沈黙の手のぬくもり
小枩素月
第1話
Ⅰ. 追跡の果て
夕暮れの空が、茜色から深い藍色へと沈み込んでいく。
街のざわめきは遠くに消え、耳に残るのは自分自身の荒い呼吸だけだった。胸の奥で心臓が暴れるように脈打ち、その震えが手に握りしめた紙片までを揺らす。
その紙片には、彼の字が滲むように記されていた。
角は柔らかく折れ、指先にかすかな湿り気が残る。何度も握りしめ、頼り続けた痕跡。私が彼を失わなかった唯一の証だった。
通りの角を曲がると、古びた建物の影が夕闇に長く伸びている。その奥に揺れるかすかな光が、胸の奥をざわめかせた。
――行くしかない。
足元の舗装はひび割れ、砂利が踏むたびに微かに崩れた。湿った空気に混じる埃の匂いが鼻を刺す。全身を緊張が包み込み、私は紙片を握る手に力をこめたまま、一歩ずつ前へ進んだ。
夜の帳が降りた廃工場地帯は、深い闇に沈んでいた。冷えきった空気を切り裂くのは、私の荒い息遣いだけ。心臓の鼓動が耳鳴りのように響き、瓦礫と鉄骨が散乱する道を、私はただひたすらに駆け抜けた。
任務としての追跡なのか、それとも彼を見つけたいという願いなのか。
胸の奥で絡まりあった二つの思いは、もはや自分でも判別できない。
巨大な工場群の隙間を縫うように進むと、その中でもひときわ異様な建物があった。屋上の円柱状の構造物が月明かりを受け、不自然に浮かび上がっている。そこへ通じる外階段を上る影が、一瞬だけ見えた。
「……!」
逃がすものか――その思いだけが体を突き動かす。
錆びついた階段を駆け上がるたび、金属が軋む音が焦燥を増幅させ、額に滲む汗が夜風で冷やされても、体内に燃える熱は消えなかった。
ようやく屋上にたどり着いたその瞬間、胸の炎は氷のように冷えた。
誰もいない。
追った影は跡形もなく消えていた。
背後に続く階段は一本だけ。逃げ場はないはずだった。
まるで最初から幻影だったかのように。
屋上中央に円形の構造物があった。覗き込むと、月光を受けて静まり返った水が、冷たい夜気を閉じ込めている。完璧な静寂が、逆に異様な気配を漂わせていた。
近づいた瞬間、水面がゆっくり沈んだ。
まるで水の下に何かが隠されていることを示すように。
手をかざすと、水面はさらに下がり、内側から湿った石段の階段が現れた。
誘うように、静かに。
罠か。あるいは彼への道か。
迷いは一瞬で消えた。階段は私が降りる速度に合わせて道を開いていく。
深く、深く、地下へ。
やがて階段を降りきった先には、冷たいコンクリートの空間と、無言のまま佇む防水仕様の重い金属のドアだけがあった。
Ⅱ. 白い空間
胸の奥で、強い胸騒ぎが膨らむ。これはただの追跡劇などではない。何かに導かれている――そんな感覚が全身を支配した。
最下層のドアに手をかける。
重く軋む音とともに開いた先は、工場の荒々しさとは異質な、白く無機質な廊下だった。
廊下の床は光を帯び、冷たく硬質な感触を放っていた。
人工的な空気に、わずかに混じる消毒液の匂い。
白い壁と光の冷たさが増すほど、心臓の鼓動も大きくなる。湿った空気と埃に慣れた体には苛烈なほど異質な空間で、呼吸するたび喉の奥で消毒液が絡んだ。
紙片の文字が脳裏に浮かぶ。
私が彼を追う唯一の手がかり。
――あの紙がなければ、ここまで来れなかった。
衝動のまま近くの扉を押し開ける。
青白いモニターの光。生命維持装置の規則的な電子音。
集中治療室のような白い部屋の中央に、ひとつのベッドが置かれていた。
そして――
その上に横たわる姿を見た瞬間、全身の血が凍りついた。
彼だ。
最後に会ったとき、彼はいつも通り穏やかな笑みを浮かべていた。
連絡が突然途絶えたあの日。生活の痕跡だけが残された部屋。
携帯も財布もそのまま。外出の形跡もない。
捜査線上には何も出てこなかった。
彼は、どこへ行ったのか。
何があったのか。
答えは、ずっと霧の中だった。
ただひとつの手がかり――紙片。
たった数文字だけが、私を導く灯りだった。
そして今、その行き着く先が、彼の沈黙の姿として目の前にあった。
Ⅲ. 沈黙と温もり
やっと見つけた。
やっと、会えた。
しかし彼は目を閉じ、言葉を返すことはできない。
意識はなく、人工呼吸器が淡々と呼吸を刻むだけ。
機械の電子音が心拍と重なり、静かなリズムを奏でていた。
震える手で、彼の手をそっと包む。
掌に伝わるのは、冷たさと微かな温もり。
唯一の、生の証。
指が、ほんの少し動いたような気がした。
胸の奥がぎゅっと熱くなる。
涙が溢れ、視界が揺れる。
嗚咽が喉につかえて声にならない。
ただ、何度も彼の手を頬に当てる。
紙片は握ったまま。彼を信じた証として、最後まで手放さずに。
「ごめん……遅くなった。でも、来たよ。あなたが残した言葉を、信じて」
涙が彼の手の甲に落ちる。
その瞬間、彼の指が、確かに震えた。
人工呼吸器の規則的な音。
機械的な静けさ。
その中で、彼の手のぬくもりだけが確かに生きていた。
強く握ることもできない。
弱く離すこともできない。
ただ、そっと包み込む。
どれほど沈黙が深くても。
どれほど時間がかかっても。
――私は、ここにいる。
声に出さずとも、その誓いは彼の手に染み込んでいく気がした。
沈黙の中。
その手のぬくもりだけが、私を繋ぎとめる、確かな希望だった。
沈黙の手のぬくもり 小枩素月 @Dec_1203
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