ドーナツ

高橋玲

本文

「私、好きな人がいるの」


 向かいに座るミカの手が止まった。食べかけのドーナツから欠片が零れる。生地はふわふわとしているはずなのに、トレーに落ちる音がぽつぽつと聞こえてくるようだ。


 ミカはドーナツを食べようと開けた口をそのままに、少しだけ声を漏らした。しかしその声は私には届かない。いや、届いたのに私が意識していなかったのかもしれない。ただ私の鼓膜を震わせただけだ。


 ミカの表情は目まぐるしく変化した。口と同じように見開かれた目は、光を失ったように私とその先の空間を見つめた後、右へ左へと揺れ動き、最後にはゆっくりとトレーに落とした。頬の引き攣りは美しい顔を台無しにした。短めに切り揃えられた前髪は、当人の心境を表すかのようにはらりはらりと揺れ動いた。


「そ……そっか」


 微かに私の鼓膜に響く振動が、初めて言葉として認識できた。その響きには普段のミカからは想像できない落胆と焦りが含まれていた。いつものような溌剌とした明るい調子は少しも感じ取ることができなかった。私はこの時、ミカの新しい一面を発見することができ、不思議にも嬉しさが込み上げてきた。ミカはこれまで私に対して天真爛漫さだけを強調していたのだと、ここに至って理解した。


 私はミカを眺めながらドーナツの咀嚼を再開した。チョコレートのパリッとした舌触りと、中のふわっとした食感が絶妙に調和していた。この甘さに甘さを重ねた食べ物は、私にとって蜜のようだった。


 私の好きな人は、私のことが嫌いだった。ミカは私のことが好きだった。私はミカが好きではなかった。私は自分を好いてくれる人間を拒絶することによって、私の好きな人と同じ気持ちを味わいたかった。おそらく、過去の私は今のミカと同じような表情をしていたのだろう。


 私はミカの肩越しに喫茶店の様子を観察した。私たちの座る窓際は、外の景色が一望できるように広々としたガラス張りになっていた。白を基調としたインテリアは、窓から差し込んでくる太陽の光によって輝いていた。光を浴びて楽しそうに談笑する男女や家族連れ。暖かな心地に一人微睡む女性。店内から聞こえるカチャリとした食器の響きをリズムにグラスを拭くウェイトレス。皆、この喫茶店でゆっくりと幸せを噛み締めていた。私たちが、いやミカが一人この輪に加われないことを申し訳なく思う。私は幸せだった。


 四角いテーブルからカランと音がした。見れば、ミカの注文したアイスティーが少しだけ波立っていた。氷が溶けたことで動いたのだろう。ミカはそんなことを意にも介さず、黙ってテーブルの中央を眺めていた。


 ふいにミカが顔を上げた。私と目が合う。ミカの黒い瞳には戸惑いの色が浮かんでいる。しかし、私の告白の頃よりも幾分か明るさを取り戻したようだ。表情もいつもの整った顔立ちに回復していた。


「誰?」


 ミカの質問は端的ながら核心を突くものだった。私はこの質問を予想していた。私は今日の告白にあたり、ミカの態度や質問を考えていた。恐らく聞かれるであろうことは、私の好きな人がどのような人間か、それに尽きるだろうと。


 私は逡巡する素振りを見せた。答えは決まっていた。しかし、ミカが気持ちを整理した後でようやく取った行動に対して、返す刀で答えることは、ミカに対して失礼だろうと思った。私はミカがさっきやったように目を泳がせ、少し俯いた。心の中で時間を数える。1……2……3……、5秒ほど経過したところで、私は返答するために口を開いた。


「言えない」


「なんで?」


 ミカの反応は早かった。まるで私の考えを把握しているようだった。ミカはもしかすると、先程の俯いていた際に、このような問答が始まることを察していたのかもしれない。


 ミカの声は冷たかった。私の告白よりも前に話していた時とは全く違っていた。私は身震いがした。と同時に、私の中に込み上げてくる熱さがあった。私は今、これまで見たことがなかったミカの一面に触れることができている。この熱さは恐らく嬉しさだ。


 私は考えた。ミカの質問に対する私の回答によって、状況は一変するだろう。まだ私は誰が好きか好きか明言していない。つまり、私が好きな人はミカだと言うこともできる。窓から差し込む暖かさとは対照的なミカの冷たさも、これで少しは解消されるかもしれない。勿体ぶっただけだと、ちょっと凝った告白をしたかったのだと、そう言えばミカは安心するだろうか。


 私はまた目をテーブルに落とした。私のトレーには食べかけのドーナツが置いてある。チョコレートは日の光を浴びて少し溶け始め、てらてらとしている。私は甘いドーナツよりも、苦い食べ物が好きだった。


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ドーナツ 高橋玲 @rona_r

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