2984年のコンサルタント

青出インディゴ

空色の部屋

「マグリットの作品に、なんかそんなのなかったっけ?」

「マグリット?」

「ほら、シュールレアリスムの画家で……」

「シュール?」

「ごめん、あんまり有名じゃないよね」

 小野田ショーンは内心ため息をついて会話を打ち切った。マグリットは有名だと思う。中学校の美術の時間に起きてさえいれば。あるいは美術展の広告に気を留めてさえいれば。留めるも留めないも自由だ。ただ、小野田は留めるし、この同僚は留めないというだけのことだ。

 どっちが偉いとかじゃない。

「あるわけないよね」同僚は言う。

「マグリット?」

 あれ、まだこの話題続けてくれるの? と、小野田は喜び勇んで言葉を紡いだ。「あったと思うけど。空色の……なんかアパートの部屋の中みたいな絵で」

「いや、それは知らないんだけどさ。ありえないじゃん、空色の壁の部屋なんて」

「そっち? それはそうだよね。当たったらびっくりだよ」

「だからありえないって。誰が壁、空色に塗る?」

「塗らないでしょ。塗るわけないじゃん」

「うん、だから気にしなくていいと思うよ」

 つまりこの同僚は慰めてくれていたのだ、と小野田は気づき、暖かい気持ちになった。

「空色の壁なんて」彼は怖気を震ったように吐き捨てた。「都市伝説ってやつでしょ。当たるわけないよ、小野田くんの部屋」

 うん、だよね、と小野田は答えた。近々引っ越ししなければならない身に、同僚の言葉は染みた。小野田が現住所の公営アパートに一人暮らしをして10年。先週、ConSulコンスルから引っ越し助言が通知された。なぜ引っ越す必要があるのか。それはわからない。現在就いている清掃員の仕事に不満があるわけでも、雇い主から解雇を言い渡されたわけでもなかった。結婚の予定も、実家の誰かが死ぬ予定もない。ただConSulに助言を受けたから引っ越すことにする。いままで受け入れて嫌な思いや失敗をしたことはない。その経験の積み重ねが、ConSulに対する小野田の絶対的な信頼に繋がっている。

 小野田は清掃道具入れの扉をいつも通り丁寧に閉める。

「ありがとね。また明日」

 同僚に声をかけ、私物を取るためロッカールームに向かう。

「絶対ないから!」

 背中に同僚の声が降ってくる。いいやつだ、と思う。マグリットの話題を出した自分が悪かったんだよな、と小野田は考えながら、配給のコートの袖に腕を通し、ポケットに忍ばせたナイフを撫でた。


 翌日、小野田は玄関土間にスーツケースを取り落とした。

 新しい公営アパートのワンルーム。壁一面が空色に塗られている。べったりとした質感はペンキを思わせる。おそらく壁紙本来の色じゃないのだろう。空色の壁紙なんてものが、2984年現在、存在するかは知らないが。

 動悸がして、息ができない。

 胸に手をやり、何度も深く呼吸する。土間の上で、革靴の先が震えている。

 どうしてこんなことになったんだ? 俺がなにをした? なぜこの俺がこんな目に?

 おそるおそる視線をやると、ペンキは完全に乾いていて、最近塗られたものではないようだ。恐ろしくてすぐに目をそらしてしまう。

 ありえないって。同僚の言葉が浮かぶ。小野田はすぐにでも出勤して、現実主義者の彼に取りすがりたい気がした。もし、100年前のように人間の不動産屋でもいれば、そいつに取りすがってもいい。だが、そんなものはいない。引っ越しというのは今日日、自由意志は介在しないものだ。個人端末にConSulから助言が届く→意志を表明する前に転居先候補一覧が届く→迷っているうちに新居が決まる→荷物をまとめて出て行くと同時に次の入居者が現住所にやってくる。という順序で行われる。引っ越しに限らず何事も。そして独居アパートのインテリアは、どこだって白一色に統一されているというのがセオリーだ。空色の壁なんてありえない。

 禁止されているわけではない。だが、壁を空色に塗ったら、いつか後悔するだろう。それはこの100年のビッグデータからわかりきったことだ。危ない橋をわたるやつがいるか?

 いたんだ。

 小野田はやっと息が整って、部屋に入る決心がついた。入らなかったところで無宿者になるだけである。ConSulに助言される以外の引っ越しの仕方は知らないから。

 スーツケースを置き、アイアンベッドに腰を下ろし、奇妙な壁を眺め回す。

「寒い」そうだ、寒い。言ってから、小野田は思う。

「かしこまりました」

 壁が女声で応答し、エア・スタビライザーが新しい入居者のために作動を始めた。機能面では他の部屋と遜色ないようだ。

「あー……名前は?」

「プライバシー保護のため、1時間前に前入居者のプロンプトはリセットされました。私の名前は小野田様が設定してください」

「あー……ルネ」

「ルネ、素敵な名前ですね。私はルネ」

「その、ルネ……どうして空色なん?」

「いただいた質問につきましては、プライバシー保護のためお答えできません」

「そうなの、そう……前の人が塗ったのかな? プライバシーってそういうことだよね、あー答えられないか……いや、いいんだ。ただね、都市伝説みたいになってるよ」

「都市伝説と言いますと?」

「世界のどこかのアパートの一室の壁が、空色に塗られているっていう」

「世界ですか」

「刺さるの、そこ?」

「私が空色であることは厳然たる事実ですから、特にコメントはありません。世界の定義のほうが興味深いですね」

「確かに、都市伝説にしては規模がでかすぎるかもね。そのでかすぎる試行回数の中で、なんで俺がこのアパートに当たったんだろ」

「興味深いですね」

「今年ConSulおすすめの白壁を、別の色で塗りつぶすなんてどうかしてる。そんな失敗する必要ないんだ」

「興味深いですね」

「興味深いかあ?」

「興味深いですね」

「ループだね。明日プロンプト作るわ。今日はもう寝る」

 小野田はベッドに身を投げ出した。備え付けのマットレスが心地よく体を受け止めた。


 引っ越して1週間後には、小野田の個人端末に婚活の助言とともに、女性の一覧データが届いた。

「うーん……」

 不思議に高揚する気持ちと、戸惑う気持ちが相反しながらも、ベッドに寝転びながら端末画面をスクロールしている。会社の同僚にも結婚している人はいる。左手の薬指に指輪がはまっているのを見ると、羨ましくも思う。AIよりも人間との会話の方が上等だというのがConSulの勧める価値観なので、毎晩帰宅後、人間と会話できたらそりゃ楽しい、得るところがあるだろうと思う。だが、いま結婚したいかどうかはわからない。AIとのチャット、あるいは匿名SNSに無責任な発言を放流して、その結果をハラハラしながら眺めているほうが気が楽ではある。

 画面を垂直に流れゆく写真は美しいものばかりだ。男性視点を意識して最適化されているのだろう。でも、いったい自分を受け入れてくれるのはどの人なのだろう。データと写真だけで選べと言われても無理である。だが、ConSulは常にそれを勧めてくるし、世界中の誰もがそうやって暮らしているようだ。

 小野田は答えを保留した。そうしていれば、また勝手にConSulがデートの日程を決めるだろう。見ず知らずのデート相手に、助言を反古にしたというそしりを受けないためには、その日に出かけなければならない。出かけなければ、SNSで批判の制裁を受けるばかりである。引っ越しと同じだ。かといって、自由意志が存在しない、というのは欺瞞だ。現実に小野田は答えを保留するという自由意志を選択している。

 端末に通知が届いた。デートは翌日である。


「マグリットが好きなんです」

 小野田は肝をつぶした。

 指定された、ほどほどの値段設定の、チェーン店ではない、プリオーダー制ではない、適度に隣席との空間があいている、がやがやしていない、内装がこじゃれた、ファミリー向けではない、その他・その他・その他の条件に合致したカフェで、小野田は肝をつぶしたということだ。

 彼女は春日かすがルネといい、驚くべきことにこれが本名なのだという。ConSulは、どこかで俺の会話を聞いているのだろうか、と小野田はおののいた。そこで名前を話題にし、由来を尋ねてみたところ、冒頭の答えが返ってきたのだった。

「両親がね」ルネはアイスコーヒーの氷を揺らす。「マグリット、知ってますか? 画家の」

 うん、知ってます。と小野田は答えた。

 ルネはちょうどいい相手に見えた。少なくとも、初対面時は。ストレートの長い黒髪、白い肌。少し痩せ気味の体をグレーのワンピースに包んでいる。よく見れば整った顔立ちで、女性特有の、初対面の異性を嫌悪するふうもない。小野田からのルネに対する態度もそうだった。嫌悪どころか。

「ショーンは? あっ、すみません、ショーンさんは?」

「あっ」呼び捨てでいいと答えようか迷い、結局やめてしまう。まだ早いんじゃないか?「えーと、俺は、なんだろう。由来聞いたことはないです。羊のショーンかな」

 あはは、と彼女は声をあげて笑う。

「すごい古いアニメ知ってるんですね」

「古いのが好きなんです」小野田はひやひやしながら答える。

「マグリットは好き?」

「好きです」

「嬉しいです。いままであんまりピンときてくれる人に会ったことないから。名前は知ってても、好きか嫌いかのジャッジはみんなしないみたいですね。なんでも」

「そうだ……ですね」

 テーブルの上で、ふたりの端末のアラームが同時に鳴った。

「あ、ConSulから。推奨時間の1時間経ちましたね」とルネ。

 小野田は勇気を振り絞った。

「どうでしょう、少し歩きませんか」

 ルネはパッと笑顔を輝かせた。

 それが出会いだった。このときの小野田の気持ちについて説明の必要はあるまい。


 夕暮れの公園は最適化され、植生、ベンチ、遊歩道、道行く人、遊ぶ子供、散歩する犬までが完璧に配置されている。おそらく自分たちもその中のひとつなのだろう。

「コーヒーでもテイクアウトする?」

 テラス席のあるカフェを眺めながら、小野田は尋ねる。

「いいね。でもほんとはミルクのほうが好きなんだ」

 そこで、小野田はミルクをふたつテイクアウトした。寒空に冷たいミルクが沁みる。典型的ではないデート。しかし、彼女のジャッジによるデートは心地よかった。

 ここ数週間、小野田はいままでにない高揚感を味わっていた。初めての恋人、デート、相手の知識を慮らなくても通じる会話。春日ルネという存在が、彼の骨の内側まで入り込んできて、暖かく内面を満たしていた。頭の先から爪先まで、輝く火の粉がぎっしり詰まり、常にパチパチパチパチと皮膚の裏から刺激する。仕事をしていても、食事をしていても、アパートで寝ていても。彼女がいれば自分は大丈夫だという気がした。世界はもう無機質なプラスチックではなく、織られる前のシルクだった。幸福で、だけど反面、空恐ろしくて、彼はいつも自分を落ち着かせるためにナイフを忍ばせていた。誰もわかってくれなくても、彼女に通話すればわかってくれる。

 公園で会えば、もっと。

「私ねえ、ショーン、『不許複製』を見るとね、星新一のエヌ氏が思い浮かぶんだよね」

「顔が見えないってところは、確かにそんな感じだねえ」

「私たちもさ、そうじゃない? ショーン、顔ある?」

「あると思うけど……たぶん」

「私は?」

「ルネにはあるよ。俺見えてるよ」

「私もショーン見えてる。だけど、自分の顔は見えないじゃん。ほんとにあるのかな。誰かに言われないと、あるってわからないじゃん。私はねえ、ほんとにあるのかどうか、いつも不思議。私、騙されてるのかな」

「誰に?」

「世界に!」先を歩いていたルネは、振り返って笑う。「誰にも言わないでね。初めて言ったの、ショーンにだけ」

 隠し持っていた人生の疑いを開け広げに告白してくれる彼女に対して小野田はたまらなくなって、今日ついにあのことを打ち明けようか迷っていた。この奇妙でデリケートな彼女は、どう考えるだろう? 手に汗がにじんできた。ナイフを思う。

 街路樹のイルミネーションが一斉に点灯した。どちらともなく立ち止まる。ConSulが背中を押している。

「ルネ、俺さ」

「うん」

 小野田は唾を飲み込もうとしたが、カラカラに乾いていてできなかった。鍛冶屋の真っ赤な鉄になった気分だった。

「ルネ、俺の部屋さ」

「うん」

「いままで言わなかったけど」

「入れてくれたことないけど」

「うん。実は壁が空色だからさ」

 時が止まる。ルネは呆然と立ち尽くしている。小野田は涙をこらえて話し続けた。

「来て見てくれる?」


「ルネ! 電気つけて」

 部屋が明るくなった。小野田の後ろにいたルネは目を見張っている。小野田は気まずい思いでその様子を観察していた。

「空色でしょ」

「AI、ルネっていうの?」

「そっち? うん、出会う前だから、名前つけたの」

 ごめん、となんとなく謝る。「入って」

 うながされて、春日ルネは黒のパンプスを土間に脱ぎ置き、部屋の中に足を踏み入れた。小野田はその後ろからついていく。細身のグレーのコートの背中と、空色のペンキの対比が目に鮮やかだ。美しい、と感じた。

「なんで黙ってたの?」

 神ににらみつけられてでもいるかのように、ルネが声をひそめて訊く。小野田は答えられず首を振る。答えなんて決まっている。嫌われたくなかった。ただその一心だ。空色の壁の部屋に住んでいる男なんて、この世界で誰が選ぶだろうか? ふたりでいることを知ってしまった小野田には、もう孤独への後戻りはできそうになかった。ルネにはそれがわからないのだろうか。小野田の気持ちがわからないのだろうか。ルネもそんな気持ちじゃないのだろうか。

「空色が好きなの?」

「俺が塗ったんじゃないよ」

 小野田は吐き捨てるように言った。この空色をどうすればいいか、引っ越してからずっと考えていた。同僚には言えなかった。実家の家族にも。自分で塗ったんじゃないのに、強制的に空色の住人にさせられて、一晩中眠れないこともあった。だけど、彼はそこから抜け出せなかった。ConSulから助言が来なかったから。

「塗り替えないの?」

「うん。白いペンキなんて売ってないし」

 ルネはもうなにも言わず、ただ壁を見まわしている。小野田は近づいていった。

「ルネ」

「はい、小野田様。ご用はなんでしょうか」

「お前じゃない、ルネさんのほう」

「ショーン。この部屋の前の住人を知らないの?」

「うん、データはデリートされてる」

「前の住人、私だって言ったら?」

「え?」

 ルネは奇妙な表情でこちらを見た。その肌がアンドロイドのように無機質に見えた。唇がぱくぱくとひらいて、音波を発している。

「デリートされてもさ、ビッグデータに蓄積されてる。すべてのネットワークが繋がったこの世界で、ConSulがショーンのデータを私に送って寄越したのはロマンチックな偶然じゃない」

「え? え? え?」

「アパートの部屋の壁を空色に塗るような女に最適な相手がショーンだったの。ただそれだけ。私もきみも、自分の意志でデートしてたんじゃないってこと」

 ルネの両眼から溶液がこぼれている。

 運命じゃなかった。自由意志じゃなかった。人間じゃなかった。恋じゃなかった。つまらない俺。つまらないルネ。すべては執政官コンスルのアルゴリズムが生成した予測値の範囲内。隠し持った空色さえ。

 小野田は絶叫した。

 空色さえ。

「なら」ナイフを取り出す。「いま塗り替えるから」

「ショーン!」

 ルネが叫ぶ。男の手に握られたナイフが、釣り竿のように襲ってくる。銀色のきらめきが空色を映す。赤が飛び散った。

 全てが終わったあと、空色の壁は赤く染まっていた。さながら火星の空のよう。

「俺と結婚して、ルネ」

 小野田は彼女の肉体の隣に横たわり、白い天井を見上げていた。赤い天の川が滴り落ちている。小野田は初めて自由だった。

「はい、小野田様」ルネが答えた。

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2984年のコンサルタント 青出インディゴ @aode

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