第5話 彼の幼馴染
リリーナが居間に入ると、すでにダリアとオリバー、そしてアイリスがそろって座っていた。
優しい視線が向けられ、リリーナの胸の奥がふわりと温かくなる。
「ただいま帰りました。お母様、お父様、アイリス……ちょっとお話があります」
少し照れながらも、リリーナはまっすぐに言葉を続けた。
「カイル様から、婚約を申し込まれました。私、お受けするつもりです」
ダリアは目を細めて微笑む。
「まあ……それは本当に素敵なことね、リリーナ。おめでとう」
オリバーも柔らかい笑みを浮かべ、頷いた。
「うん、よかったな。両家でも話をしておかないとな」
アイリスは思わず身を乗り出し、声を弾ませた。
「お姉さま、本当に!? おめでとう!」
リリーナは少し照れた笑みを返す。
「ありがとう……」
居間には家族のあたたかな笑顔と声が広がり、婚約の話に花が咲く。リリーナは家族のあたたかさに包まれながら、穏やかな時間を過ごした。
やがて夜も更け、家族がそれぞれの部屋へ戻ると、リリーナも自分の部屋へ向かった。ひとりになった静かな部屋の中で、リリーナはそっとノートを開いた。
『今日、春祭りに行ってきました。ランタンの光がとても綺麗で、心が躍ったわ。
そしてなんと、彼と婚約することになりました。』
返事はないだろうと思いながら、書き終えたペンを置く。けれど、すぐにページがほのかに光り、見慣れた深いネイビーブルーの文字が浮かび上がった。
『婚約は、やめたほうがいい。』
その一文を見た瞬間、リリーナの胸がざわめいた。これまで何度カイルの話を書いても、ノートがこんな警告を返してきたことはなかった。
少し震える手で、リリーナはペンを取る。
『どうして? いきなり何を言うの?』
『あの男は君を不幸にする。婚約しちゃ、だめだ。』
『そんなこと……あなたに彼の何が分かるの?』
『知ってるさ。この世の誰よりも。』
ページに浮かぶ文字を見つめながら、リリーナの心は揺れていた。――もしかして、ノートの名無しさんはカイルの知り合いなのだろうか?けれど、カイルはいつだって誠実で、やさしくて……そんなふうには到底思えない。
リリーナは小さく息を整え、ペンを動かす。
『ごめんなさい。あなたは大事な友人だけど、私は彼が好き。だから、これだけは譲れないわ。』
しばらくして、また新しい文字が浮かぶ。
『……そう。けれど、どうか考え直してくれ。』
ページの光がゆらりと揺れ、静けさが戻る。リリーナはその文字を見て、深く息をついた。
『今はお互い冷静じゃないわ。また書くわね。おやすみなさい。』
リリーナは返事を見ずにノートを閉じた。淡い光が名残のように瞬き、やがて消えた。部屋が急に広く感じる。
リリーナはその静けさに包まれて言いようのない不安を抱いたまま、ゆっくりと灯りを落とした。
婚約からしばらくが経ち、リリーナとカイルは互いの屋敷を行き来しながら、穏やかな日々を過ごしていた。
仕事や家の用事に追われない日には、どちらかの屋敷でのんびりと時間を共にする――それは、いつのまにかふたりの習慣になっていた。
ある日は、カイルの屋敷の庭で一緒に花の手入れをしていた。春の陽射しを受け、色とりどりの花々がやさしく揺れている。
時には街へ出かけ、通りのカフェでお茶を飲んだり、並んで市を歩いたりもした。カイルは人々に気さくに挨拶しながらも、リリーナを気遣うようにそっと隣を歩く。そのたびに、彼の誠実さと優しさをあらためて感じ、胸の奥がじんわりと温かくなる。
日々は穏やかに流れ、互いの距離は少しずつ近づいていった。
特別な出来事がなくても、隣にいるだけで心が満たされるような――そんな静かな幸福がそこにあった。
その日も、リリーナはカイルの屋敷を訪れていた。風がやわらかく吹き込み、窓際のカーテンをふわりと揺らす。テーブルの上には、カイルが用意してくれた焼き菓子と紅茶。穏やかな午後の時間だった。
「街の花市で新しい苗を見つけて買ってあるんだ。あとで一緒に見に行こう」
「ほんと? どんな花かしら、楽しみ」
そう言って笑い合ったそのとき、扉がノックされた。
「カイル様。お客様がお見えです」
「お客様?」と首をかしげたカイルは、使用人の耳打ちに少し驚いたように目を瞬かせた。
「……ヘレヴィアが?」
名を呼ぶと同時に、扉が開いた。淡い栗色の髪を揺らしながら入ってきた女性は、優雅に一礼した。
「お久しぶりね、カイル。覚えていてくれたかしら?」
「もちろん。まさか戻ってきていたなんて思わなかったよ」
ヘレヴィア、彼女はベネット伯爵家の御令嬢でカイルの幼なじみだという。しばらく親族のもとで暮らしていたが、久しぶりに戻ってきたらしい。
「噂は聞いているわ。初めまして、カイルとは小さい頃からよく一緒に過ごしていたのよ。ご婚約、おめでとうございます」
やわらかく笑むその表情に、リリーナも微笑み返しながらお礼を言った。
「あ、ところで今日は何しに……母に用事?母なら父の書斎にいると思うよ。――じゃあ、リリーナ。そろそろ苗を見に行こうか」
カイルが立ち上がる。ヘレヴィアのほうを気遣うより、当然のようにリリーナを優先する声色だった。
ヘレヴィアの笑みが一瞬だけ固まる。
「せっかく久しぶりに会ったのに、少しくらいお茶でもしましょうよ?」
「ごめん。今日はリリーナとの約束があるんだ。また今度にしてくれる?」
きっぱりとしたカイルの返答に、ヘレヴィアの笑みがわずかに引きつる。
「で、でも……ほら、リリーナさんともお話ししたいし。ねえ、リリーナさん?」
「えっ……」
突然向けられた視線に、リリーナは一瞬戸惑った。断る理由はある――けれど、この空気の中では、なぜかそれが難しかった。どうしよう、ほんの少しだけなら…
「カイル、お久しぶりの再会のようですし、少しだけお茶をしませんか?」
そう口にした途端、ヘレヴィアの口元に柔らかな笑みが戻る。
「ありがとう。嬉しいわ」
カイルは小さく息を吐き、リリーナの方を見た。その目には「無理をしていないか」と問いかけるような静かな優しさが宿っていた。
リリーナはそっと微笑み返し、かすかに首を横に振った。
紅茶の香りが静かに立ちのぼる。そんな中、ヘレヴィアがふと微笑み、まるで何気ない会話を切り出すように口を開く。
「ねえ、リリーナさん。カイルって、優しいでしょう?」
リリーナは少し驚きながらも頷いた。
「……はい。とても」
「ふふ、やっぱり。昔からなのよ」
ヘレヴィアはどこか誇らしげに微笑み、懐かしむように続ける。
「私が熱を出して寝込んでいたとき、わざわざ裏山までお花を摘みに行ってくれたことがあったの。“これで元気になるだろう”って、まだ小さな手で渡してくれたのよ」
その声にはやわらかい響きがあったけれど、
リリーナにはどこか「あなたは知らないでしょう?」という色が混ざっているように感じられた。
「そんなこともあったっけ?」
カイルは首をかしげ、少し考えるように目を細めた。
「もう、忘れたの? あったじゃない、あなたが六歳のころよ」
ヘレヴィアは小さく笑い、懐かしむように目を細めた。
「ほら、あの……薄い紫色の花。あれを摘んで来てくれたでしょう?」
「ああ――」
カイルの表情がふっと明るくなる。
「覚えてる。庭師のおじいさんにもらったんだよ。“病気の人に渡すと元気になる”って言われてさ。俺、君のお兄さんと届けに行ったんだ」
「……そ、そうだったかしら」
ヘレヴィアの笑顔が一瞬だけ固まる。
「思い出しましたわ。お兄様ったらノックもせずに扉を開けて大声で泣いて……まったく、ただの風邪だったのに」
「ふふ、君のお兄さん、君のことをとても大事にしているもんね」
カイルの言葉に、ヘレヴィアは眉間に皺をよせ、記憶を辿る。ふとリリーナと視線が合い、ヘレヴィアは少しはっとした。小さく咳払いをして、表情を整える。
リリーナはその会話に柔らかく微笑みを添えつつも、胸の奥に小さな棘のような感覚を覚えていた。
その後も、ヘレヴィアの口からは次々と幼いころの思い出が語られる。森で迷ったこと、雨の日に傘を貸してもらったこと、ピクニックにでかけたこと――。どれも穏やかな語り口ではあったが、どこかリリーナの知らない“特別な時間”を描き出すように響いた。
やがて、窓の外の光がゆるやかに傾き始めると、カイルは軽く時計に目をやり、穏やかに口を開く。
「……そろそろ行こうか、リリーナ。約束していた苗を見に行こう」
その声に、リリーナの胸が少しだけ温かくなる。ヘレヴィアが何か言いかけたように見えたが、カイルは優しく微笑み、立ち上がった。
「ヘレヴィア、また今度ゆっくり話そう。今日はありがとう」
ヘレヴィアは微笑を保ちながら頷いたが、その瞳の奥にほんの一瞬だけ影が差したように見えた。
屋敷の裏庭に出ると、春の名残を残した花壇の向こうに、苗の並ぶ温室が見えた。
リリーナとカイルは並んで歩き、小さな芽を指先でそっと撫でる。
「この子たち、来週には植え替えかしら」
「うん、元気に育ってくれるといいね」
カイルが微笑む。その優しい横顔を見つめながら、リリーナは少しだけ迷った末に口を開いた。
「……さっきの方、ヘレヴィアさんとは仲がいいの?」
カイルは一瞬考え込むように視線を上げ、やがて肩の力を抜いて答える。
「幼なじみだよ。屋敷が近くて、小さいころは兄やヘレヴィアのお兄さんと一緒によく遊んでたんだ」
「そうなんですね」
「でも最近は全然会ってなかったよ。たまに、ヘレヴィアのお母さんがうちの母に用事で来るくらいかな」
穏やかに笑うカイルの声には曇りがなく、リリーナは胸の奥に残るひっかかりをそっと押し込み、彼の隣でまた小さな苗に目を向けた。
それからというもの、カイルと会うたびに、なぜかヘレヴィアと顔を合わせることが増えていった。
ある日は街角で偶然出会い、また別の日には、ふたりで計画していたピクニックに、当たり前のように同行することになっていた。
「たまたま近くに来ていたから」と笑う彼女に、カイルが断ろうとしてくれたものの、ヘレヴィアはなかなか引き下がらない。
そしてリリーナもまた、無理やり拒むのは大人気ないような気がしてしまい、結局受け入れるしかなかった。
――そして今日も、まるで当然のようにその姿があった。
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