幽霊の見た夢

深神 真

幽霊の見た夢


──この部屋は、"出る"らしい。


そうは聞いていた。

でも私は自慢じゃないけれど霊感がからっきしで、今までにどんな心霊現象にも出会ったことはなく、所謂パワスポと呼ばれる場所に連れて行かれても何にも感じないし、本当に、零感だったのだ。


だからさ、つまり、──お得じゃない?


不動産屋曰く、ここで事故があったわけでは無いのだが、入居者が次々と幽霊が出ると退去していくため、今となっては借り手が居なくなってしまったらしい。

お祓いとかもしてみたそうだがダメなんだと。

お金、勿体ないね。


そんなこんなで紹介はされたものの「一応なので全然あの、検討して欲しいとかじゃないんですよ」と言い訳がましく早口で流されそうになったこの物件に私は飛び付いた。


「えっ、内見希望!?」


大家さんはお目目をまん丸にして驚いていた。ちょっと小太りのおじさんだったけど、人の良さそうなその顔が本当にびっくりしていて、ちょっと可愛いな、と思った。

部屋はかなり綺麗だし、築年数も大して経ってない。この大都会東京で風呂トイレ別、1LDK、二口コンロ備え付け!!

家賃、逆目ん玉飛び出す破格設定!!


「住みます!」


私は笑顔で親指を立てた。まあここ暫くは入居希望者は居なかったそうだけれど、今までに何人もが引っ越してるということは、この価格に釣られて入居を決めた人達もそれなりに居たということで。

住みたいというならばどうぞどうぞとトントン拍子に契約を終え、この家に住むことになったのでした。


ふつーに平穏だった。

家賃が安いということは、他に回せるお金が増えるということだ。私は趣味に食事にそれから貯蓄にお金を注ぎ込めるようになり、事故物件サイコー、などと呟きながら人生を謳歌していた。


しかし数ヶ月が経った頃、少しの違和感を覚え始めた。


……音がする。


でもそれは、怖い音、というよりはお隣さんが微かに楽器でも弾いてる?と言うような。

まあ、お隣さんは居ないんだけど。


少し、悲しい感じのする歪んだ音。ギターだろうか。

それが、ともすれば家の軋みのように聞こえなくもなく、誰かの啜り泣く声のように聞こえなくもない。


──なるほど。


皆のいう"出る"とはこういうことかな。と私は一人で納得した。


でも私にはギターの音にしか聞こえない。

悲しげではあるが、耳障りではない。

例えばこれが幽霊だったとして、ギターを弾く幽霊が怖いと思うだろうか。

だから特に気にすることもなく、そのまま生活を続けたのだ。


さらに数ヶ月が経った。


私はいつものように仕事から帰宅し、偉いので作り置きのおかずを温めて食べ、3日ぶりにシャワーではなく湯船でしっかりと体を温めて風呂から出た。


──幽霊が居た。


「うぎゃあああああ!?!?」


咄嗟に拳が出た。

よく考えたら幽霊に当たるわけないんだけれど、


いや、当たった。


手応えはなかったのに幽霊が驚いたようにたたらを踏み、


──足あるんかい。


幽霊は逃げるように消えた。


私は素っ裸で茫然と幽霊のいた空間を見つめ、でも撃退できるならまあ怖くないな、と結論付けて服を着て就寝した。



それから、幽霊は現れるようになってしまった。

零感のはずの女にまで見えるということは、かなりヤバい存在かもしれないと一瞬だけ思ったが、でもやっぱり怖くはなかったのだ。……殴れるし。

次の日出てきた時に、


「あのね、私にだってプライバシーがあるのよ、流石に風呂場でマッパの時に見られるの困るからここに出るのはやめてね」


と仁王立ちで言っておいたら、幽霊はペコリと頭を下げて、本当に風呂場には出なくなった。

話も通じる。変なの。


今はリビングの端の方とか、寝室の天井とか、そこら辺にぼんやり浮かんでいる。


幽霊は喋らない。

けれど、目が合ってる気がする時は、話は通じていそう。

ギターのような音を出していたのはこの幽霊なんだろうけど、ギターを持っているわけじゃなかった。


顔は、一応見える。

でも人間のようにはっきり見えるわけじゃなかった。

多分、男?


ぼんやりとした姿だけど、目が合ってる、と感じている時は瞳だけがくっきりと輪郭を現すような感じ。

その目は何を言いたいと言うわけでもなく、ただこちらを見ている。


幽霊と人間、どっちが怖い?私は断然人間。

そしてべらぼうに高い都会の家賃。


つまり私は何事もなかったかのように、この家に住み続け、幽霊は当たり前のようにこの家に住んでいた。

先住民には敬意を払うべきだもんね。


幽霊が何を好むかは分からなかったけれど、ギターの音がするくらいだから音楽が好きだったのかもしれない。そう思って、何となくピックを買ってきて目の前でチラつかせたりしてみた。


反応はなかったけれど、寝て起きたらピックが消えていた。

そして少しギターの音がクリアになったので、使っているのかもしれない。そう思うと悪い気はしなかった。


もちろん気になることはある。

ここは事故物件じゃないと言っていた。それなのに、霊感ゼロの私にすら見える強度の幽霊が出るというのは一体どういうことなのか。


この幽霊、全然怖くないのに。何かしらの怨念でここにいるようには見えない。


じゃあ何故?

私はソファに座っている(ように見える)幽霊をじっと観察してみる。

お前は私の彼氏か?というほど寛いでいる(ように見える)幽霊が、エアでギターを弾いている。


エアなのに聞こえてくる。物悲しげな音が。

人間味がありすぎるのだ。幽霊にしては。


そのうち私の視線に気づいたのか、幽霊はこちらに目を向けた。またその瞳の輪郭がくっきりと浮かび上がる。目が合っている証拠。


「……あんたは何でここにいるわけ?」


それは思わず言ってしまった言葉。

だけど、イエスかノーかで答えられないような質問はしても意味がない。

この幽霊は喋らないのだから。


幽霊は少し困ったような顔をした、ような気がする。見えないから分からないけれど。


「あ、いやごめん、何でもない。忘れて」


そう言って私は幽霊におやすみと声を掛け、幽霊に挨拶する自分も大概変だな、などと思いながら就寝した。


──その日、夢を見た。


私はどんよりとした分厚い雲の下で、何となく湿ったような草の上に座っていた。あまり居心地は良くない。


そして、私と背中合わせに誰かが座っている。

僅かな体温だけが存在を教えてくる。

体温があるということは、生きた存在なのだろうか。夢だから、あるように感じるだけだろうか。


「…………」


私たちは喋らなかった。ただ、そこに居るだけだった。

ただ、じっと座っている。

そのうちに、自分まで幽霊になってしまったような気がしてきて、そんな訳のわからない不安を断ち切るように勢いよく立ちあがろうとして。


目が覚めた。


──その日から、幽霊は姿を見せなくなった。


その代わり、夢に現れるようになった。

……ホームグラウンドを勝手に変えるな、と一言文句でも言えればよかったのに。


私たちはいつも、太陽の光の届かないほど分厚い雲の下で、背中合わせに座っているだけだ。

言葉を忘れてしまったかのように。


言葉を持てないというのは辛いものだと思った。


言いたいことはあるのに、何か言葉にしなきゃと思うのに、声が奪われたかのように何も出てこない。


それは、少し苦しくて、悲しくて、……ちょっぴり切ない。


言葉どころか、呼吸以外の全てを忘れてしまっているみたいな静寂。

背中の体温がなければ、きっとおかしくなってしまう。


ひとりぼっちだったら、きっと。


そんな気持ちのまま、目を覚ます。

後に残る、何とも言えない気持ちを抱えたまま、仕事をして、家に帰って。生活をして、眠って、またあいつと背中合わせに座って。


……なんか、無性にムカついてきた。


喋れないことも、向こうが喋らないことも。

切ない気持ちばかりが増幅していくことも。

私ばかりが一方的にやるせない思いを抱いてるのかと思うと、ムシャクシャした。


だから──私は衝動のままにギターを買った。


楽器屋で、「え!全部同じじゃないんですか!?」などとキョドりながら、とりあえずアンプがなくても音が出る、そこまで高くないやつ!と店員に言って見繕ってもらった。

何でこんなに弦が沢山あるの、手が届かないんですけどギターって手が大きい人専用楽器なんですか、とぐちぐち文句を言いながら、私はギターを練習した。

動画を見ながら練習しまくって、どうにか和音を鳴らすことができるようになった頃。


──夢を見た。


またいつものように曇天の下。だけど今日は草原じゃなかった。

私たちは人の居ない、冷たいアスファルトの上に座っていた。

今日も今日とて声は出ない。向こうも相変わらず辛気臭いオーラを出しながら座っているだけ。


だけど今日はいつもとは違うぞ、と私は自慢げに考えた。

私には新しい言語がある。

手には持っていなかったが、私は頭の中でギターを持つ。並んだ弦をイメージ。

その弦を押さえて、勢いよく右手を弾く。


ふっ……、ジャラーン!ってね。


背中の体温がビクリと揺れた。

そして後ろにいる気配が振り返ろうとしたかのように空気が揺れて、


──目が覚めた。


「……こんちくしょう」


私は開いた目に映る天井を見つめたまま歯噛みした。意地悪にも程がある。


二度寝したらまた会えるだろうか。そんなことを考えて、寝返りを打って。

……はたと気づいてしまった。


──こんなの、まるで恋してるみたいじゃないか。


幽霊に。

途端に可笑しくなって笑ってしまった。

しかも部屋にすら出なくなった、夢の中でしか会えない幽霊に、だ。


誰かに言えば真剣に病院の受診を勧められるだろう。

いや、自ら受診した方がいいのかも。

私、おかしいもん。


そう思いながらも起き上がって、服を着替えることもせずギターを手に取った。

夢中で練習した。ご飯も食べずに練習した。


それが、あの幽霊に届く唯一の方法と信じて。



❇︎❇︎❇︎



……死んだように生き、生きているようで死んでいた。


君を喪ってから、呼吸の仕方すら忘れて、世界から色が消えてしまったようで。

大袈裟だと思われても、


……いや、そんな筈があるものか。


愛した人を喪った悲しみが、僕を壊した。


世間ではそこそこ名の知れたギタリスト。消えてしまっても生きていけるだけの金があった。

皮肉な話だ。


ギターすら持たなくなって久しい。

僕は表舞台から完全に姿を消し、薄暗い部屋に引きこもって、ただ無意識に呼吸をしている死人としてだけ、存在していた。


何年も。


頭の中に浮かぶのは、幸せだった頃のあの場所。


まだ名の売れる前に君と住んでいた、あの家。

人の良さそうな大家と仲良く談笑して、育てた野菜を貰ったり、自主制作のCDを渡したりした。

楽しかった、幸せだった。


──戻りたい、あの頃に。


そう願ううちに、僕は本当にあの家に帰れるようになった。

体は別のところにあるのに、心だけが歩いて行くような感覚で。

それもどこか夢のようにふわふわとしていて、見ているようで見ていない、感じているようで感じていない、蜃気楼のような世界だった。


音もなく、感情もなく。

色もなく、言葉もなく。


ずっと、ぼんやりとしていた。


起こされたのは、殴られたからだ。


バチン、という音が聞こえるような衝撃で、僕は目を覚ました。

いや、目を覚ましたわけではないが、"目を開けた"のだ。


そこは、涙が出るほど帰りたかったあの場所だった。

だけど、そこに居たのは君ではなかった。


驚いて、今度こそ目を覚ました。

僕はいつもの荒れ果てた家で寝ていた。


あれは一体何だったのだろう。

僕はそう思いながら久しぶりに自分の意思で布団から出た。鉛のように重い体が悲鳴を上げた。

それから自分の意思で水を飲んだ。

そうしたら耐えがたいほどの空腹に襲われて、自分の意思で食事を摂った。いつぶりかも分からない。


それだけでどっと疲れて、また眠った。


そうすると、また僕はあの場所に帰っていた。

君ではない女性が、僕を見ると仁王立ちで説教して来た。

どうやら風呂場の前に現れたことを怒っているらしいが、僕にその記憶はない。

とりあえず謝罪をして、風呂場に近づかないことを心に誓った。住み慣れたかつての家の間取りは完璧に頭に入っていた。


夢の癖にやけにリアリティを追求するものだ、と呆れながら。


夢の中で僕は喋ることができない。

けれど彼女の声は聞くことができる。

彼女は僕を幽霊だと思っていて、それなのに幽霊を怖がるわけでもなく受け入れて過ごしているらしい。


変な夢だった。

……それなのに、悪くないなんて感じてしまう自分が、たまらなく嫌だった。


これは、君を忘れたい僕の、都合のいい妄想だ。

そう考えるほどに苦しくなっていく。


ある日彼女は僕にギターのピックを見せびらかした。


『先住民のあんたにお供えでもしとこうかと思って。幽霊にお供えってアリなのかな?まあいいや、ギター好きなんでしょ』


都合のいい夢は、教えたはずもない僕の職業まで反映してくれているらしい。

彼女が寝室へと消えた後ふと、置かれたピックを手に取った。


──手に取れてしまった。


そして、僕が起きた時、そのピックは僕の手に握られていた。


「…………え?」


数年ぶりに出した声は、ガサガサで、喉に張り付いたように皮膚が擦れて痛みを伴った。


ただ、そのピックを見つめていたら、いつの間にか突き動かされるように部屋の隅で埃をかぶっていたギターに手を伸ばしていた。

チューニングも何もされていない、伸び切った弦を、そのピックで弾く。


何とも頼りない、何の音とも言えない音が、微かに部屋に響いた。


酷い音だ。

それなのに、その音がとても素晴らしいものに思えて、何故か涙が溢れて止まらなくなった。


泣きながらギターを胸に抱いた。

それから、ギターを調整した。

夢の中で貰ったピックで、狂ったようにギターを弾いた。


それは僕を再び生かそうとする意思のようにも感じて、苦しくもあり、悲しくもあり、切なくもあった。


──僕が生きるということは。


本当は死んでしまいたいと思いながら、死ぬこともできないでずるずると無為に生き続けていたのに、今更前に進もうというのか。

君を忘れて、自分だけが歳を重ねて、君を過去にして、生きていこうというのか。


──それは、罪なのではないか。


そんな答えの出ない問いをいつまでも反芻しながら、時間を忘れて弾き続けた。



いつからか、彼女に会うのを楽しみにするようになった。

都合のいい夢の中の女性、君を忘れたい僕の、歪んだ願望が生み出した女性。

彼女は死んだ存在の僕を拒まず、喋らない僕を嗤わず、ただそこにあるものとして受け入れてくれるから。


だけど、ある日突然彼女は言った。


『……あんたは何でここにいるわけ?』


それは、僕にとって、夢の終わりを意味していた。

何故、僕がここにいるのか、それを考えなければならなくなった。

何故、僕はここにいるのだろう。


答えられない。

声が出せないからじゃない。


分からないからだ。


答えられないまま目を覚ました。

そして──


僕はあの部屋に行く資格を失ってしまった。


その代わり、新しい夢が始まった。

僕は曇天の下に座っている。


誰かが背中合わせで座っていて、その背の温かさが、そこに居るのが生きた人間だということを思い出させる。


それは君じゃなかった。


そして、僕はそこにいるのがあの部屋の女性だと、強く確信していた。


僕たちは黙ったまま、ただ沈黙の中で座り続けている。何も聞こえないまま、何も起こらないまま、ただ時間だけが過ぎ、僕は目を覚ます。


そんな何も起こらない夢を見ているだけなのに、僕の生活は変わり始めた。

あの質問の答えを出そうと思ったのだ。


僕は髭を剃った。髪を切った。家を掃除して、ゴミを捨てた。

ギターを再び手に取った。昔の音楽仲間に連絡を取り、久しぶりに再会した。


──結局、僕は「生きる」事を選んだ。


夢の中では相変わらずの曇天。

何かを言いたかった。しかし声が出せないどころか、振り返ることも出来なかった。


背中の体温に向けて心で叫ぶ。


あなたは誰なんだ。

実在するのか。僕を再生させてくれたあなたは。


──その時、音が鳴った。


ジャランと響いた、Emaj。


今のは、彼女が?

動かなかったはずの体が咄嗟に動いて、


目が覚めた。


「……なんだってんだ、クソ」


思わず悪態をついた。しかし、耳に残って離れないその簡単な和音が、焚き付けるようにギターへと手を伸ばさせた。


もう、弾くしかない。弾いて弾いて弾きまくって、もう一度表舞台に帰るしかない。


何故かそう思った。



❇︎❇︎❇︎



「……ねえ、なんで会えなくなるわけ?」


私は大きなため息をついた。

あれからもう数ヶ月。


夢を見なくなった。


……幽霊さんや、ちょいと勝手すぎやしませんか。

これくらい悪態ついたっていいでしょ。

何のためにギターを買ったと思ってるの、ものすごく練習したんだよ。


なんと、簡単な曲なら弾けるようになった。自分の集中力が恐ろしく感じることはたまにある。


我ながら馬鹿だなぁ、と思いながらまたため息をつく。

幽霊に恋して、ギターを買って、練習してたらその幽霊に会えなくなりました、なんて。

何処にも無いよそんな現実。

もしかしたら二次元にも無いかもしれない。


いや、そんな馬鹿な話は二次元くらいにはあるかもしれないとスマホで検索しようとして、あるニュースが目に留まった。


『天才ギタリスト雨宮トオル、5年ぶりに奇跡の復活!!』

「雨宮トオル……?そう言えば居たなぁこんな人」


何となく記事を開き、その写真を見て、私は固まった。


──似ている気がしたのだ、幽霊に。


でも、そんなわけあるはずない。

幽霊は死んだから幽霊なのであって、生きている彼が幽霊なわけがない。

それに幽霊はぼんやりとした形で、はっきり顔が見えていたわけじゃない。


ギターというだけだ、共通してるのは。


そう思いながらも、私はその記事を読む手を止められなかった。


『──雨宮さんと言えば、その、5年前に……』

『ああ、そうです、婚約者を亡くしてしまってからどうにも立ち直ることができなくて、ずっと塞ぎ込んで生きてたんですよ』

『深く愛していらっしゃったんですね』

『そう、ですね』

『……それから、こうして再び活動を再開されたのには、何かキッカケがあったんでしょうか?』

『うーん、変な話なんですけど、最近になって変な夢を見るようになって。僕は夢に出てくる人物と話すことも出来ずに、ただ黙ってそこに居るだけなんですけど、何故か癒されたんですよね』

『なるほど……?セルフマインドフルネスのようなものなんでしょうか』

『あはは、そうかもしれませんね』


「…………夢、か」

同じような経験をする人も居るもんなんだ。

なるほど、マインドフルネスか。私のもそうだったのかもしれない。

……マインドフルネスで恋はしなくない?やっぱり違うかも。


「ああっ、もう、辞め辞め!」


私は大きく頭を振って邪念を追い払った。

一時の気の迷いだった、そうだ。

なんならこれこそが幽霊のイタズラだったのかもしれない。

忘れてしまおう、こんな変な体験なんて。


もう幽霊は出ない。

私はただの格安家賃の住み善い家を手に入れた。

それで充分。


これからも趣味に食事に貯蓄に全力投球で生きていく!

手始めにパーっと豪華なランチでも決めてしまおう、と私は玄関のドアを開けた。



❇︎❇︎❇︎


「わあ!雨宮くん!?久しぶりだねぇ!」


人の良い大家さんが、嬉しそうに声をかけてくれた。自分と婚約者が暮らしていたのはもう10年近くも前のことなのに。


「ご無沙汰してます。覚えててくれたんですね」

「忘れるわけないよ!何たって天才ギタリストだもの!」


にこにこと笑いながら僕の手を掴んでブンブン振った後、大家さんはとても悲しそうな顔になってから続けた。


「ゆきこちゃんのことは、本当に残念だったけど……、でもニュース見たよ。復帰したんだね、良かった」

「なんかすみません、ご心配までかけちゃって」


これ良かったらと菓子折りを渡すと、ええ、いいのぉ!?と言いながら驚いた顔をしていたけれど、すぐに嬉しそうに受け取ってくれた。


ここに来る前に噂を聞いた。

かつて僕たちが住んでいた部屋が、事故物件だと言われていることを。


それは多分、いや十中八九、僕のせいだ。

だから、せめてもの詫びの印。

流石にあの時お騒がせした幽霊で、と名乗り出る勇気は出なかった。


ちらりと過去の住処に目をやると、


「ああ、あそこね、最近越してきた子が結構長く住んでくれてて」


結構コロコロ変わってた上に、少し前までは全然借り手が付かなくてねー、と特に気にした風もなく喋る大家さんに、改めて申し訳なさが募った。


それから、自分がここにきた理由を改めて反芻する。

その「最近越してきた子」が、自分の知っている、探している人かもしれない。

もしかしたら違うかもしれない。


……いや、違う可能性の方が高い。

自分の夢の中の人物、都合よく作られた存在である方がまだ現実的だ。

だから怖くて、ずっと来られなかった。


でも、今なら。

何故かはわからないけど、自分が表舞台に戻れた時には、ここに来てみようと決めていた。


来たはいいが、自分の希望が現実ならば、女性が住んでいる。

その部屋に男が尋ねるのは、気が引ける。


……結局何も出来ないまま帰ることになりそうだ。

最初からそこに思いあたれば良かった、と僕は苦い思いで笑った。



──ガチャリ。


後ろで扉の開く音がした。


「あ、れいちゃん!」


大家さんが僕の肩越しに笑顔で手を振った。


「あー、大家さんこんにちは〜」


後ろで女性の声がする。

僕は咄嗟に振り返った。


"彼女"と目が合った。

彼女も僕を見て、ピタリと足を止める。


「…………」

「…………」


お互い、言葉は無かった。

大家さんが取りなすように声を上げる。


「あっ、この人ね、昔あの部屋に住んでた人で」


彼女は、僕から目を離す事なく呟くように言った。


「──雨宮トオルさん、ですよね?」


心臓が跳ねた。


「そうそう!流石に知ってるかぁ!有名人だもんね!」

「……そうですね」


少し怒ったような、拗ねたような表情で僕を見ている彼女に、僕はようやく。


──そう、ようやく会えたんだ。


出会う前から、言葉を交わす前から、あなたに救われていました。

会えて嬉しい。


感情が迸る。


だけどまずは、と僕は微笑んで挨拶をした。


「──初めまして」


差し出した手には、あの日のピック。



──もし良ければ、あなたの名前を教えてくれませんか。

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