鶴ヶ島崇神譚 ―祓い士 夕凪の覚醒―
G・L・Field
第1話 光徳神社の娘
朝の
父がそう言うたびに、私は心の中で「世界はもっと広い」とツッコむのだけれど、鈴緒の埃をはらいながら吸い込む空気は、たしかにちょっとだけ別物だ。
湿った土の匂い。樹の幹の香り。鳥の羽音と、どこかで流れる小さな川の気配。
長い参道の先に、石造りの鳥居がひとつ。
その奥に、重たそうな屋根を載せた拝殿。
さらに奥に本殿と、その裏にある、いくつもの小さな社。
そしてぐるりを囲むのは「野鳥の森」と名付けられた社叢林。
朝はいつも、鳥の鳴き声でにぎやかだ。
「……よし。今日もクモの巣、ゼロ」
私は竹ぼうきを立てかけて、鈴緒を見上げる。
真ん中あたりについていたクモの巣を払い落として、代わりに自分の髪の毛に盛大に絡ませたさっきのドタバタは誰も見ていない。
我ながら完璧な仕事だ。
「
拝殿の脇から、父の声が飛んでくる。
「分かってるってば」
私は返事をしてから、賽銭箱の前に立った。
ポケットから十円玉を一枚。チャリン。
二礼二拍手――パン、パン。
瞼を閉じて、ほんの一瞬だけ、静かになる。
(今日も一日、何事もなく、無事に。……できれば体育で雨が降って、マラソン中止になりますように)
最後の願いは、さすがに神様に怒られそうなので、心の中で小さく付け足す。
目を開けると、拝殿の奥は相変わらず静かだった。
そこには神様がいる。はずだ。
古事記だとか日本書紀だとか、ちゃんとした由緒書きには難しい名前がずらずら並んでいるけれど、私にとってはずっと「光徳さま」で通ってきた相手だ。
昔は、たまに声が聞こえた気がする。
風鈴が鳴るみたいに、小さく、誰かが笑う気配とか。
今はもう、聞こえない。
「ぼーっと突っ立ってないで、鈴の紐、ねじれ直せ」
父がまた口を出してきたので、私は慌てて鈴緒のねじれを直す。
「ねえ、お父さん」
「なんだ」
「やっぱさ、今度の夏祭り、インスタ用のフォトスポットって本当にやるの?」
「やるぞ。あれは若いのが喜ぶんだ。提灯トンネルに鳥居ライトアップ、御朱印コラボ。人が来なきゃ、神社はただの広い庭だ」
「言い方」
私は苦笑する。
「でもさあ、“映え”のために来る人って、ちゃんとお参りするのかな」
「するやつも、しないやつもいる。だが、来ないやつは確実にしない。
だから、まずは足を運ばせるところからだ。
それに、写真を撮って“光徳神社”の名前をどこかに残していってくれるなら、それも立派な参拝だ」
「そんなもん?」
「まずは、そんなもんでいいんだよ」
父は肩をすくめる。
本殿の鍵束をジャラリと鳴らしながら、振り向きもせずに続けた。
「夕凪。お前もそろそろ考えておけよ」
「何を」
「大学行くならどこにするか、とかだ。そのあと、神社を継ぐ気があるのかどうかも。“なんとなく”ここにいるには、ここはちょっと、でかい」
「あー……はいはい。考えとく」
考えとく。
――その言葉を、私はたぶん、去年から十回以上言っている。
光徳神社は、たしかに「でかい」。
鳥居から拝殿までの距離も、森の奥行きも、合祀された神様の数も、なんだかスケールが違う。
その真ん中に、自分が一生、立ち続けるイメージなんて、まだ全然湧かない。
でも、嫌いなわけじゃない。
森の中の澄んだ空気感とか、参道で聞こえてくる自然の音とか。
冬の社務所でストーブにあたりながら、父の淹れたやたら渋い緑茶を飲む時間とか。夏祭りの日の、境内に立ち上る屋台の匂いとか。
そういうのは、ちゃんと好きだ。
「おい夕凪、ほんとにそろそろ行け。遅刻するぞ」
「分かってるってば!」
私は鞄をつかんで駆け出した。
鳥居をくぐるとき、いつもみたいに軽く会釈してから、住宅街の坂道を下っていく。
通い慣れた道。
でも、この日だけは、ほんの少しだけ、空気が違っていた。
アスファルトの隙間から、じわっと染み出すような、冷たい湿気。
まだ雨なんて降っていないのに、足元から水の匂いがした。
◇
若葉駅前のロータリーは、今日もいつも通りだった。
コンビニの前には、眠そうな顔でエナドリを啜るサラリーマン。
駅へ急ぐ高校生たち。
信号待ちの車の列。
「夕凪ー、おはよー」
背中から、やたらテンションの高い声が飛んでくる。
振り向くと、
黒ぶちメガネに三つ編み、おまけに今日のトートバッグにはでかでかと“オカ研”って書いてある。なぜだ。
「そのトート、やめなよって言ったよね?」
「え? だって可愛いじゃん、“オカルト研究会・非公式支部 in 鶴ヶ島”」
「うちの学校にそんな部活ないからね」
「つくろうよ」
「やだよ」
くだらないやり取りをしながら、駅のホームへと上がっていく。
電車が滑り込んできて、ドアが開く。
朝のラッシュには少し早い時間帯だけど、それなりに混んでいる。私と千景はドア脇のスペースをなんとか確保した。
「そういえばさー」
千景がスマホを見せてきた。
画面には、ローカル掲示板の書き込み。
『野鳥の森、水辺無いのに水の音しまくってたの、あれ何??』
『野鳥の森の近く、昨日の夜、水の音やばかったんだけど……』
『誰か溺れてるみたいなバシャバシャ音してた』
「ね? こういうの! 調査行こうよ、調査!」
「また変なの見つけてきたね……」
私は画面を覗き込んで、ため息をつく。
「“野鳥の森の近く”って、うちの神社の裏側だからね。それ」
「だからこそ、じゃん! 地元のオカルトは地元民が検証しないと!」
「検証して『勘違いでした』ってオチだったらどうするの」
「それはそれで平和で良き。てかさ、夕凪。最近さ、光徳の裏のほう、あんま行ってないでしょ?」
「……まあ。境内の掃除はするけど、森の奥まではあんまり」
野鳥の森の奥は、子どもの頃にはよく遊びに行っていた場所だ。
でも、中学に上がってからはなんとなく足が遠のいている。
忙しくなった、とか。
蚊が多い、とか。
理由は、いくらでも言い訳できる。
ただ、あの森の奥に踏み込むと、いつも少しだけ、胸がざわざわするのだ。
森の奥から、なんとなく見られているような気がしていた記憶がある。
「で? 今度の金曜の放課後とか、どう?」
「……考えとく」
「あー、またそれ。夕凪の“考えとく”、永遠に考えたままじゃん」
「ぐさっと刺さること言うね、朝から」
そんな会話をしている間に、電車は二駅下りの北坂戸駅に着いた。
今日も何もない、はずの一日。
このときはまだ、私はそう思っていた。
◇
その「何もない」が崩れたのは、帰り道だった。
夕立が来る、と天気予報が言っていたくせに、昼間は結局一滴も降らなかった。
代わりに、まとわりつくような湿気と、薄く曇った空。
学校から北坂戸駅まで歩いて、電車に乗って、鶴ヶ島へ戻る。
光徳神社へ続く道は、朝よりも、さらに濃い水の匂いがしていた。
長い参道を抜けて、鳥居をくぐる。
境内には、誰もいなかった。
風も、ほとんど吹いていない。
でも、木々の葉が、ざわりと一斉に鳴った。
嫌な感じ――というよりは、妙な違和感だった。
空気の密度が一段、重くなったみたいな。
「……お父さん?」
社務所を覗くと、父の姿はなかった。
机の上に、メモだけが置いてある。
『氏子総代のところに行ってくる。夕飯までには帰る』
「ふーん」
一人きりになった境内に、私の声が浮いて消える。
鞄を社務所に置いてから、私はなんとなく拝殿の前まで歩いていった。
賽銭箱。
鈴緒。
お賽銭を入れる人はいないのに、ほんのりと金属と指の匂いが残っている。
さっきまで何も感じなかったのに、今は――。
ぞわり。
足元から、冷たいものが這い上がってきた。
「……え?」
視線を落とす。
境内の石畳みの下、雨も降っていないのに、石の隙間がじっとりと濡れていた。
じわ、じわ、と。
水が滲み出している。
いや違う。これは、水の“影”だ。
光の角度のせいなんかじゃない。
石の上に、黒い水たまりが広がっていく。
私の足元めがけて。
「――っ」
身体が先に動いた。
一歩、二歩、後ろに下がる。
バシャッ、と音がした。
黒い水がはねて、形を変える。
細長く、伸びて、指のように分かれて――。
「手」になった。
石段の上に、ぬらぬらとした水の手が這い上がってくる。
「わっ、わわっ、わっ」
飛び跳ねるように避ける私の足を、その手が追いかけてくるようだった。
指が、私の足首を掴もうとして――。
「こらっ!」
口が勝手に叫んだ。
同時に、私は傍らに立てかけてあった竹ぼうきをつかみ、その黒い手を力任せに叩きつけた。
バシャァッ!
水飛沫が石段に散る。
でも、それはすぐにまた、じわりと集まり始めた。
掴まれる。
ここで掴まれたら、良くない。
理由は分からない。けれど、本能が警鐘を鳴らしていた。
どうする。
どうすれば――。
「鈴だ、鈴を鳴らせ!」
耳元で、誰かの声がした。
男の声。
聞いたことのない、でもなぜか懐かしい響き。
考えるより早く、私は竹ぼうきを放り出して鈴緒に飛びついた。
両手で縄をつかんで、思い切り引く。
ガランガランガランッ!!
拝殿の中で、大きな鈴の音が爆発した。
音が空気を震わせる。
その震えが境内に広がって――黒い水の手を、叩きつける。
じゅっ、と音がした気がした。
水の手が、霧みたいにほどけて、石段の隙間へと逃げていく。
湿り気も、冷たさも、消えていった。
境内には、また、鳥の声だけが戻ってくる。
「っは……はぁ……」
私は鈴緒にしがみついたまま、肩で息をしていた。
額から汗が垂れる。
心臓がうるさい。
今の、なに。
私の足を、掴もうとした。
あの水の手が。
あんなもの、見たことも――。
「へえ。やるじゃないか」
背中から、ひどくくぐもった、でもどこか楽しそうな声がした。
さっき耳元で聞こえた声と、同じだ。
「言っただろ、“鈴を鳴らせ”って。
ちゃんと聞こえてたなら、まあ合格だ、神社の娘」
振り向く。
拝殿の向こう、鳥居の手前。
さっき水がにじんでいた場所の奥のほうに、小さな石祠がある。
昔からそこにあった。
誰を祀っているのか、私はちゃんと聞いたことがない。
その石祠に、誰かが腰を下ろしていた。
黒いパーカーに、だらしなく結んだ髪。
足を組み、頬杖をついて、こちらを見上げている。
青年――に見える“何か”。
目が合った瞬間、ぞくりとした。
彼の瞳孔が、縦に裂けていたのだ。
蛇みたいに。
「ま、初対面でいきなり足を引きずり込まれるのは気分悪いだろ。
とりあえず、今のは追い払っといた。礼くらいは言ってくれてもいいが?」
「……だれ」
かろうじて、それだけ絞り出す。
青年は、にやりと口元を上げた。
「自己紹介が先か。そうだな」
ゆっくりと立ち上がると、石祠の屋根を軽く叩いた。
「俺はオロチ。この端っこの祠の主。
光徳神社の隅っこで、ついでに祀られてる雨乞い龍蛇の、まぁ分家的な神様って言えば分かりやすいか?」
そして、私をまっすぐ指差す。
「で、お前は――三ツ
このデカい神社の、次の『器』、祓い
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