声なき痛み

 昼休みの教室は、午前中のざわめきの名残をゆるやかに引きずりながら、熱を孕んだ空気で満たされていた。

 弁当を開く音、机を寄せる音、パンの袋を破く微かな擦過音。外に広がる春の光が窓ガラスを通り、机の表面に淡い影を落とす。


 その影の揺れ方は、校庭の木々が風に揺れていることを示していたが、教室の中にいる生徒たちはほとんど気にしていなかった。ここは外界から切り離された、ひとつの島のような空間だった。


「でさー、聞いてよ。昨日さ、また親がさ……」


「うわ、それはキツいなぁ」


 近くのテーブルでは、女子たちが寄り集まり、内輪だけに通じる苦笑と溜息を交換している。

 その合間に、スマートフォンの着信音が断片的に割り込む。

 昼休みという名の曖昧な自由は、それぞれの体温を少しだけ高めていた。


 志藤凌介は、教室の隅の席で弁当を広げていた。

 母親が詰めてくれた卵焼きは、いつもより形が崩れている。黄色の端が少し焦げ、層の間が不揃いに見えた。そんな些細な違いが、妙に胸に引っかかる。


 ――最近、母さんも疲れてるのかな。


 箸でそれを口に運ぶと、少し甘く、そして少しだけ塩辛かった。

 味覚の奥に残るその調和の悪さが、どこか人間の複雑さに似ていた。


「凌介、一緒に食わんのかと思った」


 声の方を振り向くと、三浦凛太がトレイを片手に立っていた。

 購買で買った焼きそばパンと紙パックのコーヒー牛乳。

 彼は椅子を引くと、自然に隣に座り、狭い机の上に雑にパンを置いた。


「お前、弁当か。いいなあ。俺も作ってもらいてー」


「絶対似合わねぇよ。お前のキャラじゃない」


「キャラとか言うなよ。俺だって家庭的かもしれないだろ?」


 凛太は笑いながらパンをかじり、小さくむせた。

 その咳き込みに混じる微妙な呼吸の乱れに、凌介は一瞬だけ目を細める。


 ――今日は、少し疲れている。


 声の張り、頬の色、笑うときの目の開き方。

 どれもほんのわずかだが、昨日とは違っていた。


 しかし、それを口に出すことはしない。

 特に凛太のような人間に対しては、余計な「気づき」はむしろ距離を生みかねない。


「そういやさ、さっきのホームルームのときさ」


「……高槻のことか?」


「そう! あれ意外じゃなかった? 玲ちゃん、ああいうふうに他人の名前出すタイプに見えんかったけどな」


 凛太はパンの袋をくしゃりと握りしめながら、眉を上げる。

 彼の素朴な驚きが、教室のざわめきの中で小さく弾んだ。


「志藤が向いてるってさ。なんでだろな」


「知らねぇよ。……てか、余計なこと言わなくていいのに」


「おっ、照れてる?」


「違う」


 そう答えながらも、凌介の胸の奥に、落ち着かない波紋が広がっている。

 昼の光は柔らかいはずなのに、自分の存在だけ妙に輪郭を濃くされたような気分だった。


 ふと、視線を感じた。

 教室の反対側――窓際の席。

 そこに、高槻玲が静かに座っていた。


 彼女はこちらを見ていた。

 ほんの一瞬。

 だが、その「一瞬」の形が、なぜか胸に刺さる。


 視線を合わせるまいと、凌介は目をそらす。

 それでも、まぶたの裏に残る像の鮮明さは弱まらない。


 玲の表情は、相変わらず感情の少ない平板なものだった。

 だが、その奥に、何か固いものが沈んでいる。

 言葉にならない、声を持たない痛みの塊。

 その重さは、独りで抱えるには少しばかり鋭すぎるように見えた。


「なあ、志藤。マジで委員やる気ない?」


「ない」


「高槻が名前挙げたら、先生の反応も変わるぞ?」


「……それが嫌なんだよ」


 凛太は不満そうに口を尖らせたが、それ以上は追及しなかった。

 昼休み終わりのチャイムが近づき、教室の空気がゆるやかに収束し始める。



 午後の授業が始まると、生徒たちの意識は徐々に沈んでいった。

 教室を満たすのは、教科書のページをめくる音と、教師の淡々とした声。

 窓の外では、春らしく薄い雲が空を覆い、光は柔らかく散っていた。


 現代文の時間。

 教室の後方、半開きの窓から入る風が、教科書の端を微かにめくる。

 ページが一枚だけ、ひとりでに浮き上がり、すぐに静かに戻った。


 その隣で――。


 小さな音がした。


 紙が握り込まれる、あの乾いた音。

 意識していなければ聞き逃してしまうほどの微音。

 しかし凌介の耳は、その音を逃さなかった。


 視線を横に滑らせる。


 高槻玲が、机の上に置いたプリントを強く握りしめていた。

 節の浮いた細い指先が白くなり、紙が歪む。

 呼吸は静かだが、胸がほんのわずか早く上下している。


 ――また、あのプリント。


 昼休みには机の端に置かれていたものだ。

 端が皺になり、何度も開かれ、閉じられた跡。

 その紙の質感自体が、彼女の内側の荒れ方を語っているようだった。


 教師の声が、遠くなっていく。

 教室全体がぼんやりと薄膜に覆われる感覚。

 その中で、玲だけが異様に鮮明だった。


 ――関わるな。


 自分に言い聞かせる。

 今までもずっとそうしてきた。

 誰かの痛みを見つけても、自分はそこに足を踏み入れない。


 そのはずだった。


 だが、次の瞬間――。


 紙が破れる、乾いた裂け目の音。

 プリントが彼女の握力に耐えきれず、端が裂けてしまった。


 教室中がその音に気づいたわけではない。

 教師も、生徒のほとんども無関心のまま授業を続けている。


 けれど、凌介には、その音があまりにも大きく響いた。


 まるで、彼女の心のどこかが破れたかのように。


「……高槻」


 声をかけたのは、ほとんど無意識だった。


 自分でも驚くほど小さな声なのに、玲はゆっくりとこちらを向いた。

 その動作はぎこちなく、そしてどこか怯えたものにも見える。


 睫毛の影が長く伸びている。

 目の奥は、透明なのに、何かを必死に押しつぶしているような暗さを帯びていた。


「プリント……破れてる」


 言ってしまってから、後悔した。

 そんなことは、彼女自身が一番わかっているはずだ。


 だが、玲はなぜか――ほっとしたように見えた。


 緊張を張り詰めていた糸が、一瞬だけ緩む。

 破れた紙片を見つめるその目は、寂しさとも、自嘲ともつかない色をしていた。


「……気づいてたんだ」


 玲は囁くように言った。

 声は、驚くほどかすかだった。


「別に。たまたま」


「ううん。志藤くんは、気づく人だから」


 その一言が、胸の奥深くにゆっくりと沈んでいく。

 重く、あたたかく、そしてどこか怖い。


 凌介が言葉に詰まっていると、玲は破れたプリントの端を指先で撫でながら、ほんの少しだけ唇を震わせた。


「……誰にも気づかれないって、思ってた」


 その声には、「気づかれたくなかった」と「気づかれたかった」が奇妙に混ざり合っていた。

 どちらが本音なのか、判別できない。

 いや、本人にもわからないのかもしれない。


 その曖昧さは、凌介の胸を締めつけた。


 ――どうすればいい。


 彼には、誰かの痛みに触れるための言葉を知らない。

 万能な慰め方も、寄り添い方も持っていない。


 それでも、何か言わなければいけない気がした。


「……無理、してる?」


 恐る恐る投げたその言葉は、風に運ばれた砂粒のように頼りない。

 しかし玲は、その言葉をしっかりと受け止めた。


 まぶたが震え、深く息を吸い込む。

 その胸の動きは、まるで何かを押し留めるための最後の防波堤のように見えた。


 玲はゆっくりと、首を横に振った。


「……わかんない。自分でも」


 その瞬間、春の光が雲に遮られ、教室がわずかに暗くなった。

 風の音だけが窓際で鳴り、ページがまたひとりでにめくれる。


 静かで、痛みを孕んだ、ひとつの沈黙。


 その沈黙の只中で、凌介は悟る。


 ――もう、自分は「見ないふり」をできなくなっている。


 彼女の声なき痛みに触れてしまった。

 その重さを知ってしまった。


 その瞬間から、志藤凌介の世界は、ほんの少しだけ軋み始めていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る