22

「本当に、行くんか」

 やたら名残惜しげなのが、どうにも居心地わるい。

「はい。短い間でしたが、色々とお世話様でした」

「何か困り事が有ったら、いつでも遊びに来いよ!俺は、お前の事忘れない」

 そう言って、いつも使っていた年季の入った工具を握らせた。

「コレ、あげるよ。プレゼント。っていうか餞別。君がここで働いていた思い出にさ」

「ありがとうございます、長谷川さん。こういうの……励みになります」

「ヤッちゃん、週末はまたボーリング行ったり釣りに行ったりして遊ぼうぜ!イイ場所教えろよな!」「あまり遊べなかったけど、今までありがとうな!」

「おう。こっちこそありがとうな。仕事、頑張って」

 六月八日。菰田は沼田モータースの店先で職員達に別れの挨拶をしていた。

 朗らかな見送りの最中、未だ生々しい記憶が鮮烈にフラッシュバックした。

 あの夜。松井刑事が走り去った直後に、警官たちを見た安堵感からかその場で気を失ってしまった。そして、応援に駆け付けた警官に保護された。目覚めたのは、峠を下っている救急車の中だった。救急車の窓は半分以上が目隠し加工されているのだが、採光の為のわずかなスペースから妙に発光する満月が見えた事がはっきり記憶に残っている。車内には三人の救急隊員がいたが、その誰もが彼に少し躊躇うような、触れたがらないような、そんな仕草をしていたことも非常に印象に残っている。

「まぁ、なんせ俺らも状況が飲み込めんくてぇ、右往左往。今回みたいな事、そうそう聞く話でもないしな。とりあえず、お前さんはアレに命を拾われたっつうこっちゃ。これも何かの縁や。大事に生きて、綺麗な嫁さん貰って、可愛い子供作って、アレの墓にアレの好物の揚げ饅頭でもたんと買うてってやり……アレはお前さんの命の恩人やでぇ、ホンマに」

「はい。一生忘れはしません」

 後日、入院先の市立病院に訪れた、松井刑事の同僚を名乗る細野という刑事から松井刑事の殉職を知らされた。

「カミさんと子供らがな、ホンマに見てられへんのだわ」

「そうでしょうね」

「岡ちゃんも、俺も……もう、なんなんや。人が死にすぎやぞ、あそこは」

 それを言われて、自分はなんと返していいのか。

「なあ、あんた」

「はい」

「最期、どんなんやった」

「覚悟、してらっしゃいましたね、はい」

「はっ。そうかいそうかい」

 目頭を押さえてから、何か言いたげに何度も何度もうなずいた。変に身の締まる思いがした。

「はい」

「あの野郎。あいつらしいな。ホンマ」

 あれが彼の最期の姿だったのだ。儂は、行く――格好良い最期だったと思う。最後まで自分の仕事に誇りと威厳を持っていた。そして、部下の仇を討つと同時に彼自身が殉職した事については、非常に残念に思う。

「ところであんた、本とか読むほうかな?」刑事は話を急展開させた。

「本ですか? ええ、多少は」

「そうか。あのさ、バタフライ効果っていうの知らん?」

 一瞬、首筋にガクッとした衝撃が走った。「知ってますよ」

「おわわ、ホンマかあんた」

 知っているかと尋ねておきながら、なぜか驚いているのが滑稽だ。

「ええ、ほんのさわりだけなら本で読んだことがありますよ。ブラジルで蝶が舞うとテキサスに嵐が起こる、みたいな」

「ああ、そんな感じそんな感じ」

「……これが、どうかしたんですか」菰田が訪ねると、細野刑事は貶すような口調になった。

「うちの職場にな、ちょっと変わった人間がおるんやけど、その人ってよく手帳に何か書き込んどるんだわ。資料室の担当やけど、この前そこへ行った時にその手帳が開いて放ってあってさ。チラッと見てみたら、そこにこのバタフライ効果の事が書いてあって、緑色のボールペンで何回もなぞって太くした字で風死見村交差点事件、って書かれとった」

 細野刑事はすっと立ち上がるとポケットからスマホを取り出し、ええやろこれ、と娘から貰ったよくわからない手作りらしい蝉のキーホルダーを自慢してから目を細めて何か操作し、そのままスマホを手渡してきた。

「解説が、あってだなァ」

 それはどうやら大学生が私的に運用しているサイトらしく、難解な量子物理学を現代風の語り口で解説している、気持ち悪いくらい感心なものだった。その大学生に言わせれば、この世の全ての物質は素粒子――つまりこれ以上細かく出来ないというレベルのところで連動しており、人体の神経系と同じく互いに作用し合っている。しかし、唇歯輔車の糸がどこでどのように繋がり合っているのかは、未だに解明されていないため、あくまでも一種の仮説としてあてがわれるのがバタフライ効果である――とかなんとか。どこにどんなベクトルで繋がっているのかわからないトンネルを想像する。あるトンネルから小石を投げ込んでも、どこかの出口から出る時には巨大な落石となって民家を圧し潰すのかもしれない。

「これが、どうかしたんでしょうか」菰田は細野刑事の意図が読み取れず、困惑した。

「うちのやつが、この理屈を風死見村事件に当てはめたいと考えてるらしい」

「と、言いますと」

「なんで。わからんか。つまりあそこの村の学生らが、どこか別の場所の、もっと恐ろしい悪事の影響を受けて一連の事件を起こしたんじゃないかと、こう言いたいんだわ。あの学生らは精神鑑定も受けてるんやけど、ちょっと歪な部分も多くてな。そういう人間にしか起こらない反応、そういう人間にしか備わっていないアンテナのようなものがあると仮定してるらしい」

「えっと、それつまり」

 量子力学を心理学か脳科学へ当て嵌めるというのか。こりゃダメだ、と感じた。

「まあ、そいつもおかしいから、こんなの戯言やろうけどな。しかもそいつ、どうも俺らの知らんうちに現場に行ってコソコソしとるらしくて。村の中で通用する、どんてんろうし、とかいうものがそのヒントらしいけど、実はそっから先がわからんくて……ああ、別にええの。知らないならそれで。ただちょっと、個人的に聞いてみたかっただけで。うむ。それにしても、まぁ~……恐ろしい事が起きてしまったな」

 細野刑事は深い深い、だが短い溜息を吐くと、ほんなら、と言って饅頭を置いて去った。


 ニュースで見たが、事件に関わった九人の高校生は残らず死亡したようだ。

 その中には沼田達也の名もあった。あの子もあの夜、死んでいた。

 事故から一週間後、菰田は県警本部に招かれ、事件解決に貢献したという名目で感謝状が贈呈された。大手のメディアも多数駆け付けていた。しかし彼は受け取りを拒否した。謙遜もあったが、村の事を忘れたい、一切の関りを絶ちたいというのが正直な気持ちだ。地元の名士になれるのに、と誰かが言ったが、それは自分には分不相応で、どちらかというと不快だった。

「今回の件で殉職された松井刑事と、彼の相棒バディの方に差し上げます」と丁寧に断りを入れ、警察署に置いてきた。こんな物、嬉しくもなんともない。ニュースや新聞やネットを観た友人知人、恩師までもが連絡を寄越してきたが、その殆どをスルーというある意味最もローリスクな対応でパスした。だって、もうこの村を去るのだから。

「菰田君……達也が迷惑を掛けて、悪かったなぁ……」

 敏行がいつも以上にすまなさそうに肩を叩いてきた。

 息子が亡くなってからすっかり元気が無く、縦ジワの増えた顔がなんとも哀愁深い。

「いいえ、もういいんです――では、自分はこれで失礼します」

 終始控えめの応答に徹し、餞別の洗車グッズを受け取った。修理を終えたばかりの愛車に乗り込み、恐怖の夜を想い起こしながらキーを回す。

「生きてる……よな、俺……生きてるんだよな、本当に」

 工場から終業のチャイムが流れてくる。皆の見送りを受けて、車は道に出た。

今後、暫くは実家に身を寄せる事になるが、ガソリンスタンドかどこかでアルバイトをしながら新たに正社員の就職先を探そう。それで、ひとまずいいさ――そして、このような事があった事は誰にも話さない。誰にも気付かれないように生きていく。この悪夢が終われば、それでいい。新しい人生が始まれば、もうそれでいい。生きてさえ、いけたら――

 逢魔時。陽が陰に溶け入る怪しい時刻。

 この二か月間を振り返ると、そのまま夢を見ていたと錯覚する位フワフワと覚束ない時間だった。まるで魂が現実ではないどこかへ行っていたような――悪酔いから醒めたような虚ろな感覚がまだ続いている。

「………………なんだかな」

 もう元の自分に戻れないような焦燥感と同時に、名状し難い解放感が胸中で鬩ぎ合う。初恋にも、旅立ちにも似た、大きな蒸気船が高らかに汽笛を響かせて大海原へ旅立つような――


 少し走り、第四交差点に差し掛かる。角皿型に落ち窪んだ形状に、これまで通り暗い空気が淀み渦巻いている。住めば都という言葉があるが、こんな気持ちの悪いものにさえ慣れを感じている自分がいる。深鏡トンネルに入る。橙色のナトリウムランプが後ろへ飛び、通行者を異界へと誘う。直後、まさに身の毛のよだつ悪寒がザワリと走った。肛門あたりから這い上がる、抑えようのない胸騒ぎ。操られるように前方に意識が吸い寄せられる。

 何かが車の前に居る。

 ――人か?

 薄汚れた矢絣やがすりを纏い

 髪を振り乱した少女が

 浮かび上がる車線の真ん中

 研ぎ澄ましたやいばのような目で

 こちらを睨み――

「 あ 」

 ブレーキペダルに足を掛けた時、目の前は数十年の排ガスで煤けたコンクリートの壁に変わった。


          *


 例年よりも花粉の飛散量が少なく、心地良い小春日和だった。駐輪場に原付を駐車し、スキップのような軽やかな足取りで階段を上る。

 これまでの人生で、最高に晴れがましい気分だった。まるで、最高の舞台でスポットライトを一身に浴びるかのような血沸き肉躍る快感が、全身の毛穴から発散していた。

 少し広くなった教室で、クラスメイト達が輪をなして騒いでいる。

「よし。初めてだけど、上手くいったな!」「うん!なんかすっごく嬉しいね!」

 輪の中心では、鹿島実と増田小春が妙に浮わついている。

「俺達は殉職していった芝浦君たちと、不幸にも自殺してしまった須藤の意志を受け継ぎ、そこに俺達独自のルールを織り込んだ全く新しいプロジェクトを堂々運営していく事になった!今まではサポートだけだった俺達が主役になる番だ。みんな気を引き締めていこう。そんじゃ言うぞ。ベンセレーモス!」「「「ベンセレーモス!」」」全員が実に続いて唱和した。

 なんとも。万年うだつの上がらなかった名ばかり管理職が、上層部の一斉退職でエスカレーター昇進を果たした際にもこのような空気を味わえるはず。

「チーム名を付けたいと思うの!そこで、私達のバンドの『フェアリー・ファースト・クライ』をそのままチーム名にしたいと思いま~す!」

「オッケー」「イイね」「カッコイイ~!」「どういう意味?」

「『妖精の産声』という意味よ。シャレてるでしょ?」

「何それ?何かAVみたいじゃん」男子の一人がニヤリとした。

「うるさい!私たちの誇りなの、文句は言わせないんだから!」

「そう言えば小春、もう立ち直ったの?翼はもう……」

 女子の一人が心配そうな面持ちで、小春の肩に手をやった。

「はい?あぁ、もういいから気にしないで、今は実がいるし。それにあの男、顔から喋る事から何もかも古っ臭くて、正直うんざりだったんだよねぇ~。元カレが嫉妬したら面白いと思って難易度低そうなあの芋男を選んだんだけど、なんか死に方もだっさ。ありえな~い」

「うん、あははは。いや~それにしても俺、前からカノジョ欲しかったんだよな~。ラッキーだね、ある意味」「あ、そう、なのね……お幸せに……」

「それにしても修の奴さ、なんだよ。美幸が死んだからって、首を吊る事ないよな」

 男子の一人が呆れ返って額を掻いた。

「相当悔しかっただろうってのは汲むけどな。ま、アイツはちょっと固い感じだったし。吹っ切れたんだ。ほら、ブレイクスルーってやつだよ、きっと」

 その様子を、中条が分厚い赤本越しにそっと眺めて、気づかれない程度に首を傾げた。

「そういえば千夏、来年の大学受験は大丈夫なの?」

「確かに。千夏って英城大の法学部志望なんでしょ、本当に大丈夫なわけ?」

 マニキュアを塗っていた千夏は、至極怪訝そうに顔を顰めた。

「ほえ?あー、いいのいいの。どうせこの学校の評判は地に落ちたでしょ。推薦切符使えないじゃん。身を捨ててこそ浮かぶ瀬も有れって言うし、一か八か、私は作戦プロジェクトに力を注ぐ事に決めたから!それもそれで、生き方としてアリかな?ってことで!ヨロシク」

 可愛らしい敬礼まで付けてあっけらかんと言ってのけた。

「……へえ。まあ千夏は成績優秀だから、何だか頼もしいっちゃ頼もしい」

「決まり。じゃあ千夏は我がチームの参謀として認定!」

「あ、私はアシスタントやるー!」

 ツインテールの浅香あさか真紀まきがピョコピョコと飛び跳ねた。

「僕はなるとしたら……技術者がいいかな……」

 普段は寡黙な流郷りゅうごう俊生としきも、珍しく大きな眼鏡の下の頬を紅潮させている。

「オレはスパイやりてぇ」

 横着して机の上に胡坐をかき、メロンパンを齧っていた西野にしの辿たどるが、モゴモゴした声で食い付いた。「全員認定!」

「いーなー。あ、じゃあ俺、特攻隊長する!」

 おちゃらけたタイプの男子、鍵留かぎとめすぐるが意気揚々と挙手するが、小春に出鼻を挫かれた。

「いいよ!でもその代わり、本当に命を懸けてよね」

「もち……いや、やっぱやめとく……」

 優は小春の妖しい笑みに気圧され、萎縮してしまった。

「「「ハハハハハハハ!!」」」声高な笑い声が教室棟を震わせる。

 連日の事件が起きてからというもの、二年C組からは笑い声が絶えないと他クラスから酷いクレームが来ている。あまりにも不謹慎だ、と。あの日以来、本校の生徒はめっきり減少した。村の治安を案じた保護者が我が子に自宅学習を推奨したからだ。転校届も既に十七通も出され、大多数が早々に村を離れた。通学路の途中にある古臭い電器商店では、干乾びたゴボウのような男が家内を怒鳴りつけ、古いトラックに家財道具を満載していた。当校の生徒にも馴染みのある中村書店は、あの日以来一度もシャッターが上がっていないという。村唯一のコンビニには一晩中警察関係者が来店、店側としては僥倖なのか迷惑なのか。学校周辺や通学路には大勢のPTA役員、制服警官が警戒に任り、厳戒態勢が敷かれての登下校となった。その中に幽霊のように生気の無い顔をした、不気味なスーツ姿の男が居たと主張する生徒が複数人いた。そして、彼は輝く黒塗りのワゴン車から生徒の顔を精査するように眺めていたそうだ。


 チャイムが鳴って四分半後、担任の大野日出男教諭がやってきた。ここ数日の件が堪えているらしく、しょぼくれた面は不似合もいいところだ。無感情かつ機械的に出席をとる声をBGMに小春は一人、ネイル・アートに耽りながら歌うように囀った。

「せんせ、気を付けて。私達に〝おきて〟なんか通用しないから。弱い者は強い者に喰われる。そこに理屈なんか要らないの。それが自然の摂理。こわいよね~、私たち」

 口端を吊り上げた。

 この村は、かざしみむら。だけども、ふじみむら、とも読める。

 そう。私らの意志は不死身。私が死んでも、仲間がその意志を継ぐから。

 ヤドカリが身体の成長に合わせて貝殻を交換するみたいに、意志も様々な人間の間を乗り移って伝播するの。


 やるべき事が、ある。

 自分の役目が、ある。

 頼れる仲間が、いる。

 その実感が、どこまでも快感を生み続けた。


            ――さあ、私たちの作戦プロジェクトを始めようか。

                                       (了)

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