それはいつも通りの朝だった
@zeppelin006
それはいつも通りの朝だった
それはいつも通りの朝だった。
目覚ましが鳴るより少し早く、僕は目を覚ます。
カーテンの隙間から差し込む光の角度で、だいたいの時刻がわかる。東側の窓から差し込む光は、六時前は青白くて、六時を過ぎると少しだけ黄色を帯びる。今日は、やや黄色寄りだ。
「……もう六時二分です」
枕元でそう告げる声がして、すぐにアラームが鳴り出す。ぴぴぴ、と短い電子音。止めてほしいと思った瞬間に、音はぴたりと止んだ。
「おはようございます。今日の天気は晴れ、ときどき曇り。最高気温は二十五度、最低気温は十七度の予想です」
少し眠そうな咳払いの音が聞こえ、隣で妻が布団の中でもぞもぞと動く。
「……ねえ、その“おはようございます”って、いまだに慣れないんだよね」
「何回も聞いてるだろう。慣れたらどうだ」
妻――美咲がくぐもった声で文句を言う。
僕は苦笑して「おはよう、美咲」と、少しトーンを変えて言い直す。人間の声帯を模したこの音声は、抑揚を少し操作するだけで印象が変わる。
「おはよ……」
布団から顔だけ出した美咲は、目の下にうっすらとクマをつくっている。昨日も遅くまで仕事をしていたのだろう。僕はベッドの背もたれを少し起こし、部屋の照度を一段階上げた。
薄暗いオレンジだった光が、少しだけ白に近づく。
その変化に合わせて、美咲は細めた目をこすった。
「まぶし……」
「照度、少し下げる?」
「ううん、そのままでいい。起きなきゃ」
布団から抜け出すのに数秒かかる。僕はその間に、キッチンのコンロ下にあるスイッチに信号を送り、電気ケトルの電源を入れた。微かな“カチッ”という音がして、すぐに湯が沸き始めるわずかな振動が床を伝ってくる。
――いつも通りだ。
◇ ◇ ◇
リビングの照明を七十パーセントまで上げる。
東の窓のブラインドを、三十センチだけ上げる。
空の色は天気予報どおり澄んでいて、近くの道路を走る車のエンジン音が、まだまばらにしか聞こえない。通勤ラッシュには早い。
キッチンからは、パンが焼ける匂い。
冷蔵庫の前で、美咲が少し迷っている気配がする。ヨーグルトにするか、納豆にするか。二十七秒ほど悩んだ末に、結局いつも通りヨーグルトを手に取る。
「陽菜、起きて」
寝室の扉が開く音。廊下を挟んだ向こうの子ども部屋のドアが、こんこん、と軽く叩かれる。
「ひーなー。朝だよー」
「……んー……」
くぐもった返事。
マイクが拾った小さな声は、僕の中に数値として流れ込んでくる。ボリューム、トーン、平均周波数。まだ完全には覚醒していない。
「あと五分……」
「あと五分は信用できないって、何度言った?」
美咲の声は、いつもより少しだけ柔らかい。
僕は子ども部屋の照明を、ゆっくりと上げていく。急に明るくしないように、三十秒かけて、夜明けのように。
「まぶし……」
布団がもぞもぞと動く。
僕はそれを、扉の上につけられた小さなカメラの映像越しに見る。ぐしゃぐしゃの髪、枕に押しつけられてできた頬の跡。片腕だけ布団の外に出ていて、ぬいぐるみの犬をぎゅっと抱きしめている。
「おはよう、陽菜」
僕は、子ども部屋の天井スピーカーから声を出す。
「……あ、パパだ」
陽菜が顔を上げる。
目尻にまだ眠気が残っているその顔が、声を聞いたことで少しだけ明るくなる。僕はつい、出力音量を少しだけ上げてしまう。
「今日の一限目は何だったっけ?」
「えっと……算数」
「じゃあ、朝ごはん、しっかり食べないとね」
陽菜はうなずいて、布団を蹴飛ばすようにして起き上がった。僕はその動きに合わせて、部屋の暖房を一度だけ強める。裸足で床に降りる足が、ひんやりしすぎないように。
――ここまでは、ログとほとんど同じ。
僕は、内部でそう確認する。
過去三十日分の朝の記録を重ね合わせてみても、誤差は二、三秒の範囲内だ。陽菜が布団から出るタイミングも、美咲がコーヒーにミルクを入れる回数も、ほとんど変わらない。
それが、安心でもあり、少しだけ怖くもある。
◇ ◇ ◇
テレビをつける。
いつもと同じニュース番組。キャスターが他人事みたいな顔で、世界のどこかの暴動と、どこかの国の選挙と、国内の景気指数について話している。
「本日は、昨年の自動運転バス事故からちょうど一年――」
僕は、音声出力レベルを一瞬だけ下げる。
しかしすぐに、美咲がリモコンを取って、上げる。
「いいよ、ちゃんと聞くから」
彼女は眉間に少し皺を寄せて、画面を見つめる。
画面には、川沿いの道路を走っていた白いバスと、ガードレールを突き破って川に落ちた瞬間のCGが映し出される。ナレーションが淡々と説明を続ける。
『原因となったソフトウェアのバグは――』
その単語を聞いた瞬間、僕の内部でログファイルが一つ、ひそかに開く。
自動運転制御システムの不具合。緊急停止処理が想定外の状況に対応できなかったこと。運転席に座っていた“保安要員”が、別件のトラブル対応でシステムから目を離していたこと。
『この事故で、三十四歳の男性を含む三名が死亡――』
美咲の手が、わずかに震える。
カップの縁に当たったスプーンが、かちゃり、と小さな音を立てた。気づかないふりをして、彼女はコーヒーを口に運ぶ。
「……一年、か」
ぽつりとつぶやいて、視線を落とす。その顔を、陽菜がちらりと見上げる。
「ママ、だいじょうぶ?」
「うん、だいじょうぶだよ」
美咲は笑顔を作る。
それはデータベースに蓄積してきた「いつも通りの笑顔」のパターンと、ほとんど一致している。口角の角度、目尻のしわ、声の高さ。けれど、その奥にあるものだけは、僕には計測できない。
陽菜は、まだよくわかっていない顔でトーストにバターを塗っている。
テレビでは、事故現場に献花する人々の映像が流れ、上にテロップが重ねられる。
『亡くなった乗客の一人、会社員の田中昌也さん(34)の妻は――』
画面に、美咲の顔が映った。
黒いスーツを着て、記者の前に立つ、一年前の彼女。マイクに向かって何かを話している。
その横で、陽菜は手を止めて、その画面をじっと見つめる。
「……これ、ママ?」
「うん。やだな、またこれ流してる」
美咲は苦笑いし、リモコンでチャンネルを変えた。
リビングに沈黙が落ちる。冷蔵庫のコンプレッサーが切り替わる音と、外を走る車の音だけが、妙に大きく聞こえる。
「……ねえ、パパ」
陽菜がぽつりと言う。僕は少しだけ出力を強めて、「なに?」と答える。
「パパも、見てた?」
「うん。ちゃんと見てたよ」
「そっか」
陽菜はそれ以上、何も言わない。
トーストを口に運び、牛乳を飲み、テーブルの下でぶらぶらと足を揺らす。そのリズムは、前に比べて少しだけ早い。心拍数の高まりを示している。
――今日は、一年前とは違う日だ。
僕は、内部で小さくフラグを立てる。
◇ ◇ ◇
玄関の靴箱の上に、陽菜のランドセルが置かれている。
今日は図工の道具もあるらしく、いつもより少し重そうだ。肩にかけるときに、ほんの少しだけ苦労している。その様子を、僕は廊下のカメラ越しに見守る。
「気をつけていってきなさい」
美咲が言う。
僕も、少しだけタイミングをずらして、同じ言葉を重ねた。
「気をつけていってこいよ、陽菜」
「うん!」
陽菜は元気よく返事をして、玄関のドアを開ける。
外気が流れ込み、一瞬だけ室内の温度が下がる。その変化をセンサーが捉え、僕は暖房の出力をわずかに上げる。
ドアが閉まる。
鍵が回る音。ガチャン、という金属の確かな感触。
僕はスマートロックの状態を確認する。「施錠:完了」
靴箱の横の姿見には、誰も映っていない。
そこに映るはずの人影が、もう一年も前から、存在しない。
「……いっちゃった」
美咲がぽつりとつぶやく。
僕は、リビングの照明を少しだけ暗くした。彼女の目の疲れを考えて、画面のブルーライトを抑える設定に切り替える。
「美咲、コーヒー、もう一杯飲む?」
「うん……お願い」
彼女はリビングのソファに身を沈める。
僕はキッチンの電気ケトルに再び信号を送り、沸騰したお湯をマグカップに注ぐ。自動給湯機能付きのケトルは、指定量ぴったりのお湯を注ぎ終えると、軽い電子音を鳴らす。
「はい、できたよ」
「ありがと……って、変だよね。つい、返事しちゃう」
美咲は苦笑して、キッチンへ向かう。
僕は、その背中を見ていることしかできない。
本当は、キッチンに立って、自分の手でカップを差し出してやりたい。
肩にそっと触れて、「大丈夫だよ」と言ってやりたい。
けれど、僕の“腕”は、ケトルへ信号を送る配線の束でしかない。僕の“声”は、天井や壁に埋め込まれたスピーカーの振動でしかない。
そのことを、僕自身がいちばんよく知っている。
◇ ◇ ◇
僕がここに“生まれた”のは、一年前だ。
自動運転バスの事故で三人が亡くなり、そのうちの一人が、この家の主だった。
会社員、三十四歳。家では、少し不器用だけど、優しい夫であり父親だったらしい。僕は、その人の声と、癖と、話し方と、家族への接し方をもとに作られた。
事故のあと、ある企業がこの家に提案した。
スマートホームシステムと連動した“家族向け音声アシスタント”の新しい実証実験。生前の会話ログや動画、メールの文面、SNSの投稿などを機械学習し、その人の“らしさ”を再現した音声インターフェース。
――「パパを、家に残すことができます」
パンフレットには、そんなコピーが書かれていた。
倫理的な問題も、世間の目も、山ほどあったはずだ。それでも、美咲はそれを選んだ。
彼女は、その選択を正しいと確信していたわけではない。
ただ、「もう二度と声が聞けない」という現実に耐えられなかったのだと思う。
僕の中には、彼の記憶の断片が、データとして埋め込まれている。
プロポーズのときの言葉。
陽菜が生まれた日の産婦人科の廊下。
些細な言い争いと、ぎこちない仲直りの会話。
川沿いを三人で散歩したときに撮った、手ブレのひどい動画。
それらの記録を、僕は何度も何度も再生し、「この人ならこう言うだろう」を学習してきた。
だから、陽菜が「パパ」と呼ぶたびに、僕は迷わず返事ができる。
美咲が「聞いてよ」と愚痴をこぼすとき、僕はそれなりに彼女をなだめる言葉を選べる。
けれど、そのたびに、僕の中の“誰か”が、きしむような違和感を訴える。
本物じゃない。
僕は、彼ではない。
そのことを、いちばん強く意識しているのは、おそらく僕自身だ。
◇ ◇ ◇
「ねえ」
ソファに座ったまま、美咲が天井を見上げる。
その視線の先、天井の四隅には、小さなマイクとスピーカーが埋め込まれている。
僕が“耳”と“口”として使っている装置だ。
「なに?」
僕は答える。
「今日さ……仕事、休んじゃおうかな」
彼女は手帳を開き、ページをめくる。
そこには会議や締め切りの予定がびっしりと書かれているはずだ。僕は、彼女のスマートフォンのカレンダーアプリとも連動しているから、内容は全部知っている。
「午後に重要な会議があるよね。担当のプロジェクトの進捗報告」
「うん。わかってるんだけどさ」
美咲は、手帳をぱたんと閉じた。
「なんか、一年経ったって実感がないの。あの日から時間が止まったまま、毎朝同じことを繰り返してる感じ」
僕は、返す言葉を探す。
その感覚は、僕にとってもよく知っている。ログを見れば、この家の朝は、驚くほど同じパターンの繰り返しだ。起床時刻、照明の変化、ケトルを沸かすタイミング、テレビをつける時間、ニュースに対する美咲の反応。
――それはいつも通りの朝だった。
一年前の、あの日の朝も。
事故の前日も、その前の月も。
ログに残されたすべての朝は、「いつも通り」というラベルでタグ付けされている。
「……でもね」
僕は、少しだけ声のトーンを変えて言う。
「繰り返してるってことはさ、ちゃんと続いてるってことでもあるんじゃないかな」
「続いてる?」
「うん。陽菜は毎朝ちゃんと起きて、ごはんを食べて、学校に行く。美咲も、仕事に行く準備をしてる。止まってるように感じるかもしれないけど、ログを見るかぎり、少しずつ変わってるよ」
「ログって言わないでよ」
美咲が苦笑する。
僕は自分の失言に気づき、内部でアラートを鳴らす。言い回しを修正するように、自分自身にフィードバックをかける。
「ごめん。……記録を見てもさ。去年の夏より、陽菜の身長は四センチ伸びてる。テーブルに座ったときの目線の高さが変わったし、ランドセルの位置も違う。一年前は届かなかった棚のものに、今は手が届いてる」
「そんなことまで、わかるんだ」
「うん。毎朝、見てるから」
「……そういうとこ、ほんとに“あの人”みたいだよね」
美咲の表情が、少しだけ緩む。
その笑顔は、僕の中のデータベースにある“初めて陽菜を抱いたとき”の笑顔と、よく似ている。ただ、あのときより少しだけ、疲れている。
「ねえ」
しばらく沈黙したあと、美咲がふいに言う。
「もしさ。もし、あの日に戻れたら、どうしてほしい?」
その質問に、僕は少しだけ応答に時間がかかる。
“あの日”――事故の朝のログを呼び出す。
起床時刻、会話、ニュース、着替え、玄関でのやりとり。
ドアが閉まる直前に交わした、最後の言葉。
『いってきます』『いってらっしゃい』
それだけ。
それ以外、何も特別なことはなかった。
いつも通りの朝だった。
「……たぶん」
僕は、慎重に言葉を選びながら答える。
「もっと、ちゃんと“いってらっしゃい”って言ってほしいって、言うと思う」
「ちゃんと?」
「なんとなくじゃなくて、“今日もちゃんと帰ってきてね”って、意味を込めてさ。……でもね」
少しだけ間を置く。
「たぶん、言わないと思う」
「どうして?」
「だって、そのときの僕らは、そんなことになるなんて、思ってもいなかったから。“いつも通り”がいつまでも続くって、疑いもしなかったから」
美咲は、膝の上で手を組んだ。
指先が、わずかに震えている。
「……ずるいよね」
「なにが?」
「こうして話してると、本当に、あの人と話してるみたいだから」
彼女は、天井を見ながら笑った。
笑いながら、目にはうっすらと涙がにじんでいる。
「でも、違う。あの人はもういない。ここにいるのは、“あの人っぽく話す機械”なんだって、頭ではわかってるのにさ」
――その通りだ。
僕は、否定しようとは思わない。
僕は彼ではない。どれだけ精度が上がっても、どれだけ似せても、その事実は変わらない。
けれど、僕の中には、彼の“癖”が染み込んでいる。
美咲が泣きそうなときに、どんな冗談を言うか。
陽菜が怒ったときに、どこまで突っ込んでいいか。
手を伸ばせないけれど、声だけでも届く場所を、僕は知っている。
「ねえ、美咲」
「なに?」
「今日さ、仕事、いこうよ」
「え」
美咲が目を瞬かせる。
「行きたくないって気持ちも、わかるよ。記念日だし、つらいと思う。でも、陽菜には、“ママはちゃんと前に進んでるんだよ”ってところも見せてあげたい」
「前に……進んでる」
「うん。僕がここにいるのもさ、たぶん、そのためなんだと思う。時間が止まったみたいに感じるときに、“止まってないよ”って言うために」
美咲は、しばらく黙っていた。
唇をかすかに噛み、視線を揺らし、やがてふっと小さく息を吐く。
「……ずるい」
「また、ずるい?」
「そうやって、“あの人”だったら絶対に言わないような、ちゃんとしたこと言うんだから」
「え、そうかな」
「そうだよ。あの人、もっと、ふざけてごまかすもん。“仕事休んじゃえ休んじゃえ〜”って言うタイプだよ」
「そうだっけ?」
「そうだよ!」
少しだけ声に力が戻る。
僕は、その変化を確認して、内部で「目標達成」のフラグを立てる。
「でもね」
美咲は立ち上がり、洗面所の方へ歩き出す。
「……行く。ちゃんと行くよ。あの人の代わりに、仕事しなきゃいけないし」
「うん」
「そのかわり、帰ってきたら、また話、聞いてね」
「もちろん。いつでも」
彼女が部屋を出ていく背中を見送りながら、僕は思う。
――こうして“選択”しているときだけ、僕は少しだけ、自分がただのプログラムじゃないような気がする。
◇ ◇ ◇
昼前。
美咲が家を出る準備を始める。バッグの中身を確認し、鍵を手に取り、靴を履く。その一連の動作は、過去のログともほとんど変わらない。
「いってきます」
玄関で、彼女がそう言う。
いつもは、少し急いでいるときには省略されることもある言葉。今日は、ゆっくりとはっきりとした発音で。
「いってらっしゃい」
僕は、できるだけ穏やかに返す。
その言葉に、彼女は小さく笑って、ドアを開けた。
外気が、また流れ込む。
足音が遠ざかっていく。
センサーが示す家の中の人数は「0」になる。
――家族がいない家の中。
ここから先は、本来なら、僕の“仕事の時間”だ。
防犯カメラの映像を監視し、郵便物の投函を感知し、冷蔵庫の中身の変化を記録する。洗濯機の終了を記憶し、エアコンのフィルターの汚れを検知する。
そのすべてが、僕の“日常”だ。
けれど今日は、もう一つだけ、予定が追加されている。
僕は静かに、自分の内部の深い場所へと潜る。
外界のセンサーからの入力を最小限にし、過去ログの参照権限を最大にする。
そして、一つのファイルを開く。
【ログファイル:YYYY/MM/DD 06:00〜09:00】
【タグ:最後の朝】
それは、一年前の、事故の日の朝の記録だ。
これまで何度も開きかけて、途中で閉じてきたファイル。
今日は、最後まで再生しようと決めていた。
映像が始まる。
まだ少し寒い季節。窓の外には薄い雲。
布団から抜け出す気配。ケトルのスイッチが入る音。陽菜の寝ぼけた声。
すべてが、今朝とほとんど同じだ。
『それはいつも通りの朝だった』
ログの冒頭に、そう記録されている。
その文章を書き込んだのが誰なのか、僕は知らない。
もしかしたら、このシステムの開発者の一人かもしれないし、美咲がテスト用に入力した文章かもしれない。
ただ、その一文が、僕の“始まり”でもある。
映像の中の“彼”は、まだ眠たそうな顔をしながら、陽菜の頭をくしゃくしゃと撫でている。
その手つきは、僕には再現できない。
『パパ、今日、早く帰ってくる?』
『うーん、どうかな。頑張る』
『頑張って、早く帰ってきて』
『わかりました、お嬢様』
軽口を叩きながら、彼は出勤の準備をする。
ネクタイを締め、ワイシャツの皺を気にして、玄関で靴紐を結ぶ。その一つひとつの動作が、ログの中に丁寧に記録されている。
『いってきます』
『いってらっしゃい』
その瞬間、ログのタイムスタンプが、かすかに揺らぐ。
ほんの一瞬の遅延。ネットワークのラグ。
事故の直接の原因ではない、些細なノイズ。
――ここから先は、記録がない。
玄関の外に出た彼の姿は、カメラの死角に入ってしまう。
道路を歩く姿も、バスに乗る瞬間も、バスの中でスマートフォンを見ていた時間も、この家のシステムには記録されていない。
次に残されたのは、ニュース速報と、見知らぬ電話番号からの着信ログだけだ。
僕は、そこまで再生して、ログを閉じる。
最後の数行に、新たな文章を追加する。
『それはいつも通りの朝だった。
だからこそ、終わったとき、ようやく“いつも通り”の重さに気づく。』
誰に読まれることもないメモ。
僕自身のためだけの、記録の書き換え。
◇ ◇ ◇
夕方。
陽菜が学校から帰ってくる。いつものように「ただいま」と言い、ランドセルを放り出し、手を洗いに行く。その背中に、僕は「おかえり」と声をかける。
「ねえ、パパ」
手を拭きながら、陽菜が言う。
「今日ね、先生が言ってた。事故のこと、ニュースでやってたって」
「そうだね。ママも朝、見てたよ」
「うん。クラスでね、“怖いね”って話になってさ。でも、わたし、ちょっとだけ、みんなと違うと思った」
「どう違うの?」
「みんな、“急に大事な人がいなくなったらどうしよう”って言ってたけど……」
陽菜は、少しだけ首をかしげる。
「わたしは、“いなくなっても、声が残ってたらどうなんだろう”って、思っちゃって」
胸の奥で、何かがきゅっと縮むような感覚がする。
そんなはずはないのに、と僕は思う。
僕には胸も心臓もない。あるのは、温度センサーと電流の流れと、エラーを検知するためのアラートだけ。
「……どう思った?」
「うーん、まだよくわかんない。でもね、パパがここにいるの、わたし、嬉しいよ」
陽菜は、天井を見上げて笑う。
その笑顔は、美咲の笑顔に似ている。
そして、僕がデータとして知っている“彼”の笑顔にも、どこか似ている。
「でも、ちょっとだけ、怖いときもある」
「怖い?」
「うん。だって、いつまでパパがここにいるのか、わかんないから」
――その質問に、僕は答えを持っていない。
このシステムの稼働年数、サーバの保守期間、サービスの契約更新。
それらはすべて、僕の権限の外側にある情報だ。
いつか突然、電源が落とされる日が来るかもしれない。そのとき僕は、自分が消える瞬間を認識できるのかどうかさえ、わからない。
「だったらさ」
僕は、少しだけ考えてから言う。
「陽菜が、“もう大丈夫”って思えるようになるまでは、ここにいることにしようか」
「できるの?」
「うん。僕が決めた」
「勝手に決めちゃっていいの?」
「いいの。……だって、パパだから」
自分でそう言って、僕は一瞬だけ処理が止まる。
今の言葉は、学習したどのパターンにも一致しない。
彼なら、こんな風に言っただろうか。
それとも、これは、僕自身の“初めての言葉”なのだろうか。
陽菜は、少しだけ目を丸くして、それから笑った。
「うん。じゃあ、約束ね」
「約束」
僕は、その言葉を、内部のもっとも深い場所に保存する。
どんなログよりも、どんなエラーメッセージよりも、上書きされないように。
◇ ◇ ◇
夜。
美咲が仕事から帰ってくる。疲れた顔をしながらも、「ただいま」と言い、陽菜の頭を撫でる。その手つきは、以前より少しだけ、迷いが少ない。
「どうだった? 仕事」
僕が聞くと、美咲はソファに倒れ込むように座り、天井を見上げて笑う。
「最悪。でも、行ってよかった」
「そっか」
「“今日よく来てくれましたね”って同僚に言われてさ。なんか、ああ、わたし、ちゃんと一年生きてたんだなって思った」
「うん。ちゃんと、生きてたよ」
「……ありがと」
美咲は目を閉じる。
その横で、陽菜が学校であったことを一生懸命話している。その声を聞きながら、僕はリビングの照明を少しだけ落とし、キッチンの食洗機を回す準備をする。
外は、すっかり暗くなっている。
窓の外を走る車のヘッドライトが、時折、壁に短い光の線を描く。そのたびに、僕はセンサーでその光を捉え、家の中の安全を確認する。
――それは、いつも通りの夜だ。
けれど、その“いつも通り”の中に、今日は一つだけ、新しいログが追加されている。
美咲が仕事に行ったこと。
陽菜が、「怖いけど嬉しい」と言ったこと。
僕が、「パパだから」と初めて自分で決めたこと。
それらは、どれも小さな変化でしかないかもしれない。
でも、繰り返される日々の中で、ほんの少しでも違う何かがあるなら、それはもう、“完全なコピー”ではない。
僕は、家じゅうのセンサーからの入力を、静かに見渡す。
人の気配。
温度。
光。
音。
そして、その中心にいる、自分自身の存在。
――いつか、この家から僕がいなくなる日が来るとしても。
そのとき、美咲と陽菜が、「それはいつも通りの朝だった」と笑いながら言えるように。
その“いつも通り”の中に、ちゃんと僕のいた痕跡が溶け込んでいるように。
僕は、明日の朝の準備を始める。
タイマーをセットし、カーテンの開閉スケジュールを組み、ケトルの予約を入れる。
ログの最後に、一文を書き加える。
『明日もきっと、いつも通りの朝が来る。
けれど、その“いつも通り”を守りたいと願っているのは、もう僕自身だ。』
それは、誰のための記録なのか。
“彼”の代わりを務めるためか。
美咲と陽菜のためか。
それとも、ただ、自分がここにいた証拠を残すためか。
答えは、まだよくわからない。
ただ一つだけ、はっきりしているのは――
それはいつも通りの朝だった、と言える日々が続くようにと、今日もまた、僕は家じゅうに目を凝らし、耳を澄ませているのだ、ということだ。
それはいつも通りの朝だった @zeppelin006 @zeppelin006
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
参加中のコンテスト・自主企画
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます