第3章 蛍ヶ丘マンション 二話 一衛・グレーヌ2

 三峰が言っていた空手教室は思ってたよりずっと近く、いつも通る商店街から横道に入ったところの雑居ビルにあった。

 そのビルの三階が丸ごと空手教室になっており、窓に『空手道場 心技体』とプリントされた紙が外に向けて貼られている。


 現役を退いた、少し腹の出た師範が一人で経営している道場だった。

 昔は国体選手だったらしいが、ネットで検索しても出てこない所をみると本当かどうかは分からない。

 この街に唯一の空手道場らしく、小学生からダイエット目的の大人まで幅広く生徒たちがいた。


 ふらりとやってきた一衛に軽く稽古をつけて、筋がいい、体格もいい、是非続けてくれ、と初日から褒めちぎられた。

 元々あまり褒められて生きてこなかった一衛は、すっかり気を良くして入会を即決した。

 師範がともかく褒めちぎったのはよくある営業スタイルなのだが、実際、一衛は格闘技のセンスが良かった。

 初めて半年も経たないうちに中級レベル以上までの技量を持つまでになっていた。




 一衛は離れにある洗濯乾燥機が並んだ部屋で、長椅子に寝っ転がりながら、宙に浮かぶ情報誌を無造作にスライドさせていた。

 ピピピッ、ピーッ、と乾燥機が終了した事を告げる。

 ARメガネを外して、乾燥器から道着を引っ張り出していると、コンコンと壁をノックする音が聞こえた。

 ドアの前にコヨリが大量の洗濯物が入った洗濯籠を抱えて立っていた。


「下着はこっちの洗濯機にいれてくれる?」

 コヨリの指示に従って、子供たちの洗濯物を振り分け入れる。

「最近、帰りが遅いと思ってたけど、本当に始めてたんだね」

 長椅子の上に折りたたまれた道着を見て、コヨリが言った。

「うん、やってみてもいいかなって思って」

「どう? 空手、楽しい?」

「楽しいよ、思ってたよりずっと」

「それは良かった」

 コヨリが自分の事のように嬉しそうに笑顔を作った。

「ちょっと、身体も大きくなったんじゃない?」

「まさか。まだ初めて半年経ってないよ」

「そんなことないよ、前より筋肉もついてるし……、なんか逞しくなった!」

「うーん、そんなことないよ」と言いつつ自分の口角が自然に上がっている事に気付いて照れくさくなった。


 洗濯乾燥器の丸いドアを閉めると、スイッチを入れて外に出る。

「ン――ッ」

 コヨリが伸びをする。

「秋晴れだねー、雲一つないよ」

 一衛も空を見上げる。

「見て見て、大樹が見えるよ」

 コヨリの見ている方角を見ると、滅多に見えない光の大樹が薄っすらと見えていた。

 視線を下に戻すと、コヨリが目を閉じて祈っているようなポーズを取っている。

「願い事?」

「大樹が見える時に願い事をすると叶うんだってさ」

 目を閉じたまま、コヨリが言った。

「ふーん。でもそれじゃあ、大樹の近くに住んでる人はいつも願いが叶うんじゃない?」

「イッちゃんは夢がないね」

 コヨリは祈りをやめて、不満気な顔を一衛に向けた。

 夢がない。

 それはそうかもしれない。

 願っただけで、何かが変わるなんてことはあるわけない、と一衛は思っていた。

 けど、願いは叶った方がいい。

「コヨリさんの願い事、叶うといいね」

「イッちゃんの願い事もね」

 コヨリの言葉に、願い事なんか無いよ、と心の中で返した。




「今度の大会、中等部の代表で出てみないか」

 師範の突然の提言に、一衛はむせてスポーツドリンクを吐き出しそうになった。

「師範、自分はまだ白帯ですよ」

 確かに上達も早く、自分のレベルが上がっているという自覚もあったが、まだ一度も昇段試験を受けてもいない。

「うん、でもうちの同じ年頃の子の中では、一衛君が一番強いだろ」

「いや、でも……」

 チラリと、奥でストレッチをしている同い年の酒井を見た。

 酒井は、五年も前から道場に通っている、真面目でストイックに空手に取り組んでいる子だった。

「酒井にはもう言ってあるんだ。彼は構わないと言ってくれたよ」

「少し……、考えさせてください」


 一衛はそう言って、道場の端で柔軟を始める。

 いつものストレッチを一通り行い、開脚を始めた時、誰かが後ろから背中を押してきた。

「変な気を遣うなよ」

 振り返ると酒井の姿があった。

「そういう訳じゃ……、まだ自信もないし」

「何言ってんだ、練習試合じゃ、お前に勝てないんだ、悔しいけどな」

「うん」

「大会、出ろよ。もし断るなら、俺はお前を許さないからな」

「……わかったよ。その代わり練習に付き合ってくれよな」




 気が付けば大会は、二週間後に迫っていた。

 そういえば、もう随分、三峰の姿を見ていない。

 最近は一衛が寝た後に帰宅しているようだし、朝は三峰が起きる前に学校に行く。

 土日も道場にいっているので顔を合わせるタイミングが無いのだ。

 そもそも、一衛が空手教室に通っているのも知らないのかもしれない。

 月謝は引き落とされているが、多分そんな細かい支出を見ていると思えない。

 でも、道場に通うきっかけは三峰の助言だった。

 ひょっとすると、僅か半年で大会に出るまでになった事を驚いてくれるかもしれない。

 いや、一衛、院長が自分の事を気にするなんてことが本当にあると思うか?

 変な期待なんてしない方がいい。

 どっちにしても報告はした方がいいよね。

 一衛は眠い目を擦って欠伸をした。

 時計の針が零時を回ろうとしていた。

 秒針の音がやけに大きく聞こえる。

 なんでだろう、このカチコチとする音が重大な事へのカウントダウンのように感じられる。

 重大? 空手やってる事を報告するのが、そんな重大な訳がない。


 それはそうと、なんて切り出すのがいいんだろう。

 院長があんまり言うから、空手始めたんだけど。

 斜に構え過ぎかな。

 思ったより空手って面白くてさ、はまっちゃったかも。

 唐突過ぎる?

 院長の言う通り、空手始めたんだけど、向いてたかもしれない、今度大会に出ることになったんだから。

 これでいいかな、これでいいかも。


 玄関のドアが開く音が聞こえた。


 ドスドスと歩く足音が近づいてきて、リビングの入口から三峰が現れる。


「んん? なんだお前、起きてたのか」


 酔っぱらって帰ってくるものだと思っていたが、予想に反して三峰はシラフだった。


「あ……、うん」


 三峰の姿を見た途端、一衛の頭が真っ白になった。


 何も言葉が出てこない。


「早く寝ろ、明日も学校だろ」


 三峰は黒革のビジネスバックを床に投げ置き、ソファーにどっかりと座る。

 そして、上を向きながら、あー疲れたぁ、と独り言を吐いた。


 言わなきゃ、言わなきゃ、でも何で手の平に汗が……。

 いや、何てこともない事じゃないか。

 どうして言葉が出ないんだ。

 そうだよ、テーブルの上に道着を置いておけば良かったじゃないか、なんでそんなことを思いつかなかったんだ。

 仕切り直そうか。

 そうだよ、大会までは二週間もあるんだから。


「なんだ? なんか言いたいことでもあんのか?」


 三峰の言葉に心臓が跳ね上がる。


「あ、いや……、何も……ないよ……」


「そうか、俺はもう寝る。お前もさっさと寝ろ」


 三峰はそう言って立ち上がると、部屋を去ろうと歩き出した。」


「あっ、あのさ」


 なんで声をかけたんだ。別に今日じゃなくたって――。


「ん?」


 背を向けていた三峰が振り返る。


「あ、あの……、から、空手、始めたんだ……」


「空手? そうか」


「それでさ……、今度、大会に出ることになった」


「へえ、いいじゃん」


「うん、やっぱり院長の言った通り、向いてたのかもしれない」


「あん? 俺がなんか言ったのか?」


「え……。い、院長が空手始めたらいいって、言ったんだけど……」


「ああ? そうだっけか? まあいいや、俺は眠いんだ、またな」


 三峰はそう言うと、一衛を見もせずにリビングから立ち去っていった。




 眠れない。

 暗い部屋で布団に入ったまま、ついていないルームライトを眺めていた。

 なんだよ。別に期待してなかっただろ。

 そんなもんだって。

 ショックなんか受けてないよ。


 遠くから赤子の夜泣きが聞こえ、それをあやすロボットが子守歌を流す音が聞こえる。

 そうだよ、俺たちはスタートから見捨てられてるんだから、悲しいことなんか無い。


 そう思いながら一衛は頭まで布団を被った。

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