真正面にいるきみは

藤城柚子

真正面にいるきみは

 真正面にいるきみは、誰よりも輝いている。

 俺はそれを一番近くで見つめている。



 図書館にやってくるのは、いつも決まってピンチのときだけ。そのピンチが訪れるのは年に三回。さらに正確に言えば、春休み、夏休み、冬休み──それぞれの終わる直前だ。


 明後日には新学期が始まるというのに、課題がまるで終わっていない。絶望的だ。現実から目をそらし、後回しにしていた課題の重さが、バッグ越しに肩へと食い込む。


 ひとまず席を取ろうとやってきた閲覧スペースには、窓に沿って机が並んでいる。


 昼過ぎに来たせいか、空席はひとつもなかった。さらに絶望的だ。気乗りせずに出遅れた自分を棚に上げ、恨みがましい視線を見ず知らずの背中たちに投げかける。


 そのなかに、不思議と目を引かれるうしろ姿があった。派手な格好をしているわけでも、挙動不審なわけでもない。


 光が揺れる黒髪と、うつむき加減の細い首筋。頬杖をつくカーディガンの萌え袖。その女の子のうしろ姿は、なぜか俺の目には特別に映った。


 視線を奪われ、立ち尽くす。手足の先から走った電流のような感覚が、心臓までも貫いた。


 翌日、春休みの最終日も例年どおり図書館で過ごす羽目になった俺の内実は、例年どおりどころではなかった。


 またあの子に会えるかもしれない。あわよくば隣の席に座ったりして、なにかをきっかけに言葉を交わせるかもしれない。淡い期待は膨らんだ。


 しかし現実は容赦がない。あのうしろ姿はどこにも見当たらなかった。余計なダメージを受けた俺は、精神を負傷したまま、終わらない課題との孤独な戦いを強いられた。



 一目ぼれならぬ、うしろ姿ぼれ?


 首を振る。いやいや、振り返ったらイメージと違うって可能性も充分あるだろう。結論を出すには早計すぎる。もう会う機会さえなかったら、結論を出す意味もないけれど。


 ぐるぐると巡らせながら、自分の出席番号の席につく。「猪瀬」の名字は三番以内になることが多く、今年も例にもれず、二番だった。


 クラス替えといっても、顔ぶれに大きな変化はない。この高校では、入学時から文系理系の志望や成績によって、ある程度グループ分けがされているからだ。


 高校生活最後の一年。その響きだけが、変わり映えのない教室にほんのわずかな特別感をもたらしている。

 

 座った途端、友人の坂本が嬉しそうに声をかけてきた。

 

「猪瀬―! ついに三年間一緒のクラスになっちまったなぁ。支え合って受験戦争、乗り越えようぜ」

「じゃあ手始めに、古典の課題見せてくれよ」


 俺は課題との戦いに敗れていた。苦手な古典を後回しにした結果の、不戦敗だ。


「アホか。答えを見せることを支えるとは言わねえ。だいたい、なんで俺だけが一方的にお前を支えなきゃならないんだよ」


 ヘッドロックするようにじゃれついてくる坂本に、図書館の女の子のことを話してみようか、と考えがよぎる。いや、やめよう。どこの誰ともわからないうしろ姿に恋したかもしれない、なんて言ったら、「夢専用の加工フィルターを現実にかけてるような脳みそじゃ浪人するぞ」とか、馬鹿にされるに決まっている。


 俺の葛藤など知る由もない坂本は、すぐに話題を切り替えた。


「そういえば猪瀬、聞いた?」

「なにを?」

「うちのクラス、転入生が来るらしいぞ」

「転入って、これから受験ってときに?」

「だーかーらー、よっぽどの訳ありなんだろうよ」

「へぇ。大変だなぁ」


 他人事のような気の抜けた返事をした。というか、実際に他人事だったのだから仕方がない。


 俺は知らなかったんだ。その転入生が、いつまでも沈まない太陽のように、不毛な俺の高校生活をさらに不毛にし、すべてを焼き焦がしてしまうなんて──。


「浅井若葉です」


 挨拶はそれだけ。よろしくお願いします、とさえ口にしない。愛想笑いをする価値もないとでも言いたげな、冷たい無表情だった。


 転入生を見た男子は浮かれたように頬を緩ませたが、女子はわかりやすく嫌そうな顔をしていた。都内ではなかなかの進学校と評されるこの高校に、こんな時期に転入してくるなんて、頭の良さも保証されているようなものだ。


 そのうえ、モデル並みに小顔の美少女とくれば、外来種に縄張りを荒らされるかもしれないと案じた女子たちが、危機感や不快感を抱くのも無理はない。


 それにしたって女子というのは複雑なくせに単純で、不思議な生き物だ。


 どこか俯瞰して考えていると、転入生の浅井が俺の前の席に座った。「猪瀬」の前が空いていたのは「浅井」のせいか。


 頬杖をつきながら、浅井の背中を眺める。

 あの図書館のうしろ姿だ。

 直感する。あのときと同じ、ピリピリとした電気が鼓動のリズムを速めていく。


 やばい、ツイてる。しかも美少女だ。俺の見る目は間違っていなかった。同じクラスで席が前後なんて、運命以外の何物でもないだろ!


 HRが終わってから、俺は意気揚々と浅井に話しかけた。


「ねえ、浅井さんさ、おととい図書館にいなかった?」


 すっかり忘れていたのだ。愛想笑いをする価値もないと認定されたうちのひとりには、俺も含まれているということを。


「え、見てたの。キモいんだけど」

 

 たった一言で、幻想はガラスのように砕け散った。

 それきり前を向いた浅井にめげずに話しかける勇気や、弁解する強さを、当然ながら俺は持ち合わせていない。


 端正な顔立ちからは想像もつかないほど、浅井は中身が尖っている。興味本位で話しかけたやつは、ことごとく返り討ちにあっていた。


 彼女はだれとも仲良くならなかった。休み時間にだれかと話すこともなく、笑顔さえ見せたことがない。


 卒業までの短い期間に、友だちを作るなんて無意味だと思っているのだろうか。

 その背中には、なにかに耐える様子も、寂しさの影も感じられない。


 辛辣な一言に腹が立ったのも事実だ。それなのに、浅井のうしろ姿を俺はどうしてか嫌いになれなかった。今でも変わらず、特別なままだ。



「猪瀬ってずっと東京に住んでるの?」


 浅井が初めて自分の意思でうしろを振り返ったのは、期末テストが終わったあとだった。


 いきなり呼び捨てにされた驚きに戸惑いながらも、俺の鼓膜は浅井の声を離さずに、何度も反芻した。夏休みに片足を突っ込んだクラスの喧騒も、すでに届かない。

 

 キモいと言われてから三か月。一時停止している俺を、浅井はじっと見つめていた。


「え、あ、うん。そうだけど」


 口ごもりながら返事をすると、浅井は表情筋をほとんど動かさずに、ふうん、と相槌を打った。


「あのさ、原宿に連れてってほしいんだけど」

「原宿?」

「案内してほしいの。夏休み、どうせヒマでしょう?」

「いや、夏期講習とかあるんだけど」

「そんなのサボりなさいよ」


 頼まれているのか命令されているのか、もはやわからない。


「じゃあ連絡先教えてよ」


 俺がそう言うと、浅井は不服そうにスマホを取り出して、思いきり舌打ちをした。



 夏休みに入ってすぐ、高校の最寄り駅で浅井と待ち合わせをした。いつもより華やかな化粧と、白いワンピース姿の眩しさにうろたえながら、


「なんで現地集合じゃないんだよ」

 と訊くと、


「山手線が意味不明だから。内回りとか外回りとか、理解できない」 

 と言って眉をしかめていた。


「じゃあ山手線に乗らずに、千代田線の明治神宮駅で降りればいいんじゃないか?」と言おうとして、すぐに言葉を吞み込んだ。きっと、そんなこともわからないくらい、浅井は遠くから引っ越してきたのだろうなと思った。


 俺は、浅井のことをなにも知らない。


 竹下通りに行きたいと言う彼女に、原宿駅の目の前にある通りを指差す。入り口のアーチにはバルーンアートのキャラクターが飾られていて、ちょっとした遊園地のようだ。


「ここ!? こんな目の前なら案内とかいらないじゃん」


 険のある視線で射抜かれても、俺はもう、むやみに傷ついたりはしない。ひとりで山手線にも乗れない浅井の憎まれ口を、もはや可愛いとさえ思っている。


 流行とカワイイが凝縮された三五〇メートルを、浅井は悠然と歩いた。目移りもしない。真っすぐに太陽に向かって歩いていく背中は、まるで向日葵のようだった。


 通りの出口に差しかかると、浅井は「入り口まで戻る」と、踵を返した。目的が読めない。わけもわからぬまま浅井についていくと、強烈な日射しに体力を削られていく。Tシャツがじっとりと肌に張りついた。


 結局、竹下通りを二往復した彼女は、納得のいかない表情をしながら、


「いったん休憩」


 と宣言して、マックに入った。混雑した店内で運よく席を確保し、冷たいコーラが喉を滑り落ちると、生き返った心地がした。


 浅井はストローをくわえながら、仏頂面のままだ。


「浅井はさ、」

「浅井って呼ばれるの嫌いだから、若葉でいい」

「あ、うん」


 それきり俺は続きを話せなくなってしまった。若葉と呼ぶのが気恥ずかしかったからだ。すると、彼女はぽつりと呟いた。


「なんでスカウトされないのよ」


 スカウト?


 予想外の単語に、俺は思わず尋ねた。「なんでスカウトされたいんだ?」


「アイドルになりたいから」

「お前がアイドルぅ?」


 オブラートにも包まない声が漏れ出てしまうと、若葉は苛立ちを隠さず、ギロリと睨んだ。


「黙れ」


 だけど、よくよく考えてみると、若葉はアイドルに適しているかもしれない。


 どんなに可愛くても、自分への絶対的な自信と自己肯定感、そして揺るぎない精神の強さがなければ、荒波のような芸能界で生きていけないだろう。素人でさえそう思うのだから、実際にはその何倍も厳しい世界に違いない。


「なんでスカウトされないんだと思う?」


 訊かれたことに、俺は率直に答える。


「男連れだからじゃない?」

「じゃあもっと離れて歩いてよっ」


 語気を強め、唇を尖らせた若葉。


 あ、やっぱ好きだな。


 その表情を見た俺は、どうしようもなく、勝手にすとんと落ちていく。受け入れがたいのに、抗う術もわからない。



「竹下通りはもうスカウトの聖地じゃないのね」


 乱暴に自分を納得させた若葉は、諦めたわけではなかった。


「次は渋谷の案内よろしく。断ると大変なことになります」

 

 原宿に行った数日後に届いた脅迫のようなメッセージを、無視できるわけもない俺は、仕方なく、若葉のスカウト待ちに再び付き合った。


 アスファルトからの照り返しに蒸されるような夏だというのに、綿雲は余裕顔で空を泳いでいる。

 若葉は胸を張ってスクランブル交差点を進み、センター街をモデルのように闊歩していく。


 涼しい顔で歩き続ける若葉に、俺は思わず尊敬の念を抱いた。それなのに、肝心の結果はついてこない。アイスのように溶けそうな俺を見かねたのか、若葉は「休憩」の号令をかけた。


 スタバで買ったキャラメルフラペチーノは、炎天下で飲むことになった。店が満席だったわけじゃない。わざわざ109近くの花壇の縁に腰を下ろした若葉は、休憩中でもスカウトされやすい場所を選んでいる。


 恐るべき執念だと思った。だからこそ訊いてみたくなった。


「なんでそんなにアイドルになりたいの?」

「アイドルが好きだから」


 そっけない答えだった。けれど、俺は若葉を尖っている嫌なやつとはもう思っていない。


「猪瀬には、付き合わせて悪いなって、少しだけ思ってる。ほんの少しだけね」


 そう言ってフラペチーノを奢ってくれた若葉が、文字どおり「少しだけ」、心を開いてくれている気がしたからだ。


 氷の粒がすぐに溶けてしまうキャラメルフラペチーノをせっせと喉に流していると、そんな俺の不意を突くように、彼女は打ち明けた。


「アイドルになりたいのは、相対的じゃなく、絶対的に自分を信じたいから。自分の足で輝きたいから」


 俺は黙っていた。


 てっきり、絶対的な自信が“ある”からアイドルになりたいのだろうと思っていたのに、絶対的な自信が“欲しい”からアイドルになりたいと若葉は言った。意外だった。


「最初、俺に声をかけたのは?」

「電車もわかんないし、街のことも知らないし、それに──」


 淡い期待を含んだ息をのむ。けれど、若葉は真顔で切り捨てた。


「だって猪瀬、頭悪いでしょう」

「は!?」

「頭良かったら受験勉強で忙しいだろうし、声かけにくいじゃん」

「そういう自分は受験勉強しないのかよ」

「わたしはアイドルになるから、受験はしない」

「一応、俺には夏期講習あるんだけど」

「今さら手遅れじゃない? 課題が終わらないで、春休み終了間際に図書館へ駆け込むような人間じゃ」

「うっ……」

「やっぱり図星?」

「うるさいな。そういう自分は図書館でなにしてたんだよ」


 若葉は、やや分が悪くなったように目を伏せた。


「東京の、観光情報誌、読んでた」


 お互いをうかがいながら、無言で視線を交わす。しばらくの間のあと、ふたりで同時に吹き出した。初めて見た若葉の笑顔。痺れに似た、キャラメルの甘さが口いっぱいに広がった。


 表参道、新宿、池袋──。スカウトの可能性が少しでもある場所へ、若葉は根気強く足を運んだ。


 しかし、彼女にとっても俺にとっても、何の成果も得られないまま夏休みが終わり、以前と同じように、若葉のうしろ姿を眺めるだけの二学期が始まった。近くなったはずの距離がふりだしに戻ったようで、秋が始まる嬉しさよりも、夏が終わる寂しさのほうが心に滲んでいく。



 あれは、昼休み。授業が始まる直前のことだった。


 目の前の若葉の背中に、「もうスカウト待ちはしないの?」と訊こうか迷っていると、クラスの中心的存在である女子が俺に話しかけてきた。数人の取り巻きを引き連れ、聞こえよがしに声を張る。


「猪瀬さ、浅井と付き合ってんの?」

「え、付き合ってないけど」

「なんか夏休み、ふたりで出かけてたらしいじゃん。だれとも話そうとしないくせに、ちゃっかり男には色目使ってさ。猪瀬も都合よく利用されてるだけだから、気をつけたほうがいいんじゃない?」


 俺は反論することができなかった。それよりも先に、勢いよく若葉が立ち上がったからだ。クラス中を黙らせるほど大きな音をたて、椅子の脚は床を蹴った。


 若葉は冷たい目で女子たちを一瞥しただけで、なにも言わずに教室を出ていった。

 鼻で嗤う女子たちを押しのけ、俺は若葉を追いかけた。囃し立てるクラスメイトなんて今はどうでもいい。


 教室から遠ざかるにつれて、若葉の足はどんどん速くなる。校舎を出るとついに逃げるように走り始めた。意外にも足が速い。あいつ、運動神経もいいのかよ。


 息を切らしながらも、若葉に追いついたのは学校にほど近い区立公園だった。広大な敷地の真ん中。昼間の公園には、数えるほどしか人がいなかった。


「若葉、待って……」


 息も絶え絶えになりながら呼びかけると、若葉はようやく振り返った。

 その瞬間、俺は、本当に呼吸が止まりそうになった。


 若葉は泣いていた。

 ぷっくりした涙袋を越えて、涙はぽろぽろと零れてくる。


「ごめん。俺、ちゃんと言い返せなかった」

「バカ。あんなやつに言い返してやる必要なんかない」

「でも、ごめん」

「悔しい。わたしのせいで猪瀬があんなふうに言われるなんて」


 若葉は泣いているというのに、そう言われた俺の心は浮ついた。嬉しかった。


 ベンチに並んで座ると、若葉はいくらか落ち着いたようだったけれど、鼻の頭はまだ赤みが残っていた。透明ななにかを睨むように、どこか遠くを見つめて彼女が言った。


「やっぱりわたし、アイドルになりたい」

「なんでそんなにアイドルになりたいの?」


 前にも訊いた同じ問いが、今度は違う形になって返ってきた。


「噂になってたと思うけど、わたし、親が離婚したせいで田舎から東京に引っ越してきたのね」


 その話は夏になる前、噂好きの坂本から聞いたことがあった。俺は小さく頷く。


「田舎が嫌とか、東京が嫌とかじゃなくて、わたしの気持ちを無視して離婚した親が許せなかった。放っておいてくれるだけでいいのに、勝手にわたしを嫌ったり妬んだりするクラスのやつらが許せなかった」


 言葉を噛みしめながら、若葉は続ける。


「それでわたしも、自分のために生きようって勝手に決めた。でも、自分のためなんて言いながら、アイドルになりたいのは、本当は……

 わたしを勝手に傷つけたやつらを見返してやりたいだけ、かもしれない」


 うずくまる背中をそっとさする。肩がかすかに震えていた。


「それなのに、スカウトもされないんじゃ、居場所すらないじゃない」


 向かい合っているときは毒を吐いたり、棘を投げつけてきたり、憎たらしいとさえ感じるのに。

 丸くなった背中は弱くて脆い。


 彼女のうしろ姿に惹かれた理由に、今、やっと触れられたような気がしていた。


「……若葉さ、そんなにアイドルになりたかったら、オーディションでも受ければ?」

「オーディション?」


 はじかれたように顔を上げる若葉。瞳の奥に陽が差し込んだ。


「調べたら結構あったよ。まあ、怪しい事務所とかは気をつけないといけないけど、大手でも募集してるところあるみたいだし」

「考えたことなかった……」


 この言葉を口にしたら、どうなってしまうか──うっすらわかっていたのに、それでも、背中を押さずにはいられない。


 もがいて、苦しんでいる若葉に、彼女が求めている居場所を与えられるのは、俺じゃないとわかっていたから。


「待ってるより、追いかけていくほうが若葉らしいよ」



 若葉に付き合わされることもなくなった俺は、ようやく受験に専念した。図書館に勉強をしに行く機会も増え、そのたびに若葉を思い出した。夢に向かって邁進する彼女の存在が、知らず知らずのうちに俺を奮い立たせていたらしい。伸びしろしかなかったせいもあるが、成績は努力した分だけ応えてくれた。


 志望校に無事合格し、俺は大学生になって初めての夏を迎えていた。


「なんで今日に限って講義長引くかなあ」


 駅までを全力疾走し、電車に飛び乗る。時間はギリギリ間に合うだろう。息を吐き、車窓に流れる景色を眺めた。


 山手線。若葉はもう、ひとりで乗れるようになったんだろうな。

 いつかふたりで原宿に行ったときと似ているようで、まるで違う、夏の日射し。


 渋谷のライブハウスには、予想以上に多くの観客が集まっていた。動画配信サイトでオーディションの様子が話題になっていたからだろうか。


 熱気に気圧される。恥ずかしさと誇らしさがないまぜになって、意味もなく大声で叫びたくなる。


 けれど、ライブが始まると俺は立ち尽くし、声を失った。


 ステージには、カラフルな照明に彩られた五人組のアイドルグループ。そのセンターに立つのは、若葉だった。


 高校時代からは想像もできない、別人のような笑顔。あのころの棘だらけの野心の陰はなく、澄んだ夜のような穏やかな表情。


 真正面にいるきみは、誰よりも輝いている。

 俺はそれを一番近くで見つめている。


 それなのに、あのころ見ていたうしろ姿よりも、ずっと遠いところに彼女はいる。まるで、手を伸ばしても届かない、燦然と輝く綺羅星みたいに。


 高揚感に満ちたライブハウスの外は、すっかり夜に包まれていた。ぼうっとした思考が、徐々に冷静さを取り戻す。次は坂本でも誘ってみようかなんて考えていると、メールの着信にスマホが震えた。


『最前の真正面にいたやつ! ノリ悪すぎ!』


 ライブを終えたばかりの若葉からだった。この愛すべき憎まれ口だけはいつまでも変わらない。自然と笑みがこぼれる。


 光を求め前だけを向いていた若葉は、今では人々を照らす光になった。


 俺は苦情の言い訳をしようとしたのに、文字を打とうとした指はうまく動かない。


 なんて返そうか。どれだけ探しても、この気持ちを十全に表す言葉なんて、どこにもない気がした。


 迷ってから、それでも一番伝えたかった想いを、夜空に飛ばす。


『ノリを忘れるぐらい最高だったんじゃない?

 デビューおめでとう』

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