったわ」

 

 そう言って、リリーナへと視線を向ける。

 

「お手伝いありがとう。あなたがいて助かったわ」

「いえ、とんでもありません」

 

 リリーナは穏やかに微笑み返す。


 ヘレヴィアはレースの裾を揺らし、優雅に一礼してテラスを後にした。

 その背が見えなくなってから、カイルは小さく息を吐いた。春風がテラスを抜け、花の香りがやわらかく揺れる。

 

「……リリーナ、少し休もうか。紅茶を淹れるよ」

「ありがとう」

 

 リリーナは微笑みながらも、テーブルの上の花籠に視線を落とした。淡い花びらが陽を受けてきらめいている。

 

 どうしても、その花籠が気になってしまう。

 

 それは、リリーナが自分の手で整え、直接カイルに渡すつもりでいたものだ。

 カイルのそばにあるということは……預かっておくと言っていたヘレヴィアが、代わりに渡してしまったのだろうか。

 確かめたい。なのに、どうしても喉の奥で言葉がつかえてしまい、声にならなかった。

 リリーナの視線が花籠に落ちていることに気づいたのか、カイルが穏やかに声をかけてきた。


「この花籠かい? さっきヘレヴィアに貰ったんだよ。なんとなく、リリーナが好きそうな花だなって思ったけど」


 にこりと微笑むカイルの横で、花籠の中の花がふわりと揺れる。


(……そういうこと、なのね)


 胸の奥がかすかにきゅっとなる。けれど、表情には出さず、リリーナは小さく頷いた。


「そういえば、さっきは母様に用事があったんだって? 何かあったの?」


 カイルの何気ない問いに、リリーナは一瞬だけまばたきした。その短い間に、すぐ理解してしまう。――ヘレヴィアは、自分がリリーナに“手紙を押し付けた”ことを、カイルには話していない。


(……やっぱり、言っていないのね)

 

 胸の奥でそっと呟き、リリーナはそれを悟られまいと微笑んだ。


「え、えぇ。もう大丈夫よ」


 そう答えながらも、喉の奥には、小さな棘がまだ静かに刺さったままだった。

リリーナは胸の奥に残るざわつきを押し込めるように、そっと紅茶を一口含んだ。あたたかさが喉を通り、やわらかな香りがふわりと広がる。相変わらず、美味しい。

 甘い焼き菓子の香りと合わさって、心がほっとほどけていく――はずだった。

 けれど、どうしても先ほどのモヤモヤが消えてくれない。


 花籠のこと。

 そして、ヘレヴィアから押し付けられた手紙のこと。


 どちらも小さな出来事だ。

 けれど、他人から向けられたささやかな悪意は、思っている以上に鋭く、胸の片隅に突き刺さったままだった。


 とはいえ、わざわざ「それは私が準備しました」と告げるのは、まるでヘレヴィアを責めるようで気が引ける。

 口にしてしまえば、きっと棘のある言い方になってしまう。

 人のことを、できるなら悪く言いたくはなかった。

 

(……まぁ、ちゃんとカイルの元に届いたのだから、それでいいわ)

 

 そう自分に言い聞かせて、リリーナは目の前のお菓子を手に取った。

 

「このタルト、とても美味しいわ」

 

 黄金色の生地に、淡い花びらのように並べられた果実。一枚一枚が、まるで春の陽だまりの中でゆっくりと開く花のようだった。リリーナは思わず笑みを綻ばせる。

 

「タルト・フロレアって言うんだ。最近、街で流行ってるらしくてね。季節の果物を使うから、見た目も味も少しずつ変わるんだ」

「花の色が季節で変わるみたいで、素敵ね」

「リリーナは花が好きだから、きっと気に入ると思って。見た目もきれいだけど、味もやっぱり美味しいね」

 

 二人は小さく笑い合った。

 他愛もない話をしながら、リリーナは胸のざわめきが少しずつ溶けていくのを感じる。けれど、テーブルの上の花籠がふと視界に入るたび――言葉にできない感情が、そっと残った。

 しばらく二人でタルト・フロレアを味わいながら語らっていたが、ふと、静かな間が落ちた。カイルがカップを置き、花籠へと視線を戻す。

 

「ねぇ、変なことを聞くかもしれないけど……この花籠、もしかして用意したの、リリーナじゃないかい?」


 その質問に、どう答えるべきか、ほんの一瞬だけ迷った。

 けれど、カイルに嘘をつく必要はないと思えて、リリーナは静かに言葉を選んだ。

 

「……ええ。実は、カイルにぴったりだと思ってお花を選んだの……。でも、ちゃんと届いたなら、それでいいわ」

 

 穏やかな声に、カイルは目を細めた。その優しい眼差しに、リリーナも思わず小さく笑む。


「……ちょっとだけ驚いたけれど。でも、カイルがすぐに気づいてくれたから、なんとも思ってないわ」


 カイルは少し申し訳なさそうに眉を下げた。

「……ごめん。昔はあんな感じじゃなかったんだけどな」

「そうなの?」

「うん。子どものころはもっと明るくて、気のいい子だった。でも、いつの間にか距離ができてしまって……」


 そう言いながら、彼はふっと優しく微笑んだ。

「とにかく、君に嫌な思いをさせたくない。ちゃんと気をつけるから」


 その言葉に、リリーナの胸がふわりと温かくなる。そっと頷き、穏やかな微笑みを返した。


 その夜、リリーナは机の上にノートを広げた。部屋には灯りがひとつ、柔らかく揺れている。今日の出来事を静かに思い返しながら、ペンを取った。


『――このようなことがあって、少し戸惑ったけれど……

ちゃんと気づいてくれたの。

名無しさん、私は大丈夫よ。』


 小さく息をついて、ページを閉じる。

 あれからノートの名無しさんからは返事は減ったが、リリーナはちょくちょくその日にあったことをノートに書いていた。たまにだけれど、返事ができるときに、気が向いたら返事を書いてくれたら嬉しいな、そう思いながら。

 

 ヘレヴィアのことが、まったく気にならなかったわけではない。

 それでも――カイルが自分を大切に思ってくれていることは、確かだった。


 窓の外では、今夜も星が穏やかに瞬いている。


 胸の奥に残る小さなもやをそっと胸にしまい込み、リリーナは静かにランプを消した。

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