月を見る、月を割る

甘牛屋充棟

月を見る、月を割る

『今日は十五夜ですが、こちら東京新宿はあいにくの雨模様。今夜は関東全域で雨か曇りになる見込みで――』


 居間のテレビから流れてくる声を聞いて私は顔を上げた。


「おっと、もうこんな時間か」


 無意識にかがめていた腰を伸ばしながら、私は顔をしかめる。還暦を過ぎてから少しの間同じ姿勢でいるだけでも体が痛むようになった。歳はとりたくないものだ。

 さておき、この番組でお天気中継が始まっているということは、もうすぐ午後7時。そろそろお呼びがかかる頃だが……


「あなたー?」


 ほらきた。縁側から妻の声が聞こえる。


「あなたー? 支度はまだですかー? 月がちょうどいい頃合いですよー?」


「はいはい、もうすぐ終わるよー。ちょっと待っててくれー」


 縁側まで聞こえるように大声で言いながら、私は目の前の皿に視線を落とす。台所のカウンターに置かれた皿の上では、山型に積まれた里芋がホカホカと湯気を立てていた。


「うん。いい出来だ」


 思わず自画自賛の言葉がこぼれる。今日は結婚してから30年間欠かしたことのない月見の日だ。気合が入るのも当然である。

 里芋の皿をお盆の上に移す。お盆にはすでにお猪口と酒が注がれた徳利が二組並んでおり、給仕される時を待っていた。


「肴と酒は準備完了っと。さて、それじゃあ私も支度するか」


 里芋は少し冷めてからの方が美味い。それに私も身支度を整える必要がある。妻には悪いが、もう少しだけ待ってもらうとしよう。


 お盆に虫よけのカバーをかけると、自室に向かった。



*****



「遅いですよ! ほら、座ってください」

「すまんすまん。でも、そう焦ることもないだろう。月なんて一分二分で沈むものでもないんだから」

「確かにそうですけど、うちの庭からは今の時間帯が一番きれいに見えるんです。逃したらもったいないですよ」


 縁側に着くなり怒られてしまった。仕方がない。妻の月見に対するこだわりは人一倍なのだ。

 ……いや、酒と料理に対するこだわりと言った方が正確かもしれないが。


「何か失礼なことを考えていませんか?」

「さて、なんのことやら? それはさておき、お待ちかねの料理だぞ。今年は里芋の煮っ転がしだ」

「おおー!」


 妻が目を輝かせる。黒く大きな瞳が光るその様は、まるで星を散りばめた夜空のようだ。射干玉ぬばたまの黒髪を後ろで緩く結わえた彼女は一見物静かな女性に見え、実際それは間違いでもないのだが、一方でこういう無邪気な反応も見せる。結婚した頃と変わらない彼女の一面だ。


 頂点の里芋を一つ頬張って、妻は幸せそうに笑う。その笑顔から空へと目をそらすと、そこには澄み切った濃紺の夜空が広がっていた。隣家の屋根のあたりには一片の曇りもない満月が浮かんでおり、庭を月明りで照らしている。妻の言う通り、確かにこの光景は見逃すには惜しい。


「それ、着替えたんですか?」


 二つ目の里芋を頬張りながら、妻が訊ねる。


「ああ。こういう行事の時は着物こっちの方が雰囲気が出るだろう?」


 本当はそれだけでもないのだが、そちらの理由は言うわけにはいかない。とはいえ、今この時を最大限に楽しみたいと思っての選択なのは嘘ではないので許してほしい。まあ、許すも許さないもないだろうが。


「ふうん。そういうものですかね」

「おいおい、せっかくお洒落したってのに他には何かないのか?」

「だって服を変えても何も変わらないじゃないですか? 着てる人は同じなんですから」


 苦笑する私に妻は首を傾げながらそう答える。

 彼女は昔からあまり服装に頓着しない性質だった。結婚する前、デートに普段と全く同じ服で来た時には度肝を抜かれたものだ。


 猪口を傾けながら昔を思い出していると、妻がふと手を自分の口元にやった。よく見ると里芋の欠片がついている。妻はそれを指でつまむと悪戯っぽく笑ってそのままペロリと舐め上げた。

 皺一つない白い指の先を、つややかな赤い舌が這う。その様は無邪気な笑顔とも合わさって、匂い立つような艶めかしさを放っている。

 若い頃の私ならドキリとして、さぞかし赤面しただろう。しかし、歳のせいか今やそういった情動は枯れている。美しいとは思うのだが。妻と違って、私は随分と変わってしまったらしい。


 ――妻と違って? 妻も一つ大きな変化があったじゃないか

 

 心の奥から浮かび上がる言葉を押し戻すように、私は酒をあおった。



*****



 月見を初めてから小一時間ほど経った。山盛りにしてあった里芋も底の一段を残してほとんどなくなり、酒も少なくなっている。


「里芋、食べないんですか?」


 お猪口をぐいっとあおりながら、妻が訊く。どうやら私が料理に手を付けていないことに気づいたらしい。


「実は作っている最中にいくつか盗み食いしてしまってね。今は酒だけで満足な気分なんだ」


 これも嘘ではない。なんなら今の私は彼女と一緒に月を見ているだけで十分すぎるほど満足しているのだ。


「そうですか……。我慢はしないでくださいね?」


 そう言って妻は自分のお猪口に酒を注ぐ。

 お互い話すことも尽きてきた。酒も回った。心地良い沈黙を感じながら、二人並んで月を見上げる。

 ふと、肩に重みを感じた。見ると妻が私の肩に体を預けて頭を乗せている。髪から香る椿の匂いが鼻孔をくすぐった。

 ああ、近づくとよく分かる。この香りも、目を閉じたその顔も、記憶の中の君のままだ。


「……変わらないな、君は」

「ふふ、そうですか?」


 答える代わりに私は彼女の肩を抱き寄せた。

 妻がポツリと呟く。


「ずっとこの時間が続けばいいのに……」


 それは私が最も望んでいて、最も望まなかった言葉だった。


「ああ、私もだよ」


 首の後ろに熱い息がかかる。

 この辺りが限界だ。


 私は懐に隠したエアガンを引き抜くと月に――小一時間経っているにも関わらず一切位置を変えていない月に向かって、引き金を引いた。


 ギャッ!


 濁った短い悲鳴とともに月が割れ、周囲は暗闇に包まれた。



*****



 ベチャッ、スタタタ……


 隣家の屋根から何かが濡れた地面に落ち、走り去っていく。

 雨音に紛れそうなその音を、私は沈んだ気分で聞いていた。


 「今夜は関東全域で雨か曇りになる見込み」とアナウンサーが言っていた通り、私の住む埼玉の自宅周辺も日暮れ前から雨が降っている。当然十五夜の月など見えはしない。全て幻だった。澄み切った夜空も、輝く月も――そして、生前と一切変わらない姿の妻も。


 妻がいたはずの場所に目をやる。皿に盛られていた里芋は汁まで残らず平らげられ、妻の徳利は倒れていた。中身の酒は見当たらない。恐らく倒して縁側にこぼしたものを全て舐め取ったのだろう。

 縁側には泥まみれの獣の足跡が無数についていた。


 後の掃除の苦労を想像して、私はため息をつく。

 この獣たちの正体は私も良く分かっていない。しかし、起こる現象と足跡から、狐か狸のような化かす動物だろうと考えている。

 子供の頃、母が寝物語に話してくれたことだが、狐や狸は集団で人を化かして食べ物を奪うことがあるのだという。美女や怪物などで気を引いて、その隙に人が持っている食べ物を盗むのだ。そして幻を見せる時は、化かし担当の狐や狸自身は幻の中に身を隠している。それも分かりやすいところではない。怪物の持つ明かりや美女が回す糸車――あるいは空に浮かぶ月に化けて身を守っている。

 我が家に出るものは、いつも月に化ける。少なくともここ数年、月見の度に妻の幻が現れるようになってからは。


 私が妻を亡くしたのは、結婚してから3年目のことだった。その年の春に重い病であることが発覚し、秋の十五夜の日に月を見ながら息を引き取ったのだ。「最期にあなたとお月見ができて良かった」と言って浮かべた彼女の微笑みは今でも忘れられない。

 それから二十数年、十五夜には一人で月見をしていたのだが……数年ほど前の十五夜に、突然「彼女」が現れた。

 その時は、驚いた拍子に放り投げたお猪口が月に(つまり隣家の屋根の上で幻を見せている狐に)当たって事なきを得たが、その翌年の月見にも翌々年の月見にも「彼女」は現れるようになった。

 そのうちに「彼女」の正体も狙いも察しがつくようになって、今に至るというわけである。


 「彼女」は来年も現れるのだろう。それが今は一番の楽しみだった。一年待てば、もう一度妻に会えるのだ。

 あと一年待てば……


「ふ、ふ、ふふふ……」


 知らず知らずのうちに口から笑いが漏れていた。


 馬鹿げている。


 首の後ろにかかった熱い息を思い出す。

 あれは獲物を狙う獣の息遣いだ。

 「彼女」が狙っている「食べ物」とは酒と料理だけではない。私自身もなのだ。

 つまり、私が生きて来年も妻に逢うためには、食われる前に幻を終わらせるしかない。

 しかし、幻を終わらせることは、幻の中の妻を消すことと同義だ。


 月を撃ったあの瞬間。再び妻を失い暗闇が広がるあの瞬間の恐ろしさは、とても言葉にはできない。だが、私はそれを自分が生きるために何度もやっているのだ。

 妻を失いたくないと思いながら、助かるために幾度となく妻を消してきた。なんという矛盾だろう。 


「ふふふ……ははは」


 私は力なく後に倒れこんだ。

 来年の私は一体どういう選択を下しているのだろう。空を見上げても分厚い雨雲が広がるばかりだ。

 そっと目を閉じる。

 瞼の裏に焼き付いた偽の満月と妻の笑顔だけが、今の私の支えだった。

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