第1章
第1話:灰色の残業と、教義の呪い
今日もまた、予定時刻を20分オーバーした残業で、デスクから立ち上がった。時計の針は午後7時5分を指している。この5分が、心臓を針で刺すように痛い。
藤原美優が勤める小さな事務代行会社は、派遣社員がほとんどの、無機質なオフィスだ。彼女に割り当てられたのは、延々と続くデータの入力と、届いた書類を決められた順序でファイリングする作業。
人との関わりが最小限で済むこの仕事は、美優にとって一種の防護服のようなものだった。
隣の席のベテラン派遣社員が、残りの作業を美優に押し付け、悪びれもせず言った。
「藤原さんは、真面目だから、頼むわね」と笑う。
美優は反射的に深々と頭を下げた。
「すみません、ありがとうございます」
謝らなくてもいい。感謝する必要もない。相手は美優の作業を増やしただけだ。しかし、口は勝手に動いてしまう。
『ごめんなさい』『ありがとうございます』という言葉を吐き出す。自分の意見を主張すること、状況を否定することが、美優にとって最も危険な異端行為なのだ。
誰もいなくなったオフィスで、美優は必死に手を動かした。この残業時間を急ぐ理由は、教団にある。
美優が暮らすのは、郊外にある教団が所有する古いアパートの一室だ。実家から離れて暮らすことを許されているのは、教団への献身的な奉仕と、毎日の“祈りの集い”への参加が義務付けられているからだ。
教義では『終末の時に備え、自らの時間を神に捧げることが清き生き方』とされている。そのため、午後7時30に始まる“集い”に少しでも遅れると、美優の母や幹部から『信仰が揺らいでる』と静かに詰問される。
彼らの視線は、美優の存在全てを否定する鋭い刃物のように感じられる。
(また、遅れるかもしれない。ごめんなさい。ごめんなさい、ごめんなさい…)
指先が冷たくなり、呼吸が浅くなる。急げば急ぐほど、マウスを持つ手に力が入りすぎ微細なノイズさえもが美優の聴覚を攻撃する。蛍光灯の僅かな音、換気扇の唸り。
美優にとって、世界は常に過剰な刺激で溢れている。教団の祈りの時間だけが、唯一の“定型”で、安全な空間のはずだった。
7時15分。なんとか作業を終え、美優はダッシュでアパートへ向かう。
アパートに着く頃には、心臓は激しく波打っていた。息を整え、部屋の鍵を開ける。部屋には、母の姿はなかった。
だが、キッチンテーブルには教団のリーフレットと、今月の献金額の目標が書かれた付箋が置かれている。
美優の月給は手取りで20万ほど。そのうち、5万円は“感謝の献金”として自動的に引かれる。さらに今月は、教団の“聖地整備”のために、5万円の追加献金が求められていた。
残りは10万円。家賃、光熱費、食費を考えると、手元に残るのは僅かだ。
(これも、終末に備える正しい道。贅沢を望むのは、心が穢れている証拠…)
美優は自分に言い聞かせるが、喉の奥が苦い。教団の教えは、美優の経済的な自由だけでなく、感情の自由も奪い去っていた。
7時27分。美優は服を着替え、教団の集会所へ向かう。集会所での、単調な祈りの時間は美優の感覚を麻痺させ、一時的な平穏をもたらす。
しかし、集会が終わると、再び孤独と罪悪感に苛まれる。部屋に戻ったのは午後9時過ぎ。美優は冷蔵庫からコンビニで買った安価なパックのお茶を取り出し、パソコンを立ち上げた。
(大丈夫、まだ異端な場所がある)
教団の監視の目が届かない、SNSの裏アカウント。そこには、美優が唯一、“藤原美優”ではない自分でいられる空間がある。
すぐに見慣れたアイコンを探す。“アユ”
彼女は、美優が密かに愛してやまないSFアニメのキャラクターのイラストを新しく投稿していた。
背景の色の使い方、繊細な線、そして何よりもそのイラストから滲み出る自由奔放なエネルギーに美優は息を呑む。
教団が禁じる“芸術” “色彩” “感情”の全てがそこに詰まっていた。
美優は震える指でコメント欄に文字を打ち込む
「あ、あの…すごく素敵です。このキャラクターの、その、少し歪んだ表情が、作品のテーマを深く表しているように感じました。すみません。的外れなコメントだったら…」
相変わらずの謝罪と自己否定が混じった、おずおずとしたコメント。だが、美優にとってはこれが精一杯の自己開示だった。
アユ:「的外れじゃないよ!むしろ、私自身もそう思って描いたから、すごく嬉しい。ミユさん、いつも鋭いよね。歪みって言葉、最高。だって、完全なものなんて、面白くないでしょ?」
“完全なものなんて、面白くない”
その言葉が、美優の脳内で何度も反響した。美優の人生は、教団の教義と、“普通”になろうとする努力によって“完全”であることを強いられてきた。
アユは、その“完全”を否定した。
(私をたらしめている、この歪みも、面白がってくれる人がいるの?)
美優の張り詰めた心が、僅かにゆるむ。この感情の揺らぎこそが、教団の最も恐れる異端の萌芽であることを、美優はまだ理解していなかった。
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