第4話 春祭り

 次の日の朝。リリーナの部屋の窓辺には、カイルにもらったチューリップとラナンキュラスの花束が飾られていた。花々はまだしっかりと咲き、春の香りをやさしく漂わせている。

 リリーナは窓のそばに腰を下ろした。目の前の花を見つめながら、昨日のことを思い出すと胸の奥がほんのりあたたかくなる。

 植物園での会話、柔らかな風、そしてあの照れた笑顔――


(楽しかったな……。そしてやっぱり、素敵な人だった。)


 幸福な余韻に浸りながら、ふと、昨夜ノートをしまった机の引き出しに視線を向けた。

 最近は文字のやり取りが少し短くなった。ノートの名無しさんも忙しいのだろうか……。

 ほんの少し前までの、夜遅くまで続く会話に眠れなくなるほど夢中になった日々を思い出すと、少し寂しさが胸をよぎった。


 そして――その日の夜。ノートを開くと、文字が淡く浮かんだ。


『こんばんは。少し忙しくなってしまって、しばらくはあまり書けないかもしれません。でも、返せる時は返すから待っててくれると嬉しいです』


 リリーナはその文字をなぞるように読み終え、胸がきゅっと締め付けられた。昨日まで毎晩のように続いていたやり取りが、少し遠くなる――そんな予感に、ほんの少し寂しさが胸を掠める。

 けれど、ただ返信が途絶えるのではなく、こうしてあらかじめ言葉を尽くしてくれた彼の誠実さが、何より嬉しかった。


『もちろん。無理しないでね。あなたの文字を読むの、いつでも楽しみにしてるわ』


 書き終えてそっとノートを閉じると、開いた窓の隙間から、静かな夜風がふわりと吹き込んできた。

 風はリリーナの髪を優しく揺らし、窓辺に飾られた花の香りを、部屋いっぱいに運んでくる。

 リリーナは静かに息を吐き、柔らかく微笑んだ。

 

(……きっと、またすぐにお話しできる日が来るわ)


 その想いを胸に、彼女は窓辺のチューリップを見つめる。

 月の光がカーテン越しに差し込み、花がやさしく光っているように見えた。

 

*****

 

 リリーナは鏡の前に立ち、メイドのサラに髪を整えてもらっていた。明るいオレンジのリボンでまとめられた髪が、朝の光を受けてやわらかく輝く。

 仕上げに小さな花飾りをそっとつけると、サラがにっこりと微笑んだ。

 

「とてもお似合いですよ、お嬢様。今日もきっと素敵な一日になりますね」

「ありがとう、サラ。……ちょっとドキドキしてきちゃった」

 

 今日は植物園以来の、待ちに待ったカイルとのお出かけの日だ。

 胸の高鳴りをそっと抑えながら、リリーナは鏡の中に映る自分をじっと見つめた。

 そこには、少し緊張した表情の自分がいて、思わず小さく息を整える。


 そして、鏡の中の自分に向かって、にこっと微笑んでみた。

 ぎこちない笑顔に、すぐにもう一度。今度は、ほんの少しだけやわらかく。


(……よし)


 そう心の中でつぶやき、笑顔の練習なんてしている自分に気づいて、リリーナは照れたように、くすりと笑った。


 その様子を少し離れたところから見ていたサラが、やさしく声をかける。


「ふふ……とても素敵な笑顔ですよ、リリーナ様」


 不意に言われて、リリーナははっとして振り向いた。


「み、見てた……?」

「はい。相変わらず可愛らしいことをなさるな、と思いまして」

「も、もう……!」


 顔を赤らめるリリーナに、サラはくすりと笑う。


「さあ、そろそろお出かけのお時間ですね。きっとカイル様もお待ちですよ」


 サラに促されて部屋を出る。

 階下へ降りると、ちょうどカイルが到着したところだった。

 階段の上からは、妹のアイリスがこちらを覗き込み、にやにやしながら手を振っている。


「お姉さま~! 今日も可愛い! 楽しんでね!」

「もう、アイリスったら……!」


 顔を赤らめて振り返るリリーナの隣で、カイルは少し照れたように、静かに笑った。

 

 *****

 

 街はもうすぐ訪れる春祭りの準備でにぎわっていた。色とりどりの花飾りを売る露店、夜に飾るランタン、楽団の奏でる軽やかな音楽。通りには香ばしい焼き菓子の匂いが漂い、街全体が、春の訪れと豊穣を祝う活気に満ちている。

 リリーナとカイルは並んで歩きながら、通りの景色をゆっくりと楽しんでいた。

 

「このティーカップ、模様が素敵だわ」

「うん、繊細な模様がすごく上品だね」

「こっちの色味も素敵。深い藍色……」

「本当だ。夜空みたいとても綺麗だ」

 

 会話を重ねるうちに二人の距離は自然と近付いていた。

 時折笑みを交わしながら、ゆっくりと通りを進んでいく。

 

 しばらく歩いたところでカイルがふと足を止め、にっこりと微笑む。

 

「ちょっと休憩しないかい?」

 

 カイルが指さした先には、古い石造りの壁にツタが絡む、小さな紅茶店があった。窓辺から漏れる温かな灯りに誘われるように、二人は自然と店の中へと足を踏み入れた。

 植物がたくさん飾られた店内は、紅茶の香りと甘い焼き菓子の香りがやさしく混ざり合い、どこか懐かしいぬくもりに包まれている。

 

 窓際の席に腰を下ろすと、リリーナは季節の花のブレンドティーを、カイルはベリーとローズヒップのフルーツティーを選んだ。

 ほどなくして運ばれてきたカップからは、やわらかな花の香りがふわりと立ちのぼる。

 

「すごくいい香り……」

「こっちのフルーツティーも、香りがすごくいいよ」

 

 そう言ってから、カイルは少し間をおいて、照れくさそうに言葉を続けた。

 

「そういえばこの前、リリーナ嬢に教えてもらったオレンジとミントのフルーツティーを家で試してみたんだ」

「まあ……お口にあったかしら」

「すごくおいしかったよ。甘さと爽やかさのバランスがよくてさ。今じゃすっかり、一番のお気に入りになってる」


 穏やかな笑顔を向けられて、リリーナの胸の奥がじんわりと温かくなる。


「気に入ってもらえて、うれしい……」

「うん。香りを嗅ぐとね……なんだか気持ちが落ち着くんだ」

 

 カップの縁から立ちのぼる湯気が、二人の間にやわらかく流れた。

 

 それから二人は、取り留めのない話をしながら、穏やかな時間を過ごした。紅茶を飲み終えるころには、店の外の光がゆるやかに傾きはじめている。

 店を出た後も、リリーナとカイルは街を少しだけ歩いた。露店をのぞきながら、また他愛もない話を交わす。時間はゆっくりと流れ、気づけば夕暮れの光が街角をやわらかく染めていた。

 

 別れ際、馬車の前でカイルは少し緊張した面持ちで立ち止まり、丁寧に頭を下げる。

 

「今日も楽しい時間をありがとう。あの……もしよかったら、春祭り、一緒に行けないかな?」

「もちろん。私も、ご一緒できたらいいなと思っていたの」

 

 視線が重なり、思わず笑みがこぼれる。また次がある――その事実が、リリーナの胸をそっとあたためた。


――その夜

 部屋に戻ったリリーナは、そっとノートを開いてみるが、やはりそこには何の文字も浮かんでいなかった。

 

(……やっぱり、今日も忙しいのね)

 

 いつもの万年筆を取り、リリーナは静かにページへ文字を綴った。

 

『こんばんは。今日は街を歩いて、素敵な紅茶を飲んだの。

 お花の香りのブレンドティー、とても癒やされたわ。

 お仕事、がんばってね。体調に気をつけて。』

 

 書いた文字を指でなぞり、しばらく待つ。

 けれど、その下に新しい文字が浮かんでくる気配はない。リリーナはほんの少し肩を落とし、ノートをそっと閉じた。

 窓の外では、春の夜風が静かに木々を揺らしている。紅茶の余韻がまだ胸の奥に残るまま、リリーナはベッドの灯りを落とした。


*****

 

 それから数日。

 夕暮れ、街は淡い花の香りとともに彩られていた。家々の軒先には、花びらを模した小さなランタンが吊るされ、風に揺れるたびに、やわらかな光が通りを優しく照らしていく。

 リリーナは家族に見送られ、カイルと連れだって祭りの通りを歩いていた。通りには音楽が流れ、子どもたちの笑い声が花の香りに溶けていく。

 人々の胸元や手首には、草や花で編まれた飾りが揺れ、まるで街全体が春の花畑のようだった。

 

「かわいい……」


 リリーナが立ち止まった店先には、香草の葉や花で編まれたブレスレットや小さなコサージュが並んでいた。


「お祭りの間、こういうのを身につけると幸せになるって言うよね」


 カイルはそう言いながら、白い花びらを繊細に編み込んだブレスレットを手に取る。

 そして迷いなく購入すると、リリーナの手首にそっと巻きつけてくれた。


「わぁ……ありがとう。とても、きれい」


 リリーナがブレスレットを見つめながらうれしそうに微笑むと、カイルは少し照れながら、同じ花を使った小さなコサージュを手に取った。


「じゃあ……僕はこれを」


 そう言って自分用に購入し、胸元にそっと留める。 

 

「お揃い……」


 つい口にしてしまったリリーナの言葉に、カイルは一瞬だけ驚いたように目を瞬かせ、それから柔らかく笑った。


「……そう。君とお揃いにしたいなって思って。……迷惑だったかな?」


 少し照れたように笑う声はどこか不安げで、その優しさが胸の奥にふわりと広がる。


「迷惑なんて……。お揃い、とってもうれしいわ」


 リリーナがはにかみながらそう告げると、カイルはほっとしたように、そして嬉しそうに笑った。

 

 夜の帳が降りるころ、街の中心通りには無数の灯りがともり始めた。花々をかたどったランタンが、まるで無数の星のようにキラキラと輝いている。

 

 やがて、静かな笛の音に合わせて白と淡い緑の衣をまとった子どもたちが通りの奥から現れた。腕には花びらの入った籠を抱え、歩きながら空へとまいていく。ひらひらと舞い上がる花びらが、灯りを受けて金色に光った。

 その後ろからは、花の形をした小さなランタンを手にした子どもたちが続く。さらに、オリーブの小枝に小さなランタンを吊るしながら歩く子もいて、そのやわらかな光が通りを彩り、豊穣と春の訪れをそっと告げているようだった。

 

 ゆらゆらと揺れる灯と淡い香りが、風に乗って街全体に広がる。足元には、撒かれた花びらが絨毯のように広がっていった。

 

 ――春祭りの夜を締めくくる「精霊の行列」。王都では、この夜だけ“本物の春の精霊”が姿を見せると言い伝えられている。春の精霊は気まぐれに人々の心を見つめ、優しき想いを抱く者にだけ春の加護を授けるという。

 

 リリーナとカイルは、通りから少し外れた噴水広場の片隅に立っていた。

 肩を並べ、言葉を交わすこともなく、ゆっくりと進んでいく光の列を見つめている。

 

 そのとき――ひときわ強い風が吹き抜けた。

 

 花びらが空へ舞い上がり、二人のまわりをくるりと包み込んだ。

 強い風にあおられ、リリーナとカイルは思わず目を閉じる。

 

 次の瞬間、舞い上がった花びらが淡い光をまとい、人の形を描く。それはまるで、春の精霊たちが二人のそばに降り立ったかのようだった。

 光の花びらがそっと肩や髪に触れ、やわらかく溶けていく。その光は一瞬のうちに風とともに散っていった。

 

 リリーナとカイルが目を開けたとき、そこにあったのは、風に揺れる花びらと静かな夜の気配だけだった。

 二人はただ、舞い散る花びらの空を見上げたあと、顔を見合わせて微笑み合った。理由はわからないけれど、胸の奥がやさしく満たされていた。

 

 優しい灯と笑い声に包まれた街を後にして二人は川辺を歩いて行く。

 水面には、花の形をした小さなランタンがいくつも浮かび、風が通るたびに光が波紋のように広がっていく。遠くで聞こえる祭りの音も、今はもうやさしい響きに変わっていた。

 やがて橋に辿り着くと、二人はしばらく言葉もなく並んで立ち、夜の冷たい空気と、春の香りを静かに感じていた。


 カイルが小さく息を整える。


「……リリーナ嬢。今日を境に、あなたの笑顔を、これからもずっと見ていたいと思いました」


 その声は澄んでいて、どこまでもまっすぐだった。


「どうか僕と、婚約していただけませんか」


 川面の光が二人の間でゆらめき、春の風がやわらかく頬を撫でていく。

 リリーナは胸の奥にあふれる思いをそっと抱きしめ、微笑んだ。

 

「……はい。よろしくお願いします」


 その言葉を口に出した瞬間、カイルの表情がぱっと綻んだ。

 抑えようとしても抑えきれない嬉しさが、その微笑みににじみ出る。そしてそっと息を整えながら遠慮がちに言葉を続けた。

 

「……あの、手を、繋いでもいいかい?」


 リリーナは驚いたように目を瞬かせ、それからふっと笑みをこぼした。


「ふふ、もちろん。私も――繋ぎたいと思ってたの」

 

 そっと伸ばした手が重なり、指先が触れた。夜風が通る中、手のぬくもりが自然に伝わり、二人は顔を見合わせて微笑んだ。


 だんだんと祭りも終わりの気配を帯びはじめていた。

 リリーナとカイルは夜風に混じる笑い声や、遠くから響く音楽を静かに聴いていた。川面には花灯の光が流れ、きらめきながら祭りの余韻を映しているかのようだ。

 二人は時おり言葉を交わしながらも、繋がれた手はそのままに、ただその穏やかな時の流れを静かに味わっていた。

 

 やがて、帰る時間が近づく。二人は名残惜しさを胸に、そっと馬車へと乗り込んだ。

 祭りに向かうときは向かい合わせだった席も、帰りは自然と並んで座っていた。肩と肩が触れあう距離――そのぬくもりが、どこかくすぐったく、けれど心地よい。

 窓の外を流れる街の灯が、ゆっくりと遠ざかっていく。リリーナはふと横を見やり、隣にいるカイルの静かな横顔をそっと見つめていた。

 

 馬車はリリーナの家の前に止まった。カイルが先に降りて手を差し出し、リリーナはその手を取ってゆっくりと外に出る。


「今日はありがとうございました」

「いえ、こちらこそ。あの、また改めて連絡するよ。おやすみなさい、リリーナ嬢」

「おやすみなさい、カイル様」


 カイルが少し恥ずかしそうに目を伏せながら言った。


「……やっぱり、最後にもう一つだけ。よければ、リリーナと呼んでも? 僕のことも、カイルと呼んでくれると嬉しい」


リリーナは一瞬、胸が高鳴るのを感じ、頬をわずかに赤らめる。


「はい……わかりました、カイル」


 二人は自然な笑みを交わす。しばらく手を握ったまま見つめ合っていた。

 そしてそっと、手を離す。リリーナは名残惜しさを感じながらも、手のひらに残る温かさがじんわりと心を満たすのを感じた。

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