雪の上

佐藤一彦

雪の上

 雪が降る夜というのは、舞い落ちる雪に魅入ってしまうものです。一夜にして街を真っ白く染めてしまう雪ほど、神秘的で美しいものはそうそうございません。ひらひらと舞い落ちる雪に、思わず心奪われてしまえば、しばらくはそれを眺めるだけで時間が消えるのです。


 とある住宅街のコンビニの軒下からは、降り落ちる雪が看板に照らされて緑色に染まって見えます。駐車場に車はありません。店内を見ても、店員は事務室で作業をしているらしく、売り場を歩く人影はありません。そこらを歩いている人もありません。ただ、雪がしんしんと降り続いています。

 さて、ここにある一人の男がいます。男は大学に通う青年なのですが、今宵、所属するサークルの飲み会を断って、たった一人空を眺めております。空からはゆっくりと雪が舞い落ちてきています。

 この街の今年の初雪は二日ほど前、人気の無い深夜に、はらりはらりと舞った程度でした。男は起居するアパートの一室からそれを眺めていましたが、別段何を感じるということもなく、ただ「あぁ降ったな」と思ったくらいでした。

 しかし今、男はまるで取り憑かれたかのように、雪が降る空をじっと見ています。この男、本来ならば飲み会に入り浸り、飲み慣れぬ酒をあおって、仲間と叫び散らすような男なのですが、今宵は何やら違います。何が違うのか、当人も分かっていません。

 ただただ呆然としていますと、通りの向こう側にある一軒家のガレージにあるライトがパッと点きました。人感センサーが付いているようで、赤く小さい光が点滅しております。その近くを舞い落ちる雪が、一瞬赤く染まっては消え、染まっては消えを繰り返しております。男は何か思い当たる節があるらしく、それを眺めていました。


 周りはシンとしています。車も人も通りません。人から獣に至るまで、すべてが寝静まったようです。丑三つ刻と呼ばれる頃合い、男はただ上を向いて雪を眺めています。

 仲間たちは今頃、どんどんエスカレートする酒宴を楽しんでいるのでしょう。

 そんなことを考えていると、男の横にもう一人の影が現れました。

「風情ですね」

と、その影は言いました。男はぎょっとしてその影の主を見つめます。

 それは老人でした。禿頭にオスロを被り、すっかりくたびれた毛糸のコートを着ています。少し伸び気味の髭は白く、大きな涙袋が目を引きました。

「ええ、そうですね」

 男は返しますが、いきなり話しかけられた戸惑いと寒さで、声が少し震えていました。

「この街では昔は十一月には既に雪が降っておりましてね、十二月の今頃には十五センチは積もってましたね」

「そうですか」

「随分と遅くなりました。ただやはりここは美しいですなぁ。美しい街です」

「良い街ですよね」

「えぇいやぁまぁ。しかし私はあの辺りにおりました頃には、まだ桑畑がありましてね。その頃のほうがいくらか好きですがね」

老人はそう言って笑いました。男はどう返していいか分からず、ただ頷いていました。

「私なんかは社会の落伍者でね、いやこんな道端で他人ひとつらまえて話をしていいほどの人間ではないんだけども、それにしても見事だからね。それに魅入ってた貴方の趣味が良いな思ったんですよ」

老人は男の目の前に出てきました。

「テレビなんか見てますとね、今の世の中は大変だと思いますよ。若者にね、しゃんとしなさいと言いたいですけどね、私のような落伍者が言って良いことではないんだけども。早く居なくなるべき人間なんですけどね」

「長生きしてくださいよ」

「この間テレビで象亀の話をしておりましてね、あれは研究だなんだといって死なせないために注射やらをしているらしいですね。理由わけもわからず長生きさせられて、気の毒ですね。私もそんなもんですよ」

 男は老人の話を掴みあぐねていました。下手に相槌を入れると、老人はさらに話を広げようとしまして、男を掻き乱すのです。雪を呆然と見ていたことで平静としていた男の心が、老人の芯がない話によって揺らぎつつありました。

 老人の話は次第に熱を帯びていました。動きが大きくなり、どんどんと車を停める区域に近づいていました。

「私なんかは社会の落伍者ですからね、少しでも役に立ちたいとか思いながら今は生きておりますね。最後はやはり、人のためですよ」

 一台の車が駐車場に入って来ました。車は迷うことなく老人の立っているスペースに入ろうとしてきます。

「貴方も人のために生きなさいよ。雪みたいな人生じゃだめ」

刹那、老人の背後が強く光りました。車が突っ込んで来ます。男は息を呑みました。

老人はその言葉と共に、鋭い視線を男に向けました。男は腹の中を舐められたような感覚になりました。


 ぐしゃり、という音を立てて、老人は車の下敷きになりました。

 運転手は、男より少し歳上くらいの男性会社員でした。何食わぬ表情で店内へ入って行く様子を見ると、男は今目の前で起きた出来事が本当だったのか疑わしく思えました。

 男はしゃがみ込み、車の下を見ました。そこには老人が横たわっていました。頭が割れ、白い雪が真っ赤に染まっています。男の足元に、老人が被っていたオスロが転がっています。男は恐る恐るそれを手に取りました。この帽子を、男はどこかで見たことがあります。そう遠い話ではありません。しかし、男はそれを思い出せませんでした。


 男は雪を眺めています。しかし先程までと違うのは、降り落ちる雪ではなく、降り積もった雪を眺めていることです。車の下には倒れた老人と赤く染まった雪、男の手にはオスロが握られています。

 店から運転手が出てきました。手にあるビニール袋には、ポテトチップスの袋が入っています。運転手は男を不審がりながら車に乗り込み、エンジンを掛けて発進しました。その一連の動作は、あまりにも日常のものでした。

 車が出て行った後に残った轍の間には何もありませんでした。老人の死体も、血に染まった雪も、そこには何もありませんでした。

 男はいよいよ気がおかしくなりそうでした。苛々して頭を掻き毟り、目の前を充血したまなこで凝視しました。

 目の前のガレージで、人感センサーが再び反応していました。赤い点滅が雪を照らしています。それを見た瞬間、男は思い出しました。この手に握られたオスロが、どこで見たものなのかを。


 去年の今頃です。男は飲み会帰りに車を運転して事故を起こしました。山奥の道路で、人を轢きました。点滅するハザードランプが、降りしきる雪を染めました。被害者の頭が割れ、血で雪が染まりました。その時も男の手にはオスロが握られていました。


 そうです。先ほどまで話していた老人を、男はかつて轢き殺したのです。

 遠くからサイレンの音がします。静かな住宅街に響くそのサイレンは、誰が呼んだのか分かりませんが、確かに自分を目指して近づいてきているのだと男は分かりました。

 男は再び空を眺めました。もう雪は止んでいます。その代わり、軒下の汚さが目に入りました。男は、もう二度と雪を見たくないと思いました。男は、もう二度と酒を飲みたくないと思いました。男は、もう二度と老人の顔を見たくないと思いました。男は、もう二度と老人の声を聞きたくないと思いました。


 警察車両の赤色灯が、降り積もった雪を染めています。

 真っ白い雪の上を歩いて、男は警官のもとへ向かいました。その手に握られているのはオスロではなく、真っ白い雪の塊でした。


 雪が降る夜というのは、舞い落ちる雪に魅入ってしまうものです。一夜にして街を真っ白く染めてしまう雪ほど、神秘的で美しいものはそうそうございません。ひらひらと舞い落ちる雪に、思わず心奪われてしまえば、しばらくはそれを眺めるだけで時間が消えるのです。

 しかし、あまり見惚れすぎてはいけません。真っ白な雪は、幻影を映し出す格好のスクリーンにもなるからです。


 それにしても、雪とは綺麗なものです。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

雪の上 佐藤一彦 @satosatoann

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ

参加中のコンテスト・自主企画