水鏡のミナモ

不思議乃九

第1話

—— 高級特殊浴場水鏡・金映の間にて ——


薄い金屏風が両壁に立ち、静かな水音を思わせる照明が床をやわらかく照らしている。

ここは高級特殊浴場水鏡。その中でも最上位客のみが通される“金映(きんばえ)の間”。

ミナモはこの部屋を、自分の“安楽椅子”として使う。


ミナモ、32歳。源氏名は水面(みなも)。

静かな湖の底のように揺れない瞳を持つ彼女は、ただの接客嬢ではない。

客が飲み込みきれなかった「さざ波」を、この密室でほどき、

胸の奥に溜まった澱を静かに沈めることこそ、もう一つの仕事だった。


今夜の客は佐伯。

大手広告代理店のディレクターで、40代前半。

スーツも仕草も、いつも完璧だ。

だが、その完璧さこそが“鎧”であるとミナモは知っている。


湯上がりの佐伯と並んで腰を掛け、

ミナモは薄手のガウンを整えながら、そっと声を促した。


「……少し、変なことが続いていてね」


困ったような笑みの奥に、本気の疲れが潜んでいる。


「どうでもいい話かもしれないんだけど──」


「佐伯さんを悩ませることなら、全部たいせつです」


柔らかい声に押され、彼は静かに話し始めた。



佐伯には、昔からの習慣がある。

毎朝、会社近くのコンビニでブラックの缶コーヒーを1本買い、

“その日の仕事の守り札”として、飲み終えた空き缶をデスク右上に置いておくのだ。


出社の瞬間を自分に刻む、密やかな儀式だった。


だが──

ここ一週間、出社して席に着くと、

その“空き缶”の横に、新品の同じ缶が静かに並んでいるという。


「誰かの悪戯かと思ったんだ。でも防犯カメラを見ても、

僕のデスクはちょうど“死角”で、該当の時間は何も映らない。

不気味でね」


さらに彼は続けた。


「これが起こり始めたのは……そう、ちょうど一週間前だ」


ミナモの眉がわずかに揺れる。


「佐伯さん、一週間前。お仕事で変化は?」


少し考えたあと、彼は気まずそうに頷いた。


「新しい女性社員が来たんだ。まだ二年目の子でね。

悪い子じゃないんだけど、企画が甘くて……

つい、『こだわりが足りない』と強く言ってしまった」


ミナモの中で、点が静かにつながっていく。



ミナモはそっと佐伯の胸元を見る。


「……佐伯さん、今夜は“三つ目のボタン”が留まっていますね」


彼は驚いたように胸元に触れた。


「言われてみれば……ここへ来るとき、自然と外していたはずなのに。

今日は何も考えてなかった」


ミナモは静かに言う。


「三つ目のボタンが留まっている日は、

佐伯さんが“心の蓋を閉めている日”です」


佐伯は息を止めたように見えた。


「そして──蓋が閉まった時期と、缶が増えた時期は同じです」



「佐伯さん。新人さんが、同じブラック缶を買っている姿……

見たことありませんか?」


彼の目が見開かれる。


「……ある。二、三度。

自販機の前で、僕の空き缶をじっと見ていたこともある」


ミナモは、穏やかな水面のように声を落とす。


「彼女は佐伯さんの“こだわり”を真似しようとしたのです。

叱られた翌日から、あなたより少し早く出社するようになり──

デスク右上に空き缶が置いてあるのを確認してから、

自分の買った“新品”をそっと並べた」


防犯カメラの死角から。


「でも……彼女自身はブラックが苦手だったのでしょう。

強くなりたくて買った缶でも、一口も飲めない。

だから“飲めなかった努力”を、

佐伯さんへの“献上”として置いたのです」


──あなたの言った「こだわり」を、私も持ちたい。

──せめて形だけでも、追いつきたい。


そんな、不器用な祈り。


「けれど佐伯さんは、その気持ちから無意識に目をそらしていました。

だから三つ目のボタンが閉まったまま……

“蓋をした心”で、ここに来たのです」


佐伯の肩から力が抜けていく。

罪悪感でも恐怖でもなく、

ただ、人の気持ちに触れたとき特有の小さな温度があった。



帰り支度を終え、佐伯は金映の間を出る前にもう一度だけ振り返った。

来たときより、明らかに表情が晴れている。


ミナモはエレベーターホールまで静かに並んで歩き、

深く頭を下げた。


扉が閉まる直前、佐伯は胸元の三つ目のボタンに触れる。

まだ留まったままだ。

だがその指先には、


“明日は外せるかもしれない”


そんな小さな自信が宿っていた。


エレベーターが降りていく音が廊下に消え、

金映の間には静寂が戻る。


ミナモの瞳は揺らがない。

今日もひとつの心を、

来たときより澄んだ水面へ返したのだった。

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水鏡のミナモ 不思議乃九 @chill_mana

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