第1章 YOMOSTU 七話 比良坂地区1

 目覚ましの無機質な電子音で一衛は目が覚めた。

 身体中が痛い。筋肉痛や関節痛やらで全身が悲鳴を上げていた。

 体力には自信がある方だったが、慣れない環境と極度の緊張などで余計な力が入っていたのだろう。


 半身を起こし自室を見回す。

 三日前に入居したばかりの見慣れない部屋だ。

 三日前と言っても内二日は黄泉森にいたので実質、今日を含めて二晩くらいしかこの部屋で過ごしてはいない。

 部屋は備え付けの家具家電、生活必需品も揃っており、自分の部屋というより旅行先のホテルのような感覚だ。

 十五畳1Kのこの部屋は一人暮らしには申し分ない。

 検閲された私服以外の一切の私物の持ち込みが許可されなかったので、引っ越したばかりにありがちな段ボールの山積みなんてこともない。

 殺風景では無いが、人の匂いがしない無個性な部屋という状態だ。


 とりあえずベッドから出てカーテンを開く。

 光が刺すように目に入り、半覚醒の頭がクリアになっていく。

 窓の外からこの建物と同じものが団地のように並んでいるのが見える。

 この建物群には見覚えがある。災害復興支援団体にいた頃に復興地でよく見た仮設住宅と同じタイプだ。それでも昨今の仮設住宅は造りが良くて下手なアパートより立派だ。

 そして、居住区の向こうには高さ百メートル以上はある壁がそびえ立っている。この異常に高い壁で比良坂地区は囲まれており、到底脱出することはできないようになっている。この壁を外から見ると高層ビルが立ち並んでいるように見えるらしい。


 外界と比良坂地区を結ぶ唯一の通路は地下にある。

 長さ数十キロの通路を経て、繋がる先はこの国最大の刑務所だ。

 YOMOTSUガード部の人員の大半が元囚人ということだから、その刑務所から来ているのだろう。

 もちろん一衛もその通路を通って比良坂地区にきた。

 その際、頭に袋を被せられていたので通路の様子は何も分からないが。


 枕元に置かれた支給されたスマホを手に取る。

「それにしても、スマホって六十年前くらいのツールだよな。MRのコンタクトレンズはともかく、ARメガネも無いのか」一衛が愚痴のような独り言をこぼす。

 スマホといっても、外界とはネットも電波も当然繋がっている訳ではない。比良坂地区内だけのクローズドなネットと電波だけのものだ。

 比良坂地区自体は世界から完全に閉ざされており、それはネットや電波も例外ではない。ただ、検閲済みで提供されるものではあるが、外部の情報も閲覧可能だ。

 部屋に設置された大型モニターで映画などの動画もダウンロードできる。最新のゲームまで揃っている、外部に繋がるオンラインゲームはできないが。マンガや小説なんかも一通りあるし、無いものがあったとしてもリクエストすれば導入してもらえるらしい。しかし、ニュースなどの世界情勢的な情報は何故かシャットアウトされていた。どうせ自分のような外から来る新しい人間が、外界のニュースを知っているのにおかしな話だ。

 壁際のデスクの上に、VRゴーグルが置いてある。子供のころによく見かけたタイプのものだ。一衛の孤児院にも一台あった。子供の目の成長に悪影響があるとかで使うことは禁止されていたが、子供の好奇心はそんなことで止めることはできない。大人たちの留守中に奪い合いになっていたのを思い出した。このVRゴーグルも同様に外界とは繋がっていないだろう。


 ピコンと短い着信音が鳴った。スマホに笹村からメッセージが表示されている。開くと『九時半くらいに迎えに行く』と表示されていた。


 住宅通路をいつも通り気怠そうに歩いてきた笹村は、部屋番号の012を確認すると呼び鈴を鳴らす。

「はーい、今開けます」中から一衛の声が聞こえ、ドアが開く。

「よう」

「おはようございます」

「とりあえず先に病院行くか」

「了解です」



 オートドライブのタクシーはロータリーに入り、病院のエントランス前で停まった。

 想像より大きな病院だったが、かなり古い建物らしく壁は汚れツタも絡まり、その外観はおどろおどろしい。

「うわ、ホラー映画に出てきそうですね」

「比良坂地区として編入される前も病院だったらしいぞ。まあよくある大学病院だったそうだ。中は改装されて綺麗だから心配すんな」


 確かに中はまるで別の建物だった。壁も床も天井も白一色のロビーに、青いプラスチック製の椅子が並んでいて、汚れひとつない。最新式の掃除ロボ数台が音もなく移動していた。

「本当ですね、というか外観からは想像もできないほどキレイだ」

 ロビーの椅子には疎らに老人たちが座っていた。

笹坊ささぼうじゃねーか」

 静かな院内には似つかわしくない、腹から出したダミ声が響いた。

 見るとロビーの隅で、椅子を突き合わせた老人たちが麻雀をしている。そのうちの一人のガタイの良い、海賊みたいな黒い眼帯をした初老の男がこちらを向いていた。

「何やってんすか。病院ですよ、ここ」

「ガハハハ、今日は健康診断でな、皆と久しぶりに会ったもんだから、ついな」

 眼帯の初老男性は豪快に笑った。

「お前こそ病院に来るなんて珍しいじゃねえか、怪我でもしたか?」

「いやー、俺じゃなくてですね、新入りが」

「新入りぃ? へえ、新入りか」

「二年ぶりの後輩で唯一の後輩っすわ」

 二年振りなのに唯一の後輩、という笹村の言葉が引っかかった。が、ああそうかとすぐ理解して一衛は質問を飲み込んだ。

「そうか……そうだな」一瞬、感傷的な表情を浮かべたその男は一衛を見る。

「新人、名前は何だ?」

「一衛グレーヌです」

「うん。グレーヌくん、まず自分の命を一番に考えろよ。この世で一番大切なもんは自分の命だからな」

「はい」

 良く云われる言葉だった。

 当たり前のことだ。しかし、ガードという仕事は他人の命を守る仕事だ。

 その仕事の特性上、時には自分の命より護衛対象の命を優先するべきなのではないのだろうか。軍に所属していた時にも何度も思ったことだ。

 自分よりも世の中で多くの人に必要とされている人間が、目前で命を落とした時の自分の命の価値を疑う気持ち。

 昔の上司も同じことを言った。生き延びることで、より多くの命を救えるから生き延びるんだ、理屈はわかる。しかし、自分の命と引き換えに救った人間がその後、自分より多くの人間の命を救うことができるかもしれない。

 そもそも自分なんかが他人の命を救うという違和感。

 そんなぐちゃぐちゃした感覚は常に自分の中で渦巻いている。

 だからいざという時は動くこと以外考えるのをやめることにしていた。

 ただ、守るために動く。後は運命みたいな何かが采配してくれる。


「そうだ、綱樹つなきの奴が昨日の夜、病院に来てたぞ」

「ああ、そうなんすよ。昨日ヤバいのに遭遇しちまって、隊長、骨折したんすよ」

「聞いた聞いた、なんでもバカでかいタコのバケモンだったらしいな。それにしても綱樹でも骨折すんだな。あいつも一応人間だったってことか、ワハハ」

「それにしても、昨日の夜からみんなで病院にいるんすか?」

「おう! 徹マンだからな!」男が満面の笑みで答えた。

 笹村は後ろ手で手を振りながら、そこから離れた。

「元気なじいさん達だな」

「誰なんです?」

「先代の総括隊長とその時のガード引退者たちだよ。それよか受付でスマホかざせば案内でるから、さっさと済ましてこい」

「了解です」


 受付といっても白い壁にコードリーダーの凹みが並んでいるだけだ。

 スマホをかざすとスマホの画面に診察室への経路が示された。

 病院には医者や看護師がいるわけではない。診察室には身体に異常が無いかをスキャンするカプセルが数台置いてあるだけだ。

 一衛はそこの一台に入りスキャンボタンに触れる。

 赤いスキャンレーザーのラインが前後左右上下を移動する。

 ほんの数十秒で検査結果がスマホに表示される。

 何も異常はない。コレステロールが少々高めだが正常値の範囲内だ。薬の必要性も無しと出ている。


 あの時確かに死にかけた。

 フィールドXの毒によって。

 感触は覚えている。毒によって身体が壊されている、そういう感覚ではなかった。

 全てを拒絶されて、自分の全てが大事な何かを諦めた感覚。

 大事な何か……一体それはなんだろう。

 ただそんな感覚だったことは覚えている。


 タクシーから降りて笹村が繁華街と言ったその場所は、自分の知る繁華街とは違っていた。まるで箱のような建物が立ち並んでいて、看板を出している店はあれど、殆どの店はアイコンと商売っ気のないシンプルな文字表記のみだった。

 もっとも比良坂地区には貨幣が存在しないのだから商売っ気など必要はないのだが。

「よう笹村」

「ういっす」

 殺風景な街並みを少しでもマシにしようとしてるのか、色とりどりの三角旗などのオーナメントが至る所に飾り付けられていた。

 繁華街といっても人通りはまばらだ。

「こんにちは、笹村さん」

「どーもー」

 さっきから通り過ぎる人がみんな笹村に挨拶していく。

「笹村さんって人気者なんですね」

「そんなことぁねえよ」

「でも道行く人が皆、声掛けてくるじゃないですか」

「あー違う違う。ここは人口大体300人くらいの小さな村だからな、みんな顔見知りなんだよ」

 確かにそういうものかもな、と一衛は思った。

「フードコートに雑貨屋、服屋、金物屋、スーパーマーケット、一通りの物はここで揃うぞ。一度に持っていっていい個数に制限はあるが困ることはねえ。」

「看板がある店とそうじゃないとこって何が違うんです?」

「ああ、それは人がやってる店と、国がAIロボット使って支給する物を扱う所の違いだな」

「え? 人がやってる店なんてあるんですか? お金が存在しないのに?」

「そうだな、ただのボランティアだわな。まあ、簡単に言うと暇なんだよ」

「そういうもんですか?」

「そういうもんだよ」


 そこら中を監視カメラ付きのドローンが音もなく飛び回っており、警備ロボットも至る所に配置されていた。警備ロボットは一見、大きな折りたたまれた三脚かコンパスに見えなくもない。あの車輪付き四脚の警備ロボットは警察や軍が使用しているものと同じタイプだ。重火器はついていないので捕獲用ネットやスタンガンなどの暴徒鎮圧用タイプだろう。

「警備ロボットやドローンが多いですね」

「比良坂は機密性が高いからな、超監視社会だよ。つっても治安はめっちゃいいぞ」

「元囚人が多いのに? 意外ですね」

「囚人は問題起こしたら死刑確定だからな。そういう契約で比良坂にきてるし、ムショに比べたらここは天国だろ」

「俺ら軍属もお前みたいな元一般人も何かやらかせば隔離施設行きだ。お前の契約もそうだったろ」

「まあ確かに。でも問題起こす人ってそういう理屈で動かなかったりしません?」

「そりゃあそうだが、多分AIの人選が上手くいってるからじゃないか?」

「そもそも問題起こす人間をAIが選ばないってことですか? AIの方が人間の事わかってるってことですかね」

「面白いものの見方すんな、お前」


 笹村が興味深そうにそう言った時だった。

「おっやぁー? そこに見えるのはササムラーじゃない」

 艶っぽい声が聞こえて笹村が振り返る。

 通りの反対側に、ハイヒールに深いスリットの入ったチャイナドレス、金髪のセミロングの女性が手を振っていた。

 この比良坂地区には似つかわしくない都会の匂いがする美人が、地味な男を連れている。

 笹村はその女性を見て、あからさまに嫌そうな顔をした。

 キャットウォークを歩くモデルのように女性が道路を横断してくる。

 年齢はおそらく二十代で一衛とあまり変わらないように見える。チャイナドレスには雀蜂の刺繍が大きく入っていた。

「久しぶりね、焦がれるほど会いたかったニャン」

「俺は会いたくは無かったが」

「そういうつれないところが素敵、好きよ笹村」

 その女性に返答することなく一層嫌そうな顔をする笹村。

「うぅん? 誰とデートしてるのかと思いきや、見慣れぬ可愛いお兄さん。あなたが噂の新人君ね」

 そう言って女性が一衛を覗き込むように顔を近づけてくる。近い。

「ふぅーん……澄んだいい目をしてるのね」

 ふわりと香水のフルーティな香りが漂う。ついその豊満な胸に目が行ってしまい、誤魔化すつもりもあって目を空に向けた。

 女性は顔を離すと意味深な微笑みを浮かべて言った。

「お兄さんのお名前なあに?」

「一衛グレーヌです」

「グレーヌ? 素敵な名前。私は空風 美見そらかぜ みみっていうの、今度デートしましょう」

「デッ、えっ」初対面でデートの申し込みされた経験は今までない。というか意味が分からなくて言葉に詰まった。

「やめとけやめとけ」

「フフフ、経験者は語るってやつ? それともヤキモチ?」

「うるせーよ。お前も連れが待ってるんだから早よ戻れ。あれ、天田か?」

 笹村が天田と呼んだ男は、通りの向こうにポツンと取り残されていた。

「そうね、あんまり待たせると可哀想。また会いましょうニャン」

 空風美見は片足を軸に優雅にターンすると道路を渡り始めた。

 それを見送るでもなく笹村が再び歩き始めた時、「そうそう」と空風のこちらを呼び止める声が聞こえた。

 見ると彼女は車道の真ん中で立ち止まってこちらを振り返っている。

「聞き忘れたわ、一衛グレーヌ。あなたにとっての愛ってなあに?」

 突然の質問に困惑した一衛を見て、空風が思わせぶりな笑みを浮かべた。

「次会うまでの宿題ね、一衛グレーヌ」

 そう言ってふわりと髪を躍らせながら天田の方を向くと「おまたせー、天田くーん!」と両手を広げて天田の元へ駆けていった。

「なんなんですか? 今の質問」

「あの質問、会うやつ全員にしてるぞ。適当に答えておけ、俺も適当に答えた」

「笹村さんの元カノですか?」

「勘弁してくれ、あいつは誰にでもああなんだ」

「研究員の方ですよね?」

「いんや、ガードだよ」

「ええ!? あの人、ガードなんですか?」

「ああ、あいつは米倉副長班のガードの一人だよ。しかも元囚人の」

「意外だ……」

「まあ、それはともかく腹が減ったから飯に行こうぜ」



 看板に【きみこ食堂】という明朝体の文字に、ママの味と書かれた吹き出しがついている。定期的に流行るレトロな雰囲気な店だ。

 レトロなものが流行る理由は、どんなにテクノロジーが進歩し、合理的な社会になっても、人はどうしても不完全な暖かみというものから離れられないことを示している。そんなネットコラムを昔読んだのを思い出した。その店の暖簾をくぐると店内は繁盛していた。

「こんちわ、きみこさん。空いてる?」

「あら笹村くん、奥の席が空いてるよ」

 きみこと呼ばれた六十代くらいの小さなオバちゃんが、店を一人で切り盛りしていた。


 一衛たちは奥の四人掛けのテーブル席に座る。

 興味深そうに一衛は周囲を見渡した。壁にメニューが張られている訳でもなく。雰囲気づくりの為か、きみこの趣味なのかわからないが、七十年代の映画や演歌歌手のポスターが隙間なく張られていた。

「今日は何?」

「今日は煮カツ定食。サラダは笹村くんとこの畑のだよ」

「畑? 笹村さん、畑やってるんですか?」

「そうそう、一年半前に畑を譲ってもらってな。まあ俺も暇なんだよ」

「譲ってもらうって、誰からもらったんです?」

「前の持ち主は研究員のじいさんで、今は老人ホームに入ってるからもう比良坂にはいないんだけどな。以前から畑の手伝いしてて、それでもらったのよ」

「そういえば、地区内に農業プラントありますよね」

「あーいや、そっちは国運営のAIロボット管理ので、俺んとこの畑は趣味の家庭菜園レベルだよ」

 煮カツ定食がテーブルに置かれる。

「おまたせ」

「きみこさん、こいつが三日前にきた新人だよ」

「きみこです。よろしくね」

「一衛です」

「笹村くんのキャベツ、プラント産より美味しいのよ」

「へー」

「植物学者仕込みだからな」

「ごゆっくり」

 そう言ってきみこは厨房に戻っていった。


 さっそく一口キャベツから食べる。しゃきしゃきとしていてほんのりと甘味もある、確かに美味い。カツの方は合成肉だと思うが味付けが良い。優しめというか家庭味があるというか、皆食べに来るわけだと思った。

「そうだお前、なんか質問というか疑問とかあんだろ。俺が知ってる範囲なら答えるぞ」

「そうですね……、聞いていいかわかんないですけど翼果さんのことが気になってます」

「何それ。俺、恋バナはちょっと……」

「違います! そういうことじゃなくて!」

「じょーだん、じょーだんだって。まあそうだよな、俺も最初頭ん中ハテナだらけだったもんな。なんでも聞きな」

「じゃあ、そもそもなんでみんな翼果さんに敬語なんですか?」

「ああそれな、単純に翼果さんが年上だからだよ。彼女の実年齢は67才だ」

「ろ、67!? え、まさか年取らない……とか?」

「いや一応年は取るみたいだぞ、俺が初めて翼果さんをみた三年前より見た目が大人っぽくなってる気がするしな」

「だとしても全然年齢と見た目が……あっ、そういえば翼果さんが変なこと言ってました。わたしは17歳で、それは半分本当のことだって」

「ああ、それなら答えられるぞ」

「ホントですか? どういうことです?」一衛は箸を置いて思わず身を乗り出した。

「翼果さんは十七年前に一度、生まれ変わってるらしい」

「は? 生まれ……はっ?」

「いいねえ、その反応。わかるわかる、俺もそんな感じだったわ」

 笹村は困惑する一衛を楽しそうに見て笑いながら言った。

「まあ、詳しいことはわからんが、穂高主任が言うには、ある日突然、蛹みたいになって休眠したらしい」

「さ、蛹ってあの蝶とか昆虫がなるやつですか?」

「正確には蛹とは違うらしいけどな、説明聞いても難しくてわからんから俺は蛹って理解することにした。それで経過観察の担当が穂高主任だったらしい。YOMOTSUに入ってまだ数年の役職のない頃だって言ってたが。で、半年くらい経った辺りで羽化の兆候があってな。穂高主任はそれを上に報告せずに一人で羽化に立ち会ったそうだ」

「なんでそんなことを?」

「翼果さんに刷り込みをして自分を親と思わせようとしたんだと」

「何やってんすか、あの人」

「結果、以前の記憶を持ったままの翼果さんが羽化してきて、穂高主任の目論見は失敗に終わったわけだが」

「それは良かったです、本当に」

「羽化した時の姿は七、八歳児くらいの姿だったらしい。生まれ変わる以前は二十代後半くらいの見た目だったそうだから明らかに若返っていてな。その上、あの異常な身体能力も羽化後に具わったものだとのことだ。生まれ変わる以前は我々とそんな変わらない身体能力だったらしい」

「本当に彼女は人間……なんですか?」

 笹村はご飯を口に頬張りながら答えた。

「さあな」

「さあなって……」

「俺にとってはどっちでもいいんだよ。ただ、彼女が頼もしい味方だってことは知ってるからな」

「まあ……そうですね。あ、あと気になってることがもうひとつあって、翼果さんが外界に一度も出たことが無いって――」

「おい笹村、そいつ新人だろ?」

 話の途中で隣の席にいた初老の男が割り込んできた。

「ええ、ああ、そうっすよ」

「なあ、今の外界ってどうなってのか聞かせてくれよ」

 笹村が頷いて、聞かせてやれというジェスチャーをした。

「いいですよ、何聞きたいですか?」

 一衛のその言葉を皮切りに周囲にわらわらと食堂中の人が集まってきた。




 昼間なのにカーテンを閉め切ったセンターのオフィスルームで、茶屋が死んだ魚の目でタイピングをしていた。

「茶屋さん、報告書の進捗どうですか?」

 少し離れた席でやはり生気のない目で、パソコンに向かっていたアイマンが茶屋に声をかけた。

「まだ半分くらいー。アイマンは終わりそう?」

「三分の二くらいですね。それにしても身体中筋肉痛できついです」

「ねー! せめて一日休ませて欲しかったよぉー!」

 茶屋が遠い目で昨日の記憶を振り返る。


 フィールド内研究所のレトロな実験器具に囲まれた穂高が試験管を振りながら言った。

「ダメに決まってるだろ。記憶が確かなうちに報告書を作れ」

「オニー! 悪魔! 休ませろー!」「過労死しますよ!」

 茶屋とアイマンが必死に抗議するも穂高は非情だった。

「ダメだ。でも、私はとっても優しいので、今日のところは帰宅を許そう。その代わり明日は通常出勤して報告書を作れ」


「うう~、なぜYOMOTSU研究部はお給料も無いのに、こうもブラックなのか。なのか!」

 茶屋が目をいて心の底から叫んだ。

 コンコン、と部屋がノックされドアが開く。

 右腕にギプスをつけた渡辺が立っていた。

「直美さん、どこかわかる?」

「隊長! 大丈夫なんですかぁ」

「大したことは無い、ただの骨折だったからな。心配ありがとうチャーヤ」

「主任室にいませんでしたか?」アイマンが言う。

「いなかった」

「では、多分フィールド内研究所の方ですね」

「オーケー、じゃあそっち行ってみる」ドアが閉まる。

「負傷してるのに元気そうでしたね」遠ざかる渡辺の足音を見送りながら、アイマンが言った。

「ああいう無駄に丈夫な働き者が、研究部のブラック体質を作ってる一因なのよ」茶屋が恨みがましく呟いた。


 タイプをするアイマンの手が止まる。

 モニターには『モリノユメ 他生体模倣造形型たせいたいもほうぞうけい(大型種)は周囲のフィールド生物を模倣しているという従来の記録とは異なる事例が発見されたこととなる。』と、文章が打たれている。

 持ち帰った指の形状をしたサンプルの事を思い出す。

 あの周囲に人のような指を持つ生物は生息していない。猿型生物は確かに数種類、フィールドに生息しているのが確認されている。

 だがしかし、あの場所からはかなり距離のあるエリアだ。

 それに爪の形状からしてあれは人の指に見える。

 あの場所はベースキャンプの裏手だった。つまり、我々人間の指を模倣したんじゃないのだろうか? サンプルは帰った日に主任に渡したが……。

 ふぅ、と短い溜息をついてからアイマンはコーヒーを飲んだ。




 フィールド入口付近の駐車場で渡辺が車から降りる。

 研究所に向かおうとしていたが、フィールド内の道路の端に、研究実験仕様フィールド対応スーツ姿の研究員と、護衛のガードがいるのが目に入った。

 研究実験仕様のスーツは探索用のものと違い、スリムな造りになっており、特に違う点は手袋部分だ。細かい手作業を可能にするため、なるべく薄いゴムのような生地になっている。

 研究員が地面に設置した何かの機器を覗き込んでいて、ガードがそのすぐ脇に立っていた。

「こんなところで何やってるんだ?」

「あ、隊長」見張りの様に立っている男が渡辺の呼びかけに答えた。

 実験機器の横で四つん這いになっていたスーツが顔を上げる。

綱樹つなきか、わざわざここまで来たのかい? この実験が終わるまで待っててくれ」スーツから穂高の声がした。

「呼んだのは直美さんでしょ」

「昨日アイマンが持って帰ってきたモリノユメのサンプルがちょっと興味深くてな。それで仮説を立てた。その証明の為の実験だ」

「で、結果はどうなんです?」

 機器のダイアルを、昔のラジオのチューニングを合わせるように回していた穂高だったが手を離して身体を起こした。

「ダメだね。この辺りの貧弱なモリノユメでは反応が薄すぎて。おまけにここのアナクロな機器じゃ何も検出されん。できればアイマンが見つけたモリノユメで実験したいんだが」

「翼果さんから許可が下りるまでしばらくは無理ですね」

「聞いたよ。蛸の化け物が完全にどこかへ行くまでは森に入れないって」そう言って渡辺の吊られた腕を見る。

「それで骨折したって?」

「油断しましてね」

「超人綱樹も年には勝てないかい?」

「まだぎりぎり四十代ですから、まだまだいけますよ」

「言うねえ」

「それで、復帰はいつになるんだい」

「一か月程度で骨はくっ付くんですが、リハビリに二か月はかかりそうです」

「流石だね。普通、倍はかかるんじゃないか」

 穂高は立ち上がり実験器具を重そうに持ち上げた。

「穂高主任、自分が持ちます」一緒にいたガードが器具を受け取る。

「綱樹隊長、ここまでご足労してもらって悪いが、話はセンターの私の部屋でしよう」

「わかりました」

 研究所に向かう穂高たちの後ろから渡辺が声をかける。

「乗ってきます? 車」

「当たり前だろ、歩いていけっての? 少し待ってなさいよ」

 そんな穂高の姫っぽい返答に渡辺は肩をすくめて、自分を納得させるように数回頷いた。




「へえ~、じゃあコンタクトレンズのMR仕様が主流なのかよ」

「そうですね、去年画期的なMRコンタクトが発売されて瞬く間に流行したって感じです」

 きみこ食堂は一衛を中心にしたトークショーでも開催されてるかのような盛り上がりだった。

「俺はアナログ人間だからな、やっぱARメガネで充分だなぁ。比良坂には無えけどな」

「比良坂人は二十年前のVRでピンクアイドル見て満足しとけってこった」

 比良坂の高齢者定番の自虐ネタらしく笑いがおきた。

「あー、そうだそうだ、聞きたいことあったんだ」

「なんです?」

「十五、六年前にニュースになってた光の樹を崇めた変なカルト教団あったろ、あれってどうなったんだ?」

「あー、あったあった。詐欺集団っぽいのに突然巨大宗教組織になったから、その裏に強大な陰謀が、ってやつな、ネットで流行ってたな。なんだっけ名前」

 確かにネットの一部界隈で盛り上がっていた陰謀論だ。確か名前は【世界樹の使徒】だったか。一衛は特にそんな都市伝説陰謀論に興味はなかったが、そのカルト宗教のことは知っていた。それも去年、その教団が起こした事件が世間を賑わせたからだ。

「世界樹の使徒ですよね。去年ニュースになりましたよ」

「マジか! やっぱり裏で某秘密結社と繋がってたんか!」

「そうじゃなくてですね、教祖が亡くなったんです。それも衝撃的な亡くなり方でして」

「衝撃的ってどんな?」

「教祖自らフィールドXに入って死んだんですよ」

「自らぁ? 自殺したってことか?」

「そうなりますね。その時の動画がネットで出回ってですね、信者が集まる中で教祖が、『約束の時が来た。我、鍵となりて民に道を示そう。』といってフィールドに一人で入って行って死んだんです」

「ええ、なんだそりゃ、気味の悪い話だな」

「その映像が信者によって大量にネットにばら撒かれたので、子供が見てしまったとかもあってとんでもない騒ぎになったんです」

「はぁ~、外界の方がよっぽど怖えな」

 予想外のホラーじみた話で場の空気が落ち着く。それを頃合いとみた笹村が立ち上がって声を上げる。

「さあ、今日はおしまい! きみこさんが困ってるでしょ、解散解散!」



「みぎゃあああああ!」

 頭をくしゃくしゃと両手でかき乱しながら茶屋が奇声を上げた。

「ど、どうしました!?」

「書類仕事なんか無くなればいいのにぃいい!! チャーヤは一生フィールドワークと実験とリサーチだけして生きていきたいのにぃ!」両手でバンバンとデスクを叩く。

「そりゃ、そうなれば最高ですけど、仕事なんですからそうはいかないでしょ」

「チャーヤたちがこんなに苦しんでる間もササヤンとイッチンは休日をエンジョイしてるんだ。きっと朝から野山探索して昆虫採集しながら山菜取りして小鳥たちと野生小動物に囲まれてバーベキューなんかしちゃったりするんだぁああ!」

「なんですかそれは。茶屋さんの理想の休日ですか」

「なんでガード班は休みもらえるのよ。しかも三日も貰ってた! 妬ましい……」茶屋は世界を憎悪する表情で自分の親指の爪をかじった。

「さっさと終わらせましょうよ。報告書終わったら帰っていいって、主任、言ってましたよ」

「思い出せないのぉおお! オオオカアルキの足の数! アイマン、覚えてる!?」

「え、あ、どうでしたかね? 多分八本だったかと。触腕入れたら十本ですかね」

「うーん、触腕もっとあった気がするんだよね。三本は生物的におかしいから四本かなって」

「不明瞭ではあるが触腕は三本以上って書き方でいいんじゃないですか?」

「ううん……仕方ない、そうするかな。チャーヤ、観察眼には定評があるのに、ショックゥー、自分にショック」

 口を尖らせながら茶屋が再びタイピングを始める。アイマンもメガネの位置を直して作業を再開した。黙々と作業を続ける事五分。

「ねえアイマン、イッチンってどう思う?」

「茶屋さん、終わらせる気あります?」

 アイマンが手を止めずに呆れ声で答える。

「ごめーんアイマン。でもチャーヤ、喋りながらの方がはかどるからー」

 しょうがないな、とアイマンは口を閉じたまま息をついた。

「あの状況で生き残りましたからね、フィールドで生き残る適正は高いとは思います」

「長く生き残って欲しいなー。いい人っぽいし」

「我々だっていつ死ぬか解りませんけどね。実際今回、茶屋さんはかなり危なかったですよ」

「確かにぃー、紙一重だったもんね。タワシのお陰で助かったけど。タワシに食べ物持ってきたい、なんか美味しいお肉とか」

「本当にいつ死ぬか分からない。だからこうして自分の全てを後任がすぐ引き継げるように記録を残すのは大事なんですね。穂高主任は我々にそう肝に銘じて欲しいんですよ、きっと」

 そのアイマンの言葉はもっともだと茶屋は頷いた。

「………でも報告書は明日でも良かったと思う」

「それはそう」


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