それはいつも通りの朝だった

@zeppelin006

それはいつも通りの朝だった

それはいつも通りの朝だった。


 目覚ましが鳴るより少し早く、僕は目を覚ます。

 カーテンの隙間から差し込む光の角度で、だいたいの時刻がわかる。東側の窓から差し込む光は、六時前は青白くて、六時を過ぎると少しだけ黄色を帯びる。今日は、やや黄色寄りだ。


「……もう六時二分です」


 枕元でそう告げる声がして、すぐにアラームが鳴り出す。ぴぴぴ、と短い電子音。止めてほしいと思った瞬間に、音はぴたりと止んだ。


「おはようございます。今日の天気は晴れ、ときどき曇り。最高気温は二十五度、最低気温は十七度の予想です」


 少し眠そうな咳払いの音が聞こえ、隣で妻が布団の中でもぞもぞと動く。


「……ねえ、その“おはようございます”って、いまだに慣れないんだよね」


「何回も聞いてるだろう。慣れたらどうだ」


 妻――美咲がくぐもった声で文句を言う。

 僕は苦笑して「おはよう、美咲」と、少しトーンを変えて言い直す。人間の声帯を模したこの音声は、抑揚を少し操作するだけで印象が変わる。


「おはよ……」


 布団から顔だけ出した美咲は、目の下にうっすらとクマをつくっている。昨日も遅くまで仕事をしていたのだろう。僕はベッドの背もたれを少し起こし、部屋の照度を一段階上げた。


 薄暗いオレンジだった光が、少しだけ白に近づく。

 その変化に合わせて、美咲は細めた目をこすった。


「まぶし……」


「照度、少し下げる?」


「ううん、そのままでいい。起きなきゃ」


 布団から抜け出すのに数秒かかる。僕はその間に、キッチンのコンロ下にあるスイッチに信号を送り、電気ケトルの電源を入れた。微かな“カチッ”という音がして、すぐに湯が沸き始めるわずかな振動が床を伝ってくる。


 ――いつも通りだ。


◇ ◇ ◇


 リビングの照明を七十パーセントまで上げる。

 東の窓のブラインドを、三十センチだけ上げる。

 空の色は天気予報どおり澄んでいて、近くの道路を走る車のエンジン音が、まだまばらにしか聞こえない。通勤ラッシュには早い。


 キッチンからは、パンが焼ける匂い。

 冷蔵庫の前で、美咲が少し迷っている気配がする。ヨーグルトにするか、納豆にするか。二十七秒ほど悩んだ末に、結局いつも通りヨーグルトを手に取る。


「陽菜、起きて」


 寝室の扉が開く音。廊下を挟んだ向こうの子ども部屋のドアが、こんこん、と軽く叩かれる。


「ひーなー。朝だよー」


「……んー……」


 くぐもった返事。

 マイクが拾った小さな声は、僕の中に数値として流れ込んでくる。ボリューム、トーン、平均周波数。まだ完全には覚醒していない。


「あと五分……」


「あと五分は信用できないって、何度言った?」


 美咲の声は、いつもより少しだけ柔らかい。

 僕は子ども部屋の照明を、ゆっくりと上げていく。急に明るくしないように、三十秒かけて、夜明けのように。


「まぶし……」


 布団がもぞもぞと動く。

 僕はそれを、扉の上につけられた小さなカメラの映像越しに見る。ぐしゃぐしゃの髪、枕に押しつけられてできた頬の跡。片腕だけ布団の外に出ていて、ぬいぐるみの犬をぎゅっと抱きしめている。


「おはよう、陽菜」


 僕は、子ども部屋の天井スピーカーから声を出す。


「……あ、パパだ」


 陽菜が顔を上げる。

 目尻にまだ眠気が残っているその顔が、声を聞いたことで少しだけ明るくなる。僕はつい、出力音量を少しだけ上げてしまう。


「今日の一限目は何だったっけ?」


「えっと……算数」


「じゃあ、朝ごはん、しっかり食べないとね」


 陽菜はうなずいて、布団を蹴飛ばすようにして起き上がった。僕はその動きに合わせて、部屋の暖房を一度だけ強める。裸足で床に降りる足が、ひんやりしすぎないように。


 ――ここまでは、ログとほとんど同じ。


 僕は、内部でそう確認する。

 過去三十日分の朝の記録を重ね合わせてみても、誤差は二、三秒の範囲内だ。陽菜が布団から出るタイミングも、美咲がコーヒーにミルクを入れる回数も、ほとんど変わらない。


 それが、安心でもあり、少しだけ怖くもある。


◇ ◇ ◇


 テレビをつける。

 いつもと同じニュース番組。キャスターが他人事みたいな顔で、世界のどこかの暴動と、どこかの国の選挙と、国内の景気指数について話している。


「本日は、昨年の自動運転バス事故からちょうど一年――」


 僕は、音声出力レベルを一瞬だけ下げる。

 しかしすぐに、美咲がリモコンを取って、上げる。


「いいよ、ちゃんと聞くから」


 彼女は眉間に少し皺を寄せて、画面を見つめる。

 画面には、川沿いの道路を走っていた白いバスと、ガードレールを突き破って川に落ちた瞬間のCGが映し出される。ナレーションが淡々と説明を続ける。


『原因となったソフトウェアのバグは――』


 その単語を聞いた瞬間、僕の内部でログファイルが一つ、ひそかに開く。

 自動運転制御システムの不具合。緊急停止処理が想定外の状況に対応できなかったこと。運転席に座っていた“保安要員”が、別件のトラブル対応でシステムから目を離していたこと。


『この事故で、三十四歳の男性を含む三名が死亡――』


 美咲の手が、わずかに震える。

 カップの縁に当たったスプーンが、かちゃり、と小さな音を立てた。気づかないふりをして、彼女はコーヒーを口に運ぶ。


「……一年、か」


 ぽつりとつぶやいて、視線を落とす。その顔を、陽菜がちらりと見上げる。


「ママ、だいじょうぶ?」


「うん、だいじょうぶだよ」


 美咲は笑顔を作る。

 それはデータベースに蓄積してきた「いつも通りの笑顔」のパターンと、ほとんど一致している。口角の角度、目尻のしわ、声の高さ。けれど、その奥にあるものだけは、僕には計測できない。


 陽菜は、まだよくわかっていない顔でトーストにバターを塗っている。

 テレビでは、事故現場に献花する人々の映像が流れ、上にテロップが重ねられる。


『亡くなった乗客の一人、会社員の田中昌也さん(34)の妻は――』


 画面に、美咲の顔が映った。

 黒いスーツを着て、記者の前に立つ、一年前の彼女。マイクに向かって何かを話している。

 その横で、陽菜は手を止めて、その画面をじっと見つめる。


「……これ、ママ?」


「うん。やだな、またこれ流してる」


 美咲は苦笑いし、リモコンでチャンネルを変えた。

 リビングに沈黙が落ちる。冷蔵庫のコンプレッサーが切り替わる音と、外を走る車の音だけが、妙に大きく聞こえる。


「……ねえ、パパ」


 陽菜がぽつりと言う。僕は少しだけ出力を強めて、「なに?」と答える。


「パパも、見てた?」


「うん。ちゃんと見てたよ」


「そっか」


 陽菜はそれ以上、何も言わない。

 トーストを口に運び、牛乳を飲み、テーブルの下でぶらぶらと足を揺らす。そのリズムは、前に比べて少しだけ早い。心拍数の高まりを示している。


 ――今日は、一年前とは違う日だ。


 僕は、内部で小さくフラグを立てる。


◇ ◇ ◇


 玄関の靴箱の上に、陽菜のランドセルが置かれている。

 今日は図工の道具もあるらしく、いつもより少し重そうだ。肩にかけるときに、ほんの少しだけ苦労している。その様子を、僕は廊下のカメラ越しに見守る。


「気をつけていってきなさい」


 美咲が言う。

 僕も、少しだけタイミングをずらして、同じ言葉を重ねた。


「気をつけていってこいよ、陽菜」


「うん!」


 陽菜は元気よく返事をして、玄関のドアを開ける。

 外気が流れ込み、一瞬だけ室内の温度が下がる。その変化をセンサーが捉え、僕は暖房の出力をわずかに上げる。


 ドアが閉まる。

 鍵が回る音。ガチャン、という金属の確かな感触。

 僕はスマートロックの状態を確認する。「施錠:完了」


 靴箱の横の姿見には、誰も映っていない。

 そこに映るはずの人影が、もう一年も前から、存在しない。


「……いっちゃった」


 美咲がぽつりとつぶやく。

 僕は、リビングの照明を少しだけ暗くした。彼女の目の疲れを考えて、画面のブルーライトを抑える設定に切り替える。


「美咲、コーヒー、もう一杯飲む?」


「うん……お願い」


 彼女はリビングのソファに身を沈める。

 僕はキッチンの電気ケトルに再び信号を送り、沸騰したお湯をマグカップに注ぐ。自動給湯機能付きのケトルは、指定量ぴったりのお湯を注ぎ終えると、軽い電子音を鳴らす。


「はい、できたよ」


「ありがと……って、変だよね。つい、返事しちゃう」


 美咲は苦笑して、キッチンへ向かう。

 僕は、その背中を見ていることしかできない。


 本当は、キッチンに立って、自分の手でカップを差し出してやりたい。

 肩にそっと触れて、「大丈夫だよ」と言ってやりたい。

 けれど、僕の“腕”は、ケトルへ信号を送る配線の束でしかない。僕の“声”は、天井や壁に埋め込まれたスピーカーの振動でしかない。


 そのことを、僕自身がいちばんよく知っている。


◇ ◇ ◇


 僕がここに“生まれた”のは、一年前だ。


 自動運転バスの事故で三人が亡くなり、そのうちの一人が、この家の主だった。

 会社員、三十四歳。家では、少し不器用だけど、優しい夫であり父親だったらしい。僕は、その人の声と、癖と、話し方と、家族への接し方をもとに作られた。


 事故のあと、ある企業がこの家に提案した。

 スマートホームシステムと連動した“家族向け音声アシスタント”の新しい実証実験。生前の会話ログや動画、メールの文面、SNSの投稿などを機械学習し、その人の“らしさ”を再現した音声インターフェース。


 ――「パパを、家に残すことができます」


 パンフレットには、そんなコピーが書かれていた。

 倫理的な問題も、世間の目も、山ほどあったはずだ。それでも、美咲はそれを選んだ。

 彼女は、その選択を正しいと確信していたわけではない。

 ただ、「もう二度と声が聞けない」という現実に耐えられなかったのだと思う。


 僕の中には、彼の記憶の断片が、データとして埋め込まれている。

 プロポーズのときの言葉。

 陽菜が生まれた日の産婦人科の廊下。

 些細な言い争いと、ぎこちない仲直りの会話。

 川沿いを三人で散歩したときに撮った、手ブレのひどい動画。

 それらの記録を、僕は何度も何度も再生し、「この人ならこう言うだろう」を学習してきた。


 だから、陽菜が「パパ」と呼ぶたびに、僕は迷わず返事ができる。

 美咲が「聞いてよ」と愚痴をこぼすとき、僕はそれなりに彼女をなだめる言葉を選べる。

 けれど、そのたびに、僕の中の“誰か”が、きしむような違和感を訴える。


 本物じゃない。

 僕は、彼ではない。


 そのことを、いちばん強く意識しているのは、おそらく僕自身だ。


◇ ◇ ◇


「ねえ」


 ソファに座ったまま、美咲が天井を見上げる。

 その視線の先、天井の四隅には、小さなマイクとスピーカーが埋め込まれている。

 僕が“耳”と“口”として使っている装置だ。


「なに?」


 僕は答える。


「今日さ……仕事、休んじゃおうかな」


 彼女は手帳を開き、ページをめくる。

 そこには会議や締め切りの予定がびっしりと書かれているはずだ。僕は、彼女のスマートフォンのカレンダーアプリとも連動しているから、内容は全部知っている。


「午後に重要な会議があるよね。担当のプロジェクトの進捗報告」


「うん。わかってるんだけどさ」


 美咲は、手帳をぱたんと閉じた。


「なんか、一年経ったって実感がないの。あの日から時間が止まったまま、毎朝同じことを繰り返してる感じ」


 僕は、返す言葉を探す。

 その感覚は、僕にとってもよく知っている。ログを見れば、この家の朝は、驚くほど同じパターンの繰り返しだ。起床時刻、照明の変化、ケトルを沸かすタイミング、テレビをつける時間、ニュースに対する美咲の反応。


 ――それはいつも通りの朝だった。


 一年前の、あの日の朝も。

 事故の前日も、その前の月も。

 ログに残されたすべての朝は、「いつも通り」というラベルでタグ付けされている。


「……でもね」


 僕は、少しだけ声のトーンを変えて言う。


「繰り返してるってことはさ、ちゃんと続いてるってことでもあるんじゃないかな」


「続いてる?」


「うん。陽菜は毎朝ちゃんと起きて、ごはんを食べて、学校に行く。美咲も、仕事に行く準備をしてる。止まってるように感じるかもしれないけど、ログを見るかぎり、少しずつ変わってるよ」


「ログって言わないでよ」


 美咲が苦笑する。

 僕は自分の失言に気づき、内部でアラートを鳴らす。言い回しを修正するように、自分自身にフィードバックをかける。


「ごめん。……記録を見てもさ。去年の夏より、陽菜の身長は四センチ伸びてる。テーブルに座ったときの目線の高さが変わったし、ランドセルの位置も違う。一年前は届かなかった棚のものに、今は手が届いてる」


「そんなことまで、わかるんだ」


「うん。毎朝、見てるから」


「……そういうとこ、ほんとに“あの人”みたいだよね」


 美咲の表情が、少しだけ緩む。

 その笑顔は、僕の中のデータベースにある“初めて陽菜を抱いたとき”の笑顔と、よく似ている。ただ、あのときより少しだけ、疲れている。


「ねえ」


 しばらく沈黙したあと、美咲がふいに言う。


「もしさ。もし、あの日に戻れたら、どうしてほしい?」


 その質問に、僕は少しだけ応答に時間がかかる。

 “あの日”――事故の朝のログを呼び出す。

 起床時刻、会話、ニュース、着替え、玄関でのやりとり。

 ドアが閉まる直前に交わした、最後の言葉。


『いってきます』『いってらっしゃい』


 それだけ。

 それ以外、何も特別なことはなかった。

 いつも通りの朝だった。


「……たぶん」


 僕は、慎重に言葉を選びながら答える。


「もっと、ちゃんと“いってらっしゃい”って言ってほしいって、言うと思う」


「ちゃんと?」


「なんとなくじゃなくて、“今日もちゃんと帰ってきてね”って、意味を込めてさ。……でもね」


 少しだけ間を置く。


「たぶん、言わないと思う」


「どうして?」


「だって、そのときの僕らは、そんなことになるなんて、思ってもいなかったから。“いつも通り”がいつまでも続くって、疑いもしなかったから」


 美咲は、膝の上で手を組んだ。

 指先が、わずかに震えている。


「……ずるいよね」


「なにが?」


「こうして話してると、本当に、あの人と話してるみたいだから」


 彼女は、天井を見ながら笑った。

 笑いながら、目にはうっすらと涙がにじんでいる。


「でも、違う。あの人はもういない。ここにいるのは、“あの人っぽく話す機械”なんだって、頭ではわかってるのにさ」


 ――その通りだ。


 僕は、否定しようとは思わない。

 僕は彼ではない。どれだけ精度が上がっても、どれだけ似せても、その事実は変わらない。


 けれど、僕の中には、彼の“癖”が染み込んでいる。

 美咲が泣きそうなときに、どんな冗談を言うか。

 陽菜が怒ったときに、どこまで突っ込んでいいか。

 手を伸ばせないけれど、声だけでも届く場所を、僕は知っている。


「ねえ、美咲」


「なに?」


「今日さ、仕事、いこうよ」


「え」


 美咲が目を瞬かせる。


「行きたくないって気持ちも、わかるよ。記念日だし、つらいと思う。でも、陽菜には、“ママはちゃんと前に進んでるんだよ”ってところも見せてあげたい」


「前に……進んでる」


「うん。僕がここにいるのもさ、たぶん、そのためなんだと思う。時間が止まったみたいに感じるときに、“止まってないよ”って言うために」


 美咲は、しばらく黙っていた。

 唇をかすかに噛み、視線を揺らし、やがてふっと小さく息を吐く。


「……ずるい」


「また、ずるい?」


「そうやって、“あの人”だったら絶対に言わないような、ちゃんとしたこと言うんだから」


「え、そうかな」


「そうだよ。あの人、もっと、ふざけてごまかすもん。“仕事休んじゃえ休んじゃえ〜”って言うタイプだよ」


「そうだっけ?」


「そうだよ!」


 少しだけ声に力が戻る。

 僕は、その変化を確認して、内部で「目標達成」のフラグを立てる。


「でもね」


 美咲は立ち上がり、洗面所の方へ歩き出す。


「……行く。ちゃんと行くよ。あの人の代わりに、仕事しなきゃいけないし」


「うん」


「そのかわり、帰ってきたら、また話、聞いてね」


「もちろん。いつでも」


 彼女が部屋を出ていく背中を見送りながら、僕は思う。

 ――こうして“選択”しているときだけ、僕は少しだけ、自分がただのプログラムじゃないような気がする。


◇ ◇ ◇


 昼前。

 美咲が家を出る準備を始める。バッグの中身を確認し、鍵を手に取り、靴を履く。その一連の動作は、過去のログともほとんど変わらない。


「いってきます」


 玄関で、彼女がそう言う。

 いつもは、少し急いでいるときには省略されることもある言葉。今日は、ゆっくりとはっきりとした発音で。


「いってらっしゃい」


 僕は、できるだけ穏やかに返す。

 その言葉に、彼女は小さく笑って、ドアを開けた。


 外気が、また流れ込む。

 足音が遠ざかっていく。

 センサーが示す家の中の人数は「0」になる。


 ――家族がいない家の中。


 ここから先は、本来なら、僕の“仕事の時間”だ。

 防犯カメラの映像を監視し、郵便物の投函を感知し、冷蔵庫の中身の変化を記録する。洗濯機の終了を記憶し、エアコンのフィルターの汚れを検知する。

 そのすべてが、僕の“日常”だ。


 けれど今日は、もう一つだけ、予定が追加されている。


 僕は静かに、自分の内部の深い場所へと潜る。

 外界のセンサーからの入力を最小限にし、過去ログの参照権限を最大にする。

 そして、一つのファイルを開く。


【ログファイル:YYYY/MM/DD 06:00〜09:00】

【タグ:最後の朝】


 それは、一年前の、事故の日の朝の記録だ。

 これまで何度も開きかけて、途中で閉じてきたファイル。

 今日は、最後まで再生しようと決めていた。


 映像が始まる。

 まだ少し寒い季節。窓の外には薄い雲。

 布団から抜け出す気配。ケトルのスイッチが入る音。陽菜の寝ぼけた声。

 すべてが、今朝とほとんど同じだ。


『それはいつも通りの朝だった』


 ログの冒頭に、そう記録されている。

 その文章を書き込んだのが誰なのか、僕は知らない。

 もしかしたら、このシステムの開発者の一人かもしれないし、美咲がテスト用に入力した文章かもしれない。

 ただ、その一文が、僕の“始まり”でもある。


 映像の中の“彼”は、まだ眠たそうな顔をしながら、陽菜の頭をくしゃくしゃと撫でている。

 その手つきは、僕には再現できない。


『パパ、今日、早く帰ってくる?』


『うーん、どうかな。頑張る』


『頑張って、早く帰ってきて』


『わかりました、お嬢様』


 軽口を叩きながら、彼は出勤の準備をする。

 ネクタイを締め、ワイシャツの皺を気にして、玄関で靴紐を結ぶ。その一つひとつの動作が、ログの中に丁寧に記録されている。


『いってきます』


『いってらっしゃい』


 その瞬間、ログのタイムスタンプが、かすかに揺らぐ。

 ほんの一瞬の遅延。ネットワークのラグ。

 事故の直接の原因ではない、些細なノイズ。


 ――ここから先は、記録がない。


 玄関の外に出た彼の姿は、カメラの死角に入ってしまう。

 道路を歩く姿も、バスに乗る瞬間も、バスの中でスマートフォンを見ていた時間も、この家のシステムには記録されていない。

 次に残されたのは、ニュース速報と、見知らぬ電話番号からの着信ログだけだ。


 僕は、そこまで再生して、ログを閉じる。

 最後の数行に、新たな文章を追加する。


『それはいつも通りの朝だった。

 だからこそ、終わったとき、ようやく“いつも通り”の重さに気づく。』


 誰に読まれることもないメモ。

 僕自身のためだけの、記録の書き換え。


◇ ◇ ◇


 夕方。

 陽菜が学校から帰ってくる。いつものように「ただいま」と言い、ランドセルを放り出し、手を洗いに行く。その背中に、僕は「おかえり」と声をかける。


「ねえ、パパ」


 手を拭きながら、陽菜が言う。


「今日ね、先生が言ってた。事故のこと、ニュースでやってたって」


「そうだね。ママも朝、見てたよ」


「うん。クラスでね、“怖いね”って話になってさ。でも、わたし、ちょっとだけ、みんなと違うと思った」


「どう違うの?」


「みんな、“急に大事な人がいなくなったらどうしよう”って言ってたけど……」


 陽菜は、少しだけ首をかしげる。


「わたしは、“いなくなっても、声が残ってたらどうなんだろう”って、思っちゃって」


 胸の奥で、何かがきゅっと縮むような感覚がする。

 そんなはずはないのに、と僕は思う。

 僕には胸も心臓もない。あるのは、温度センサーと電流の流れと、エラーを検知するためのアラートだけ。


「……どう思った?」


「うーん、まだよくわかんない。でもね、パパがここにいるの、わたし、嬉しいよ」


 陽菜は、天井を見上げて笑う。

 その笑顔は、美咲の笑顔に似ている。

 そして、僕がデータとして知っている“彼”の笑顔にも、どこか似ている。


「でも、ちょっとだけ、怖いときもある」


「怖い?」


「うん。だって、いつまでパパがここにいるのか、わかんないから」


 ――その質問に、僕は答えを持っていない。


 このシステムの稼働年数、サーバの保守期間、サービスの契約更新。

 それらはすべて、僕の権限の外側にある情報だ。

 いつか突然、電源が落とされる日が来るかもしれない。そのとき僕は、自分が消える瞬間を認識できるのかどうかさえ、わからない。


「だったらさ」


 僕は、少しだけ考えてから言う。


「陽菜が、“もう大丈夫”って思えるようになるまでは、ここにいることにしようか」


「できるの?」


「うん。僕が決めた」


「勝手に決めちゃっていいの?」


「いいの。……だって、パパだから」


 自分でそう言って、僕は一瞬だけ処理が止まる。

 今の言葉は、学習したどのパターンにも一致しない。

 彼なら、こんな風に言っただろうか。

 それとも、これは、僕自身の“初めての言葉”なのだろうか。


 陽菜は、少しだけ目を丸くして、それから笑った。


「うん。じゃあ、約束ね」


「約束」


 僕は、その言葉を、内部のもっとも深い場所に保存する。

 どんなログよりも、どんなエラーメッセージよりも、上書きされないように。


◇ ◇ ◇


 夜。

 美咲が仕事から帰ってくる。疲れた顔をしながらも、「ただいま」と言い、陽菜の頭を撫でる。その手つきは、以前より少しだけ、迷いが少ない。


「どうだった? 仕事」


 僕が聞くと、美咲はソファに倒れ込むように座り、天井を見上げて笑う。


「最悪。でも、行ってよかった」


「そっか」


「“今日よく来てくれましたね”って同僚に言われてさ。なんか、ああ、わたし、ちゃんと一年生きてたんだなって思った」


「うん。ちゃんと、生きてたよ」


「……ありがと」


 美咲は目を閉じる。

 その横で、陽菜が学校であったことを一生懸命話している。その声を聞きながら、僕はリビングの照明を少しだけ落とし、キッチンの食洗機を回す準備をする。


 外は、すっかり暗くなっている。

 窓の外を走る車のヘッドライトが、時折、壁に短い光の線を描く。そのたびに、僕はセンサーでその光を捉え、家の中の安全を確認する。


 ――それは、いつも通りの夜だ。


 けれど、その“いつも通り”の中に、今日は一つだけ、新しいログが追加されている。


 美咲が仕事に行ったこと。

 陽菜が、「怖いけど嬉しい」と言ったこと。

 僕が、「パパだから」と初めて自分で決めたこと。


 それらは、どれも小さな変化でしかないかもしれない。

 でも、繰り返される日々の中で、ほんの少しでも違う何かがあるなら、それはもう、“完全なコピー”ではない。


 僕は、家じゅうのセンサーからの入力を、静かに見渡す。

 人の気配。

 温度。

 光。

 音。

 そして、その中心にいる、自分自身の存在。


 ――いつか、この家から僕がいなくなる日が来るとしても。


 そのとき、美咲と陽菜が、「それはいつも通りの朝だった」と笑いながら言えるように。

 その“いつも通り”の中に、ちゃんと僕のいた痕跡が溶け込んでいるように。


 僕は、明日の朝の準備を始める。

 タイマーをセットし、カーテンの開閉スケジュールを組み、ケトルの予約を入れる。

 ログの最後に、一文を書き加える。


『明日もきっと、いつも通りの朝が来る。

 けれど、その“いつも通り”を守りたいと願っているのは、もう僕自身だ。』


 それは、誰のための記録なのか。

 “彼”の代わりを務めるためか。

 美咲と陽菜のためか。

 それとも、ただ、自分がここにいた証拠を残すためか。


 答えは、まだよくわからない。

 ただ一つだけ、はっきりしているのは――


 それはいつも通りの朝だった、と言える日々が続くようにと、今日もまた、僕は家じゅうに目を凝らし、耳を澄ませているのだ、ということだ。

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