第3章 蛍ヶ丘マンション 一話 一衛・グレーヌ1

 だだっ広い幼児用プレイルームには、柔らかい積み木やソフビ人形などの玩具が散乱している。

 駆け回る子供たちの声が部屋のあちこちから聞こえていた。

 柔らかい球体型の子守ロボットが子供たちと戯れている。


 十三歳の一衛は、窓を全開にして外の空気を吸い込んだ。

 窓の外から見える狭い庭の花壇の上をアゲハ蝶がひらひらと踊っている。

 何故、蝶は真っ直ぐに飛ばないのだろう。

 そんなどうでも良い事を思いながら見ていた。

 蝶は舞う様に飛びながら空の彼方に消えていった。


 他の部屋から赤子の鳴き声が聞こえて、ドタバタと廊下を走る音が聞こえる。

「イッちゃん! ちょっと、ここの子たち見ててね」

 三十代くらいの女性が、ポニーテールを振り揺らしながら廊下から顔だけ出して言った。

「いいよ」

「ありがとう! わたし、ミルクとお風呂の用意してるから何かあれば呼んで!」

「今日、コヨリさん一人?」

「そう! 他のヘルパーさんは病欠だってさー!」

 再び廊下を走り遠ざかる、遠藤コヨリの答える声が聞こえた。


 ギャーンッ、と小さな怪獣が泣き声を上げる。

 どうやら走り回ってこけたらしい。

「ホラホラ、泣かない泣かない」

 一衛は駆け寄って、泣いている二歳児の頭を撫でた。

「大丈夫、もう痛くないよ」

 子供は一衛の袖を握りしめて、しゃくりあげていた。


 十五年前に始まった少子化対策によって、匿名による未婚の出産、施設へ子供を預ける事が公的に認められるようになった。

 孤児を養子にとれば、かなりの額の補助金がもらえる。

 この法律によって、一衛がいるような孤児院がタケノコのように増えたのだ。

 子供たちは政府のマッチングシステムによって適切とされる両親の元に届けられる。

 当初はモラル的に問題があると騒がれたが、引き取られた先で子供たちが精神状態分析を含めたチェック体制がとられている事や、噴出した問題が少なかったこと、実際に少子化が回復傾向がみられたことから、現在もこの政策は続いている。



 昼寝の時間になり、戦争のようだった孤児院が静まり返っていた。

 遮光カーテンが閉まり。暗くなったプレイルームで、一衛は部屋の隅のソファーにどっかりと座った。

 床に並んで寝静まっている幼児たちを眺めていると、いつか海辺で見た大量に並べられた干物を思い出す。


 ぼんやりしていた一衛の頬によく冷えたペットボトルがピタリと付けられた。

「うわっ!」

「しっ! 子供たちが起きちゃうよ」

 振り返ると、ペットボトルを持ったコヨリが立っていた。

「コヨリさんの所為でしょ」

 一衛はペットボトルを受け取りながら口を尖らせた。

「ごめんごめん」


 自分が思っていたより喉が渇いていたみたいで、グビグビとジュースを喉に流し込んだ。

 一衛はペットボトルから口を離すと、プハァ、と息をついて腕で口を拭った。

「イッちゃん、今日は助かったわ」

「手伝うの当たり前だから、だって、ここ俺ん家だし」

「それもそうか」

「ねえ、院長は?」

「悟志さん? いつも通り、夜には戻るって言ってたけど……」


 三峰悟志みつみねさとし

 この東瑞雲孤児院ひがしずいうんこじいんの院長で、書類上では一衛の父になる。だが、一衛はこの男が好きでは無かった。

 子供に興味もない癖に金の為に孤児院をやっているような男だ。

 子供たちに笑顔を向けるようなことも無く、いつも邪魔くさそうな目で子供を見ていた。

 特に暴力を振るったり、虐待するようなことは無かったが、笑いながらガキはバカだから嫌いなんだ、というような事を子供たちに面等向かって平気で言うような男だった。

 それも悪意たっぷりにいう訳ではなく、軽口のように言う。

 悪気が無いのが余計にムカつく。

 昼間は大体いつもどこかに行っていて、孤児院にいることは少ない。

 いつも酒の匂いを纏いながら夜遅い時間に帰宅する。

 酒は強いらしく、ベロベロに酔って帰宅するような事は無かった。


「ゴメンね、コヨリさん。こんな時くらい、院長も出かけなければいいのに」

「ええ? イッちゃん、気ぃ遣ってくれてるの?」

「いや、別にそんなんじゃないけど」

「フフフ、いいの。私は仕事だし、二人病欠だったのはうちの会社の管理ミスなんだから。それに……」

「それに?」

「悟志さんも色々忙しいんだよ、きっと」

「そうかな?」

「そうだよ」


 コヨリさん。遠藤コヨリは孤児院と契約している別会社の人間で、ヘルパーとしてここに来ている。

 通常三人体制で他の二人は固定メンバーではない。

 他の現場も兼任しており、常に顔ぶれが変わる。

 一人だけは現場のリーダーとして固定で、コヨリは東瑞雲孤児院ひがしずいうんこじいんのヘルパーリーダーだった。

 八年前からここに来ていて、一衛にとって姉か母代わりのような存在になっていた。

 何故コヨリが院長のことを悟志と名前で呼ぶのかを一衛が知るのは、もっと後になってからだ。

 この頃はそういうものとしか思っていなかった。


「それにしても、なんでいっちゃんには引き取ってくれる人が出てこないんだろうね。こんなにいい子なのに」

「マッチングソフトの不具合なんじゃないかって、前に院長が言ってたよ。それにもうこの歳じゃ、誰も引き取ってくれないし、今更だよ」


 通常、遅くても六、七歳には子供たちは里親の元に行く。

 この孤児院でもそうだ。しかし、一衛だけはいつまでたっても里親が現れることは無かった。

 こういう場合、十歳になった時点で孤児院経営者が親として引き取る事に法律上なっている。

 なので、三年前から戸籍上、一衛は三峰一衛になった。

「俺、勉強してるから、なんか手伝って欲しい事あったら呼んで」

「うん、お勉強頑張ってね」




 気が付けば21時を回っていた。

 一衛はパッドの宿題のアプリを落として、すっかり暗くなっていたリビングの明かりをつけた。

 いつの間にかダイニングテーブルに突っ伏して寝ていたコヨリの姿に気付いて、ドキリとする。

 急についた明かりでコヨリが目を覚ました。

「ごめーん、寝ちゃってた」

「もうとっくに帰ってると思ってたからビックリしたよ」


 ガチャンッ、と玄関のドアを雑に開く音がした。

「ホーントだってぇ!」

「アハハハ、なにそれー!」

 聞き慣れた男の声と聞き慣れない女の声が聞こえてきた。

 院長が誰か連れて帰ってきたのだろうか、そう思ってコヨリを見る。

 コヨリが一瞬、強張った表情をしたのに気付く。

「悟志さん、帰ってきたのかな」

 そう言って立ち上がろうとしたコヨリを遮るように「俺が見てくるよ」と一衛は言った。

 なんとなく、コヨリを玄関に行かせない方がいい気がしたからだ。


 一衛が玄関に向かうと、玄関のドアが大きく開けっ放しのまま、三峰悟志と見知らぬ若い女が笑いながら談笑をしていた。

 三峰は口ひげにアロハシャツといういつもの身なりで、人懐っこい犬みたいな顔で喋っている。

 三峰の後ろで、緩いパーマで髪の長い見知らぬ派手目の女が、大口を開いて笑っていた。


 一衛の気配に気づいた三峰が振り返った。

「何だお前、お出迎えに来るなんて珍しいな」

「こんばんわ、君が一衛君?」女が一衛の前に歩み寄ってくる。

「はい」

「本当に中学生? すっごい大きいじゃん」

 女はそう言って、身長を比べるように手の平を一衛の頭頂と自身の頭頂を行き来させた。

 一衛が困惑の表情を浮かべていると、女はニッコリと笑った。

「私、璃々夏(りりか)っていうの。よろしくー」

「あっ、はい」

「ごめんね、璃々ちゃん。不愛想な奴なんだよ」三峰がへらへらとした顔でそう言った。

「そんなことないって、急に夜更けに来た知らない人に緊張してるだけ。ねっ」

 そう、璃々夏は一衛に同意を求めると、くるりと反転して玄関から出た。

「じゃあ、サトちゃん、今日は帰るね」

「なんだよぉ、家で少し飲み直そうって言ってたのに」

「だって今日はお客さんが来てるみたいだし……」

 璃々夏は玄関にあったコヨリの靴に目をやった。

「んん?」

 三峰はコヨリの靴に気付いていないようで怪訝そうな顔をする。

「じゃっ、またね。一衛君もね」

 そう言って璃々夏は去っていった。

 三峰は残念そうな溜息を吐いて、玄関ドアの鍵を閉めた。


「院長、コヨリさんがまだいるよ」

「ああ? あー、そういうことか」

 靴を脱ぎながら三峰もコヨリの靴に気付き、先ほどの凜々夏の言った意味にも合点がいったようだった。

「ほら、持て」

 弁当が入ったような紙袋と缶が詰まったレジ袋を渡されて「何これ?」と一衛が訊く。

「どうせ、二人とも飯食ってないんだろ? 高級寿司と酒だ」


 ダイニングに向かうと、コヨリが鞄を持って立っていた。

「ごめんなさい、悟志さん。長居するつもりはなかったんだけど」

「いーよいーよコヨリちゃん、それよりも一緒に晩飯どうだい? 高級寿司買ってきたからさぁ」

「いえ、私もう帰ろうかと……」

「いーから、座って座ってー」そう言って三峰が椅子を引く。

 三峰の構って欲しい犬みたいな顔に、コヨリが思わず折れた。

「じゃあ、ちょっとだけね」



 テーブルに広げられた寿司から、一衛がヒョイヒョイと箸で自分の好きなネタを取る。

「おいおい、トロとイクラばっか食うなよお前」

 三峰が缶ビールを飲みながら一衛に注意する。

「今日は色々大変だったんだから、自分へのご褒美だよ」

「へっ、一人前みたいな口利きやがって。なーにが大変だっただ」

「本当に大変だったんですよ、今日病欠二人も出ちゃって、イッちゃんに沢山手伝ってもらったんです」

 コヨリが一衛をフォローしてくれた。

「へえ、そうだったのか。んん? でもそれって大変だったのはコヨリちゃんじゃん」

「院長、聞いてた? 俺も沢山手伝ったんだよ」

 口いっぱいに寿司を頬張りながら一衛が抗議する。

「ねっ、いっちゃんお勉強もあったのに。でもホント、助かったわ」

「勉強だぁ? お前、AI社会のこのご時世に勉強なんかしてもしょうがねえぞ」

 三峰が眉を顰めながら一衛を諭した。

「でもなんだかんだ言っても、学歴はあった方がいいもんね」

「コヨリちゃん、そりゃあ、頭がズバ抜けて良けりゃの話だ。こいつは基本頭が悪ぃんだから、身体動かした方がいいんだよ」

「うるさいなぁ、俺がどうしようが俺の勝手だろ」

「そらそうだ。まあ好きにしろよ。お前が行きたきゃ大学の学費くらいは出してやるぞ、まあ行けりゃの話だけどな」


 確かに一衛の成績はそんなに良くはなかった。

 勉強は嫌いではなかったが、それと頭の良し悪しは関係がない。

 AIは頭脳の差を一瞬で埋められるツールではあるが、そもそも基本となる知識を持っていなければAIを上手く使えない。

 だから勉強するんだと、学校の教師は口を酸っぱくして言っているし、一衛もその意見には賛同していた。

 それにしても、三峰が一衛の大学の学費まで出してくれるというのは一衛には予想外のことだった。

 三峰は自分にそんなに興味もないだろうと思っていたからだ。

 いや、金に余裕があるからそんな事を気分で言っているだけかもしれない。

 子供の頃の一衛は気にしたことは無かったが、地方の一孤児院の院長にしては三峰は羽振りが良かった。

 おそらく孤児院以外にも何か収入源があるのだろう。

 どうせ良からぬことで金儲けをしてたんじゃないかと今も思っている。


「ねえねえ、いっちゃんって背も高いし、スポーツはいいんじゃない?」

 コヨリが言う様に一衛はかなり高身長だ。

 同じ学年の子の中でも頭一つ以上は抜けていた。

「うーん、球技は全然ダメだよ」

「球技以外は? 陸上とか」

「人並かなぁ」

「そういや、近所に空手教室あったろ、そこはどうよ」

 どうやら三峰は、勉強よりスポーツが一衛には合っている、と思っているようだ。

「いいかもよ! 格闘技。いっちゃん強そう!」

「あんまり、人殴ったりするのは好きじゃない」

「そっかぁ」

 残念そうな顔のコヨリを見て、一衛は、母がいたらこんな感じなのかも、と思った。


「あっ、もうこんな時間! 明日も早いし、そろそろ帰ります」

 時計を見たコヨリが慌てて立ち上がった。

「ああ、こんな時間まで引き留めちゃってすまんね」

 そう言って三峰も立ち上がると見送りに、玄関までコヨリについて歩き、一衛もそれに続いた。

「じゃあ、また明日ですね」

「はいよ、気を付けて帰ってくれ」

「あっ、悟志さん、あの……、今週末、お休みいただくので……」

「ん? ああ……、了解したよ。詳細はメッセして頂戴」

「はいっ、それじゃ、おやすみなさい」

 コヨリは小さく二人に手を振って出て行った。

「おやすみなさい」

「おやすみー、コヨリさん」

 玄関のドアが閉まる。


「じゃあ、俺も寝るよ」

「おい」

「うん?」

「お前、さっき言ってた空手教室行けよ」

「えぇ? 嫌だよ。俺、人殴ったりしたくない」

「あそこの教室の空手は寸止めだから殴らねえよ。それによぉ、自分が好きな事が向いてる訳じゃねえんだ。自分を知っとく意味でも行ってみろ」

「うーん……」

「お前らみたいなのはスタートから見捨てられてんだからよ。一人で生きれるようにならなきゃ、この先シンドイぞ」

「……うん」

 そんなことはわかっている。何故そんな分かりきったことをこの男はわざわざ口にするんだ。それも何度も。思春期の、それも孤児の子供になんてことを言うんだ。デリカシーの欠片もない。

 それでも、三峰が自分の事を気にかけるような事を言ってくれた。

 認めたくはないが、それが内心嬉しかった。

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