ハーレムの崩し方
@DTUUU
第1話
東京の空は、どこまでも高く澄み渡っていた。
春の陽気がアスファルトを温め、街全体が新しい季節の到来に浮き足立っているのが肌で感じられる。
だが、広尾の高級マンション『プライムガーデン秀明』の最上階、そのリビングで、俺――朝倉恒一は、手元にある真新しい入学案内を眺めながら、氷点下のため息をついていた。
「『私立 秀明館学園』……。間違いない。ここは、あのゲームの世界だ」
革張りのソファに深く沈み込み、天井を仰ぐ。
視界の端には、開かれたままのノートパソコン――最新モデルの『VAIO』がある。その液晶画面には、俺の個人資産を示す証券口座のページが表示されていた。
遡ること十二年前。
俺が三歳の時、高熱にうなされた夜に、唐突にすべてを思い出した。
俺の前世は、真田裕樹。
平成初期から中期のIT黎明期に、ベンチャー企業『ルミナフィード』を立ち上げた男だ。
貧困家庭から這い上がり、インターネットという荒波を読み切り、数多の競合を蹴落として数百億の資産を築いた。
「メディア・イノベーター」「時代を当てた男」。
世間からはそう持て囃されたが、その代償は大きかった。四十代半ばにして心臓を患い、過労死同然にこの世を去ったのだ。
未練がなかったと言えば嘘になる。だが、それ以上に「やりきった」という虚無感があったのも事実だった。
しかし、運命は数奇だ。
目が覚めると、俺は金持ちの家の息子になっていた。
最初はタイムスリップだと思った。だが、成長するにつれて違和感は確信に変わる。
母の名は、エリス・アシュフォード。
ハリウッドを代表する、アカデミー賞常連の名女優だ。
スクリーンの中の彼女は、ため息が出るほど美しい。
彫刻のように整った顔立ち、理知的でいてどこか冷ややかなブルーグレーの瞳。銀幕の向こう側から世界中の男性を虜にする「至宝」そのものだ。
実の息子である俺から見ても、彼女の美貌は暴力に近い。
自宅でくつろぐノーメイクの姿ですら、映画のワンシーンのように完成されている。肌は陶器のように滑らかで、ふとした瞬間に見せる憂いを帯びた表情は、見る者の理性を揺さぶる魔性の色気を放っていた。
そんな母から産まれた俺、朝倉恒一もまた、鏡を見れば嫌になるほど整った顔をしている。
金と美貌、そして前世の記憶。
これ以上ない「強くてニューゲーム」だと思っていた。
今日、このパンフレットを見るまでは。
『私立 秀明館学園』。
かつての前世、俺が高校時代――つまり、精神年齢で言えば今から四十年近く前にプレイしたギャルゲー、『放課後エターナル』の舞台だ。
「……よりによって、このゲームか」
俺はこめかみを揉む。
『放課後エターナル』。王道の学園恋愛シミュレーション。
だが、俺が転生した「朝倉恒一」というキャラクターは、主人公ではない。
容姿端麗、文武両道、家柄良し。
しかし性格は最悪で、主人公の恋路を邪魔し、ヒロインを金や権力で奪おうとする「当て馬」ライバルキャラだ。
ルートによっては退学、あるいは家業の没落というバッドエンドが待っている。
「冗談じゃない」
俺は二度目の人生、それもせっかく金持ちに生まれたこの人生を、そんなくだらないシナリオで棒に振るつもりはない。
前世で俺は、青春を全て仕事と金儲けに捧げた。
高校時代はバイト漬け、大学時代は起業準備。恋愛も遊びも後回しで、気づけば死んでいた。
だからこそ、今世のテーマは決まっている。
『青春の謳歌』だ。
面倒なヒロイン争奪戦には関わらない。主人公の邪魔もしない。
ただ、平穏に、贅沢に、自分の時間を楽しむ。それだけが俺の望みだ。
俺は記憶の糸を手繰り寄せる。
四十年以上前の記憶だ。ゲームの詳細は曖昧になっている。
メインヒロインの名前すら怪しい。
だが、唯一鮮明に覚えているキャラクターがいた。
パッケージの端にいたサブヒロイン、相原みゆだ。
当時、俺が唯一「攻略したい」と思った少女。
小柄で華奢な身体に、少し強気な吊り目。アイドルとして活動しており、画面越しでも伝わるような圧倒的な「プロの美少女」オーラを纏っていた。
作り物めいた美しさの中に、ふと見せる脆さと孤独。
「……可愛かったな、あの子」
四十歳のおっさんの感性でも、彼女のデザインは秀逸だったと記憶している。
だが、今の俺にとってはそれも過去のデータに過ぎない。
彼女もまた、原作主人公と結ばれる運命にあるなら、俺が介入する余地はないし、するつもりもない。
「さて、感傷に浸るのは時間の無駄だ」
俺は立ち上がり、ノートパソコンのエンターキーを叩いた。
画面の数字が更新される。
数字の羅列が示す現在の個人資産額は――『310億円』。
三歳で記憶を取り戻した俺は、すぐさま母エリスに交渉した。
「僕名義で口座を作ってくれ。運用は僕がやる」
普通なら幼児の戯言だ。だが、母は面白がって、そして俺の言葉にある種の「知性」を感じ取って協力してくれた。
一九九〇年代、この激動の時代。
前世の記憶にある「これから伸びるIT株」「ドットコム・バブルの波」。
答えの分かっているテストのようなものだ。
俺は淡々と、しかし確実に資産を増やし続けた。母のエリスですら、俺の投資手腕には舌を巻いている。
この310億は、親の金ではない。俺がこの十二年で稼ぎ出した、俺だけの武器だ。
そしてこの金を使って、俺は「城」を手に入れた。
場所は、秀明館学園から徒歩十分。
広尾の丘の上にそびえ立つ、低層レジデンスの最上階。
分譲価格、四億五千万円。もちろんキャッシュで即決した。
セキュリティは万全、プライバシーは完璧に守られる。
実家から通うという選択肢もあったが、「自立して社会勉強がしたい」というもっともらしい理由をつけて、一人暮らしを勝ち取ったのだ。
全ては、誰にも邪魔されない青春のため。
引越しの荷解きは、業者が全て完了させていた。
俺は広々としたリビングを見渡す。
床は大理石ではなく、温かみのある最高級のウォールナット材を選んだ。素足で歩くと、木の温もりが心地よく伝わってくる。
家具はイタリアの『カッシーナ』で統一。『マラルンガ』ソファの背もたれを倒し、その座り心地を確かめる。シンプルだが、長時間座っていても疲れない機能美がある。
壁一面の窓からは、東京タワーを含む夜景が一望できるはずだが、今はまだ黄昏時だ。
「まずは、腹ごしらえか」
時計を見ると、十八時を回っている。
俺はジャケットを脱ぎ、ラルフローレンのシャツの袖を丁寧に捲り上げた。
外食? デリバリー?
いや、違う。
前世の俺の趣味は、料理だった。
多忙な日々の中で、唯一無心になれる時間。食材の声を聴き、火加減を操り、完璧な一皿を構築するプロセスは、経営にも通じる快感がある。
俺は財布とエコバッグ――といっても、エルメスのレザー製だが――を手に取り、マンションを出た。
向かう先は、近所の高級スーパー『ナショナル麻布』だ。
大使館員や外国人エキスパットが多く住むこのエリアにおいて、ナショナル麻布はまさに食の宝庫だ。
店内には、日本のみならず世界中から集められた質の良い食材が並んでいる。
俺は迷いなくカートを押して進む。
今日のメニューは決めてある。
引越し初日の夜。新たな門出を祝うに相応しい、華やかさと刺激、そして安らぎを兼ね備えた一皿。
『和風マッサマン・カレー』だ。
「鶏肉は……国産の地鶏、比内地鶏のもも肉でいい。この脂の乗りと弾力が、煮込みに負けない存在感を生む」
パックを手に取り、肉の色艶を確認する。
「ココナッツミルクは缶詰ではなく、紙パックの無添加のものを。ナンプラーは熟成期間の長い『メガシェフ』だ」
スパイスコーナーで、ホールのカルダモン、シナモンスティック、スターアニス、そしてクミンシードをカゴに入れる。
普通の高校生なら市販のカレールーを買うところだろうが、俺の辞書に妥協という文字はない。
そして、最後に手を伸ばしたのは「味噌」の棚だ。
「隠し味は、京都の西京味噌。こいつがココナッツミルクの甘みとコクを、日本人の舌に合うように優しく繋いでくれる」
買い物を終え、マンションに戻る。
静寂に包まれたキッチン。
ここには、俺がこだわり抜いて揃えた調理器具たちが鎮座している。
ドイツ『ツヴィリング』の最高級ライン『MIYABI』の包丁。ダマスカス鋼の紋様が妖しく光る。
熱伝導率と蓄熱性を極めた、フランス『モヴィエル』の銅製ソテーパン。
そして、抽出圧力を0.1気圧単位で調整できる、イタリア『ラ・マルゾッコ』の業務用エスプレッソマシン。
俺はガスコンロのつまみを回した。
IHなどという無粋なものは使わない。火を見ることは、料理の基本だ。
厚手の銅鍋に油を引き、ホールスパイスを投入する。
じゅわっ、と微かな音と共に、カルダモンの爽やかさとシナモンの甘い香りが立ち昇る。
この瞬間が好きだ。世界が俺の掌の上にあるような感覚。
玉ねぎは飴色になるまで炒めない。食感を残しつつ、甘みを引き出すギリギリのラインで見極める。
鶏肉は皮目から焼き、メイラード反応をしっかりと起こして旨味を閉じ込める。皮はパリッと、中はジューシーに。
そこへ自家製のカレーペーストを投入し、香りが立つまで炒め合わせる。
ココナッツミルクを注ぎ、最後に西京味噌を溶かし入れる。
部屋中に広がる香りは、タイの熱風と日本の静寂が混ざり合ったような、複雑で芳醇なものだ。
「……よし。完璧だ」
煮込み時間は最短でいい。素材のフレッシュさを活かすのが、このカレーの流儀だ。
俺は炊きあがったジャスミンライス――あえて日本米ではなく香り米を選んだ――をロイヤル・コペンハーゲンの深皿に盛り、その上から黄金色のカレーを回しかける。
仕上げに、砕いたピーナッツとパクチーを散らす。
リビングの照明を少し落とし、ダイニングテーブルに着く。
目の前には、湯気を立てるカレー。
そしてグラスには、ワインではなく水。
『シャテルドン』。フランス王ルイ十四世が愛したという、「太陽王の水」。
一本数千円する硬水だが、スパイシーな料理にはこの重厚な水がよく合う。
俺はテレビのリモコンを手に取り、電源を入れた。
映し出されたのは、人気絶頂のクイズ番組『世界・ふしぎ発見!』だ。
ミステリーハンターが古代遺跡の前でレポートをしている。
『さて、ここでクエスチョンです。この遺跡から出土した、当時の人々が媚薬として使っていたスパイスは何でしょうか?』
司会者の草野仁が人形をドンと置くのと同時に、俺はスプーンを口に運びながら呟く。
「サフラン。……簡単すぎる」
テレビの中の回答者たちがフリップを出すより、俺の方が五秒早かった。
カレーを咀嚼する。
最初にくるのは、ココナッツミルクの濃厚な甘み。
次に、カルダモンとシナモンの爽やかな香り。
そして最後に、西京味噌のふくよかな塩気が全体をまとめ上げ、ナンプラーの旨味と握手をする。
比内地鶏の弾力ある肉を噛み締めると、溢れ出る脂の甘みがスパイスと絡み合い、脳髄を痺れさせるような多幸感をもたらす。
「……美味い」
思わず口元が緩む。
店で出せば三千円は取れる味だ。だが、これを俺は誰に気兼ねすることもなく、パジャマ代わりのラフな格好で食すことができる。
『正解は、サフラン! パーフェクト賞が出ました!』
テレビの中の歓声をBGMに、俺はシャテルドンを煽る。
微発泡の冷たい水が、スパイスで火照った喉を心地よく洗い流していく。
「これだ。俺が求めていたのは」
金はある。
時間もある。
邪魔する家族も、理不尽な株主も、無能な部下もいない。
明日からは高校生活が始まるが、俺はあくまで「モブ」として、教室の隅でこの平穏を守り抜くつもりだ。
ヒロイン? 恋愛?
そんな不確定要素にリソースを割くつもりはない。
俺は、この最高級の孤独と自由を愛しているのだから。
「ごちそうさま」
完食した皿を眺め、俺は満足げに息をつく。
皿を洗い、食後のエスプレッソを抽出しようとマシンに手を伸ばしたその時。
ふと、インターホンが鳴った。
こんな時間に誰だ?
コンシェルジュか? それとも早速、隣人の挨拶か?
いや、このマンションのセキュリティは完璧だ。アポイントのない来客を通すはずがない。
俺は怪訝に思いながら、モニターを覗き込む。
そこに映っていたのは――。
キャップを目深に被り、大きなマスクをしているが、隠しきれないオーラを放つ小柄な少女。
そして、その横で困ったように、しかし華やかに笑っている、俺の姉・朝倉ひよりの姿だった。
「……は?」
思考が停止する。
姉貴がここに来るのは想定内だ。鍵も渡していないが、押し掛けてくる可能性は計算に入れていた。
姉のひよりは、現役の女子大生でありながらモデルとしても活動している。
その美貌は、母親譲りの華やかさと、誰からも愛される親しみやすさを兼ね備えている。
モニター越しでも分かる、輝くような笑顔。男なら誰もが放っておけないであろう「全方位型の美人」だ。
だが、問題はその横にいる少女だ。
マスクをしているが、その瞳だけで分かってしまう。
吸い込まれそうなほど大きく、澄んだ瞳。
長い睫毛が縁取るその目は、意思の強さと、どこか助けを求めるような儚さを同時に宿している。
記憶の中のドット絵よりも遥かに鮮明で、そして遥かに美しい。
小柄で華奢な身体つきは、守ってやりたいという庇護欲を男に起こさせるが、その立ち姿には凛としたプロの風格がある。
間違いない。
俺がかつて推していたサブヒロイン、相原みゆだ。
なぜ、ゲームの中のキャラクターが、よりによって俺の家の前にいる?
『こーちゃん! 開けて開けて! 緊急事態!』
モニター越しに姉の声が響く。
隣の美少女――みゆが、申し訳なさそうに、しかし縋るような視線をカメラに向けてくる。その瞳と目が合った瞬間、俺の心臓が不覚にも跳ねた。
俺の「平穏な青春」計画が、引越し初日の夜にして、早くも崩壊の危機に瀕していることを悟った。
手に持っていたエスプレッソ用のデミタスカップが、カチャリと小さな音を立ててソーサーに戻された。
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