1
妖精が読み聞かせてくれた物語は、エドワルダの鼓膜を甘やかに溶かしていった。
ゆっくりと開いた小さな唇からは、「あぁ」と熱く湿った空気の欠片が溢れ出していく。
エルフの少女は、祈りを捧げるようにに自身の胸に手を置くと、もう一度深く、森の清らかな空気を肺へと送り込んだ。
エドワルダ。
少女――と称したが、それは外見だけの話だ。彼女は、人間の丁度十八を迎えた乙女のような顔つきと身体付きをしているが、もう三百年程はこの森と共に暮らしている。
人と違うのは、嘴のように長く尖った耳だろう。耳たぶには、雨の雫を閉じ込めた耳飾りが付けられており、腰まで伸びる長い髪は太陽の光を吸収したかのように煌びやかな金色である。
シルクのような貫頭衣から伸びる手足は、森を形作る木々のようにほっそりとしていながらも、ムチのようなしなやかさが内包され、肌は百合の花のように白く透き通っている。
その姿は決して不健康なものではなく、むしろ果実のような瑞々しさと生命力に満ち溢れていた。
瞳は夜の森林の静謐さを思わせるほど深く濃い紫に彩られ、薄く形の良い唇は淡紅色に染まっている。
双乳は慎ましいながらも林檎のように張りがあり、くびれた腰から足首までのラインは、まるで森の精霊が紡いだ糸のように優雅であり、見事な曲線を描いている。
おそらく人が見れば美の女神として讃えるであろう。
しかし、エルフと人間は互いに感知することは出来なかった。
姿形こそエルフも人間も大差はないが、見えている世界が違うのだ。
それゆえに、街に住む人間と森に暮らすエルフたちはそれぞれが違う文化を築き上げていた。
エドワルダが感嘆の声を上げたのは、そんな人間の文化に触れたからだ。
美しいエルフの瞳は蕩けていた。
木漏れ日の中で舞う花びらたちを見つめるように柔らかな視線、頬を染める紅は祈りの際に不意に愛するものの名を呼んだ時のそれに似ていた。
まさに、恋に恋をする初心な女神。
「あぁ……素敵だわ。人間の恋ってなんて美しいのかしら」
膝上に置かれていた本を、エドワルダは愛おしそうに抱き締めた。
妖精が読み上げた世界は、エドワルダにはまさに未知そのものであった。
本――マンガ本に記されていたのは、人間の男が一人の女を愛し、その愛を成就させるため、様々な試練を乗り越えていく物語だ。
エドワルダは、その物語に心を奪われてしまった。
同時に、自分の中に芽生えた感情にも気付いていた。
人間のように恋をしてみたい、と――。
「こい……愛……恋愛……」
妖精から教わった言葉を、口の中で転がすように繰り返す。
エルフは恋をしない。
元より生殖をしない。
エルフは自然から生まれ落ちるため、親という概念が存在しないのだ。そんなエドワルダは、三百年前の大雨の雫の一滴から生まれ落ちた。 エルフたちが長命でいられるのは、清らかな存在であるからだ。
自然を愛し、自然に愛される。
それゆえに、エルフが恋をすることはない。
だが、エドワルダは恋に憧れてしまった。
未知は欲望を増幅させる。
マンガの中で、一人の男が一人の女に恋をした。その想いのすべてを、男は女にぶつけるも、初め女はその想いに応えなかった。
それでも男は女を想うことをやめない。
次第に、女も男に惹かれていき――……結ばれた。そこで物語は終わった。
森に人間たちの物が置き忘れられることは、そう珍しいことではない。
自然のものではないと、エルフたちは本能として理解しており、それらに興味を抱くことはなかった。
しかし、今日日エドワルダが興味を抱いてしまったのだ。
誰かが忘れていったマンガ本を、じっと見つめるエドワルダの元に一匹の妖精が現れた。
妖精は人間の文化を熟知しており、エドワルダに囁囁きかける。
『その本を読んであげましょうか』と――読む、その行為の意味すら分からなかったが、エドワルダは二つ返事で頷いてしまった。
そうして、妖精がマンガ本を読み聞かせてくれたのだ。
エドワルダの知らない世界の物語を――。
「でも、恋はどうしたらできるのかしら」
木の幹に背を凭れかけながら、エドワルダは天を仰ぐ。
夜の瞳に、群青が広がっていく。
「人間って不思議ね」
エドワルダは、自分の中に芽生えた初めての感情に戸惑いを覚えていたが、同時にそれを嬉しくも思っていた。
「ねえ、妖精は恋の仕方を知っている?」
エドワルダがそう問いかけると、妖精は「さぁね」と答えた。
素っ気ない返答であった。
知ってはいるが、教えたくはないという風にも聞こえたが、エドワルダは気にしなかった。
恋をすることが出来ない自分が、誰かに恋の仕方を聞けるはずがない。それを理解していたからこそ、エドワルダは独りで考えて見ようと思ったのだ。
「う〜ん、あっ…!」
遠くから自分の名を呼ぶ声が聞こえ、立ち上がった先にいた少年にエドワルダの瞳が煌めいた。
シャルル――エルフの少年でありエドワルダの弟でもある。
エドワルダが夜と黄金であるなら、シャルルは昼と白銀である。
シャルル。
人間で言えば、丁度十六頃の顔つきと身体付きをしているが、彼もやはり姉と同じく見た目以上に長く生きている。
姉と違うのは、夜に降り注ぐ月の光をそのまま宿したかのような銀髪であろう。風が吹けば、そよそよと冷たく煌めいている。
同じく伸びる手足は、冬の枝のように細く引き締まりながらも、若獣めいた跳ねるような力が秘められていた。
肌は新雪を思わせる白さであるが、内に熱を孕んだ熱が生き生きと脈打っている。
瞳は青の空を切り取ったように透き通っておりながら、見る者の魂を吸い込むような深さを持っていた。
人が見れば「美少年」と称え、しかしその肉体に宿る鋭さは、単なる美の枠を超えてしまうほどだ。
エドワルダとシャルルは同じ雨粒から生まれた姉弟である。
エルフに、『血の繋がり』という概念はないが、姉弟の仲はとても良好だ。
生まれてから一度も喧嘩をしたこともなく、ずっと一緒に育ってきた。
「シャルル〜」
エドワルダが手を振る。
悠久とも言える時を二人きりで過ごしているためか、エドワルダの世界はシャルルを中心に回っている。
「姉。雨が降る……。って、なんだそれは」
見慣れない物を持っているエドワルダに、シャルルが疑問を抱くのは自然なことだ。
「ふふ。これはね、マンガ本よっ!」
その問いかけを待ってましたと言わんばかりに、じゃーんっ! と自慢げにドワルダは本を掲げた。
「まん、がぼん……?」
「そうよ! 人間が書いたもの! 妖精に読んでもらったの!」
困惑の色が隠せない弟と対照的に、エドワルダの興奮はまだまだ冷める気配はない。
「ねっ! 妖精っ!」
エドワルダの視線の先には、もう何もいなかった。
「とっても素敵なのよ。人間は……」
うっとりと語り始めようとする姉に、シャルルが言葉を重ねる。
「それは人間のものだろう」
「そうよ」
あっさりと頷くエドワルダに、シャルルは軽い目眩さえを覚えてしまう。
「はぁ」と小さなため息がこぼれ出る。
「オレたちが見ても理解出来ない」
人の娯楽など、エルフたちにとっては必要のないものである。そんなものを手にした所で、何もなし得ない。
「でも、これはとても面白いの。人間たちはこんな面白いものをたくさん知っているのよ」
エドワルダは、パラパラとページを捲っていく。
「ほら、ここを見て」
エドワルダが指さした絵は、二人の男女が抱き合うものであった。
麗しいエルフたちと比べると、人間はやはり見劣りしてしまう。
「よく分からないけど……なんか、気持ち悪いな」
シャルルの抱いた感想は至極真っ当なものである。
「人間はね、大好きな人とこうやって抱き合ったりするの」
「ふぅん……」とシャルルは興味なさそうに呟く。
「これはね、愛よ。恋よ」
エドワルダの細くしなやかな指先が、本に描かれた絵をなぞっていく。
その指先に宿る感情を、シャルルは知らない。
「ぁ、い? こい……?」
今日のシャルルはエドワルダの言葉を繰り返してばかりだ。
「愛よ。恋なのよ!」
エドワルダはマンガから視線を上げると、シャルルに顔を近づけた。
「人間はね仲良くなると恋をするのよ。恋をして、愛になるのよ」
夜空に瞬く星空のようなキラキラとした瞳が、シャルルをじっと見つめた。
シャルルには、姉が何をしたいのか分からなかった。ただ、姉が変なものに興味を持ってしまったことだけは分かる。
「それでね私、恋をしてみようと思うの」
「そう!」と強く決意する姉に、弟は「そうか」とだけ返した。
「シャルルに恋をしてみる!」
「そうか。姉。雨が降るから帰るぞ」
「シャルルもマンガ本読んで、私と恋してっ」
「しない」
間髪入れずに答えると、エドワルダは首を傾げた。
「なんで? 妖精がも、ぢ、を読んでくれるから平気よ」
「そうじゃない。興味ないんだよ、オレは」
姉と押し問答をしている間に、ぽつり、ぽつりと雨が落ち始めてきた。
雨粒が木々の葉を濡らし、森全体を静かな音の膜で包み込んでいく。
少しずつ霧が出始めてきたので、シャルルは姉と言葉を交わすのを止めてそのまま来た道を戻っていった。
「あ! ちょっと、シャルルっ」
慌てたように姉の声が背中から聞こえてきたが、シャルルは振り返ることなく森の奥深くへと帰っていく。
そうして、エドワルダの奇行が始まったのだ。
【シャルルの日記】
姉の奇行について
姉は頭を打ったみたいだ。
元から変な所はあったがさらに変になった。
効くハーブがないか誰かに聞いてみるか。
この間はキスをしようと言った。
キスは好きな人間同士がするものらしい。
姉のことは好きだからキスをした。
姉は嬉しそうにしていたが口を合わせるだけの何がいいのだろう。
分からない。
手を繋ごうと言った。
昔はよく手を繋いでいたことを思い出す。
姉はまた嬉しそうにしていた。
こいびとつなぎというものらしい。
オレには違いが分からない。
抱きしめたいと言った。
構わないが今日は暑いから姉の申し出は断った。
姉は不機嫌そうに地面を踏んだ。
姉はこいだとかあいだとかよく口にするようになった。
他のエルフたちにも伝えているそうだ。
姉の言っていることはオレには分からないが、姉が楽しそうならオレは文句はない。
まんがぼんのことが気になって姉に聞いてみた。
雨に濡れて葉っぱみたいにビリビリに破けたらしい。
姉の行動が正しいのかオレには確かめることは出来ない。
森は平和であった。小鳥たちは囀りを上げ、木々の葉は風に揺れながら陽光を受け止めている。
しかし、シャルルは奇妙な違和感を覚えていた。
すんっと、小鼻をひくつかせる。
雨の匂いではない。
森に甘い腐敗の匂いが立ち上っているのだ。
周囲を見渡せば違和感の正体はすぐに分かった。苔の上に、見慣れない白い廃液が染みを作り上げているのだ。
水溜まり程のあるそれは、決して鳥のフンなどではなく、これまで自然になかったものなのは明白だ。
「これは…」
適当な木の枝を拾い上げると、シャルルは枝先でその白い廃液をそっと突いてみた。
枝の先端が触れた瞬間、液はまるで生きているかのように一瞬間ぴくりと震えたが、それもすぐに煙へと変わっていった。
「……っ、!? なんだこれ」
枝先から伝わってきた粘度は蜂蜜よりもやや重く、まるで腐った果実の汁を思わせた。
「妖精に聞いてみるか」
けれども妖精たちは気まぐれだ。
いつの間にか現れ、いつの間にか消えている。そういった種族である。
「シャルル〜」
変わらないのは呑気な姉の声だけだろう。
「どうした姉」
シャルルが振り向くと、遠目からでも金糸が揺れているのが分かる。
「シャルルがどうしたの? 浮かない顔してるよ」
「そうか」
「うん。……ね、ミージィ見なかった?」
言いながらエドワルダの視線は、廃液に注がれていた。
「いや……見ていないな」
エルフは群れをなさない。だが、同じ森で暮らしている仲間だ。互いに顔を見ることもあれば、話を交わすこともある。
「…これか。森に変なものが落ちていたんだ。オレもさっき見つけた。妖精に聞こうと思ったが姿が見えない」
「そっかぁ……妖精は気まぐれだものね」
「姉は何か心当たりはあるか?」
エドワルダは、んーと首を横に振った。
「そうか」
シャルルは苔の上を一瞥する。ついさっきまで、白い廃液があった場所だ。しかしそれは跡形もなく消え、苔は普段と変わらぬ姿に戻っていた。
「ミージィを探してくるわ。見かけたら探してた、って伝えてね」
「分かった」
姉と別れたシャルルは、妖精を探しに森を歩いていた。
「妖精いないのか。森が変だ聞きたいことがある」
元から期待はしていなかったが、返事はなく、虚しく自分の声だけが森に響く。
「……」
足を進めれば進めるほど廃液はその量は増やしていく。地面だけでなく、枝先や木肌にもこびりついていた。
害はないのが、余計に不気味さを感じさせる。
エルフたちはこのような状況に陥っても、助けを求めることはない。
他の種族と関わりを持つこともない。
人間たちと敵対することがないのも、見えていない、というのが大きな理由の一つだ。
森に危機が訪れたら、エルフが対処するだけだ。
しばらく歩いていると、少し離れた場所で妖精の羽ばたきが聞こえた。
「おい」
シャルルの呼び声に妖精は素早く振り向くと、羽をパタパタと動かしながら空中に浮かび上がる。妖精の様子はいつもと変わらない。
「なぁに?」
シャルルの問いかけに対し、妖精は言葉短に答える。
「森に変なものが出てるだろう」
「変なもの? なんのこと?」
「あの白いものだ。お前なら知っているだろう」
樹木の根元に残された白濁の染みを、シャルルは指さした。
「あんなもの今までなかったはずだ。教えてほしい。あれはなんなんだ」
「あれ? あれはエルフの残骸よ」
「は?」
シャルルの眉間に皺が寄った。妖精の言葉の意味が理解出来なかったからだ。
妖精は構わずに続ける。
「ほら、エドワルダがマンガ触ったじゃない。それに病原菌がついてたみたいね」
「何を言ってるんだ」
「何って病原菌よ。人のものには病原菌がたくさんついて汚いのよ。まっ、アンタたちには分からないだろうけどっ」
妖精のケラケラという高笑いが、シャルルの耳朶を刺激する。
「にしても、大元のエドワルダがまだピンピンしてるのは面白いわね〜」
永遠とも思える長命を持つエルフたちだが、それでも滅びの時はやってくる。
エルフは美しい自然の中であれば、寿命を迎えることはない。
自然から生まれ落ちたが故に、清浄なる自然さえあればエルフが死ぬことはないのだ。
しかし、清浄なる自然がなくなれば、エルフは滅びの時を迎える。
自然の消滅を防ぐために、エルフたちは自らが糧となって、新たな自然の一部となる選択を取る。
そうすることで再生を繰り返し、エルフたちの魂も再び芽吹くのだ。
それが本来のエルフの死だ。
「どういうことだ」
シャルルは咄嗟に妖精に手を伸ばした。
「いやぁぁん。乱暴しないでっ」
だが、その手は何も掴んでいなかった。
妖精の身体は光が凝縮したような質感を持っており、普通の物質としての定義を超えた存在なのだ。その輪郭を捕らえることは誰にもできない。
ただ一つ理解できたことは、今、自分たちは危機的状況に立たされているということだけだ。
何より――その原因を作り出したのが、自分の好きな姉である事実を信じたくはなかった。
「妖精ッ! 姉はなんで無事なんだッ!」
「さぁ? 病原菌だって、必ずみんなに感染するとは限らないし……。あっ! それか免疫力が強くて……。なーんて。まぁ、何にせよ、エドワルダも時間の問題じゃなあい?」
妖精の言葉に、シャルルの心はざわめいた。急かされるように踵を返し、一心に走り出していた。
とにかく姉のいる場所を目指して――。
エドワルダは、風に乗って運ばれてくる木々の息吹を肺いっぱいに吸い込み、森全体の気配を感じ取ろうと神経を研ぎ澄ませた。
けれどミージィの気配は一向に感じ取れず、肩を落とす。その繰り返しだ。
エドワルダが誰かを探すのはこれが初めてだ。
いつもシャルルが迎えに来てれくれるので、探しに行くという発想がなかった。
『姉』
淡々とした声色で自分を呼ぶ声を、無意識に探してしまう。
エドワルダが彷徨うように進んでいると、泉へと辿り着いた。
水でも飲もうと何気なしに、水面を覗き込んだ時のことだ。
水鏡に映し出された姿に、エドワルダは愕然とした。
輪郭が朝露のように薄く滲み始めていた。輪郭だけではない。金糸は風に散るのではなく、風そのものへと溶けていく。
瑞々しい果実のような身体は美しさを喪失し、しなびた木のようになっていた。
耳の尖りは丸くなり、まるで人間のそれへと裏返るように柔らかに崩れていく。
痛みはない。消失である。
それがエルフの最期だ。
「あ、ぁ……っ」
エドワルダの喉奥からは絞り出したような、呻き声が零れる。
指先を見ればどろり、と白い蜜のように溶けだして泉に落ちて小さな波紋を拡げていく。
「……嘘」
胸に手を当てると、かつて林檎のように張っていた双乳は、指が沈むほど柔らかく、まるで腐った果実の芯のようにぬるりと崩れかかっていく。
痛みはない。
ただ、すべてが「溶けて」いく。
「シャルル……」
「姉ッ!!」
待ちわびていた声がした。
張り詰めた音は木々を揺らし森の静寂を切り裂いていく。
鳥が飛び立つ音がした。
エドワルダは瞬時にその音の方へと顔を向けた。だが、エドワルダにはもう何も見ることは出来なかった。
夜を宿した瞳からは、すでに光は失われていた。
シャルルの目に飛び込んできたエドワルダの姿は、すでに無であった。
紫の瞳だけがまだ艶やかにシャルルを捉えている。
「エドワルダ…」
かつて姉であったものを、シャルルはただ見つめる。
目を逸らしてしまうのは悪いと思ったからだ。
この時になって初めて、シャルルはエドワルダの名前を呼んでいた。
しかし、返ってくる囀りはどこにもない。
それがシャルルには悲しくて堪らなかった。
間に合わなかった。いや、間に合った所で自分にはどうにも出来なかっただろう。何も出来ないまま、全てが終わっていく。
もう、エドワルダは姉ではなくなったのだから。
「エドワルダ」
それでも、シャルルはその名前を口に出していた。
『人間はね、好きな人にキスをするのよ』
シャルルの脳裏に、エドワルダのはきはきとした声色が蘇ってくる。
シャルルはゆっくりと膝を折り、姉の鮮やかな紫水晶の瞳に顔を近づけていた。
「あら〜エドワルダ死んじゃったの」
刹那。空気を切り裂くように、妖精の呑気な声が割り込んできた。
「邪魔だ。どっか行け」
「そんな怖い顔しなくたっていいじゃない〜。アンタはどうすんのよ。ここにいても死ぬだけよ?」
「そうか。死ぬのか」
「えぇ。どうする? 逃げる?」
シャルルは思案する。
妖精の言葉は正しい。森にいた所でエドワルダのようになるだけだ。
悲しい現実に、シャルルはどうしよも無さと限界を感じていた。
シャルルは指先で、エドワルダの肉液をすくい上げる。
それを汚いとは思わない。
掬った肉液は、すぐに煙となって消えていき、あまりの儚さに身体が震えた。
エドワルダの息遣いを思い出していく。
一度もエドワルダのことを抱きしめることはしなかった。だが、その行為が本当に必要なことであったのか、今となっては分からない。
「ねえねえどうすんの?」
悲しいのか悔しいのか、死を認めてしまえば本当にこのまま何もかもが消えてしまいそうだとシャルルは思う。
「……海に行く」
エドワルダの肉液を泉に溶かしていきながら、シャルルが小さな声で答えた。
「え?」
「海は自然だ。この森よりかは綺麗だろう。ならオレはそこで生きる」
「ふ〜ん。でも、エルフではいられないよ?」
「ああ。それでいいんだ」
シャルルはもう一度エドワルダの瞳を見たかった。けれども、エドワルダの瞳はもうそこにはなかった。
森を立ち去る前に、シャルルはまだ生きているエルフたちを見つけ海へと誘った。
それは決して贖罪ではない。
海は遠かった。けれども、歩を進める度に近づいてくる潮風の匂いだけが、シャルルの慰めとなる。
一滴の雫から生まれたシャルルが海へ還るのは自然の流れだ。
エドワルダとシャルルがエルフとして生を受けた時代の話だ。
人間の世界では一つの産業革命が起こっていた。人間たちの世界に、異世界の文化が齎されたのである。
良く晴れた日のこと。
なんの変哲もなく、異世界から扉が開かれたのだ。
扉からやって来た人物は、こちらを異世界だと言い張り自らを『転生者』と名乗った。
その言葉の意味をこの世界の者たちが理解することはない。
そんな彼が、伝えた文化は二つある。
一つは、本だ。
もう一つは、音楽である。
この二つが齎されると、瞬く間にこの世界に流行っていた。
本も音楽もそれまでの世界を一変させたのである。
本が売れれば経済が活性化し、歌が人気になれば人の行動や習慣が変わった。誰もが本を読み、音楽を聴き、歌を歌い、文学に心を躍らせたのだ。
本を刷るために、機械が生まれた。 楽器を弾くために、素材が求められた。その素材を作るために、鍛冶師や細工師といった職人たちが活躍した。
革命は連鎖的に起こり、世界は急速に進化をしていく。
だが、革命には犠牲が生まれる。
あくる日、未知の病が流行りだしたのだ。
その病は、発病すれば数週間で死に至らしめるものであった。恐ろしいのは、この病が空気感染するということであった。
人間たちは恐れた。
この病は神から我らに与えられた試練であると、一部の者は考えた。神に背く行いをしてきた人間への罰だと信じ、その罰として死を賜うのだと。
転生者を敬っていた者も、この病は彼が異物を持ち込んだせいだと嘆いた。
しかし、技術の発達に伴い薬の開発にも成功した。病の発症は抑えられ、死者も減少し、今では脅威でもなもない。
妖精たちは今日も語り合う。
「それでね、エドワルダは死んじゃったのー」
「あららー」
「でも、シャルルがね、エドワルダの分まで生きるって」
「へぇー。それは良かったわね。で、シャルルはどこ?」
「それがねぇ、シャルルは森を出て行っちゃったの」
「あらら〜どうして?」
「エドワルダが死んじゃったからね」
妖精たちはいつまでも語り合う。今日も変わらず、空飛ぶ彼らは人々の頭上を飛び交い、蠱惑的な声で笑う。
「そっかぁ。じゃあシャルルはどこに行ったのさ?」
「海だって。エルフじゃなくて、これからはセイレーンとして生きていくってさ。た〜まに海の方から泡が飛んでくるのが見えるわよ」
「そうなんだ。じゃあ今度見てみようかしら。ねえ面白い話もっと聞かせてよ」
「そうねぇ、じゃあ次は――」
これは喜劇である。
そして海へ (👊 🦀🐧) @Dakamaranokina
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