水鏡のミナモ
不思議乃九
第1話
——
薄い金屏風が両壁に立ち、静かな水音を思わせる照明が床をやわらかく照らしている。
ここは
ミナモはこの部屋を、自分の“安楽椅子”として使う。
ミナモ、32歳。源氏名は水面(みなも)。
静かな湖の底のように揺れない瞳を持つ彼女は、ただの接客嬢ではない。
客が飲み込みきれなかった「さざ波」を、この密室でほどき、
胸の奥に溜まった澱を静かに沈めることこそ、もう一つの仕事だった。
今夜の客は佐伯。
大手広告代理店のディレクターで、40代前半。
スーツも仕草も、いつも完璧だ。
だが、その完璧さこそが“鎧”であるとミナモは知っている。
湯上がりの佐伯と並んで腰を掛け、
ミナモは薄手のガウンを整えながら、そっと声を促した。
「……少し、変なことが続いていてね」
困ったような笑みの奥に、本気の疲れが潜んでいる。
「どうでもいい話かもしれないんだけど──」
「佐伯さんを悩ませることなら、全部たいせつです」
柔らかい声に押され、彼は静かに話し始めた。
◆
佐伯には、昔からの習慣がある。
毎朝、会社近くのコンビニでブラックの缶コーヒーを1本買い、
“その日の仕事の守り札”として、飲み終えた空き缶をデスク右上に置いておくのだ。
出社の瞬間を自分に刻む、密やかな儀式だった。
だが──
ここ一週間、出社して席に着くと、
その“空き缶”の横に、新品の同じ缶が静かに並んでいるという。
「誰かの悪戯かと思ったんだ。でも防犯カメラを見ても、
僕のデスクはちょうど“死角”で、該当の時間は何も映らない。
不気味でね」
さらに彼は続けた。
「これが起こり始めたのは……そう、ちょうど一週間前だ」
ミナモの眉がわずかに揺れる。
「佐伯さん、一週間前。お仕事で変化は?」
少し考えたあと、彼は気まずそうに頷いた。
「新しい女性社員が来たんだ。まだ二年目の子でね。
悪い子じゃないんだけど、企画が甘くて……
つい、『こだわりが足りない』と強く言ってしまった」
ミナモの中で、点が静かにつながっていく。
◆
ミナモはそっと佐伯の胸元を見る。
「……佐伯さん、今夜は“三つ目のボタン”が留まっていますね」
彼は驚いたように胸元に触れた。
「言われてみれば……ここへ来るとき、自然と外していたはずなのに。
今日は何も考えてなかった」
ミナモは静かに言う。
「三つ目のボタンが留まっている日は、
佐伯さんが“心の蓋を閉めている日”です」
佐伯は息を止めたように見えた。
「そして──蓋が閉まった時期と、缶が増えた時期は同じです」
◆
「佐伯さん。新人さんが、同じブラック缶を買っている姿……
見たことありませんか?」
彼の目が見開かれる。
「……ある。二、三度。
自販機の前で、僕の空き缶をじっと見ていたこともある」
ミナモは、穏やかな水面のように声を落とす。
「彼女は佐伯さんの“こだわり”を真似しようとしたのです。
叱られた翌日から、あなたより少し早く出社するようになり──
デスク右上に空き缶が置いてあるのを確認してから、
自分の買った“新品”をそっと並べた」
防犯カメラの死角から。
「でも……彼女自身はブラックが苦手だったのでしょう。
強くなりたくて買った缶でも、一口も飲めない。
だから“飲めなかった努力”を、
佐伯さんへの“献上”として置いたのです」
──あなたの言った「こだわり」を、私も持ちたい。
──せめて形だけでも、追いつきたい。
そんな、不器用な祈り。
「けれど佐伯さんは、その気持ちから無意識に目をそらしていました。
だから三つ目のボタンが閉まったまま……
“蓋をした心”で、ここに来たのです」
佐伯の肩から力が抜けていく。
罪悪感でも恐怖でもなく、
ただ、人の気持ちに触れたとき特有の小さな温度があった。
◆
帰り支度を終え、佐伯は金映の間を出る前にもう一度だけ振り返った。
来たときより、明らかに表情が晴れている。
ミナモはエレベーターホールまで静かに並んで歩き、
深く頭を下げた。
扉が閉まる直前、佐伯は胸元の三つ目のボタンに触れる。
まだ留まったままだ。
だがその指先には、
“明日は外せるかもしれない”
そんな小さな自信が宿っていた。
エレベーターが降りていく音が廊下に消え、
金映の間には静寂が戻る。
ミナモの瞳は揺らがない。
今日もひとつの心を、
来たときより澄んだ水面へ返したのだった。
水鏡のミナモ 不思議乃九 @chill_mana
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