推し愛い〜”声”が引き合わせる恋〜

汐 凪登

第1話 出会う前

 これは、俺が26歳の時の話。


 仕事で地方に来ていた。

 滞りなく仕事を終えて、宿泊のために予約していた旅館に来ていた。

 寂しく1人で過ごす予定だ。でも大丈夫。仕事は死ぬほどある。

 それこそ、今年は非常に忙しい。なぜなら初めてのワールドツアーが始まろうとしているからだ。

 語学の勉強、ツアー中のトーク練習、インタビューの原稿考える、歌詞のチェック、音源のチェック、ライブの構成チェック、とやることがありまくりだ。


「今日は徹夜かな。帰りの新幹線で寝れるから」


 旅館について、部屋に入る。

 旅館の女将は、めちゃくちゃ丁寧に対応してくれる。そんなに気にしなくていいのに。


 窓からは日本庭園が一望でき、ベッドも3つある。

 俺1人なんだけど。


 まぁ、マネージャーが取る時に、名前を伝えたら自動的にこの部屋になったらしいから、仕方ない。

 どうせ、あの壁にくっついているデスクで一夜を明かすことになるのだから


「さて、一旦、風呂でも入るかな。」


 まだ夕方だから、大浴場も空いているだろう。今のうちに入っておこう。


 着替えを持って、大浴場へ向かう。


 途中、何人かとすれ違う。

 チラチラと視線を感じる。

 もうこの視線には慣れた。

 はじめはこちらもキョロキョロと動じてしまっていたが、それは良くない。チラチラという視線には、不動。これが最適解であることは経験則から分かる。


 ささ、早く風呂に行こう。



 ====



 地元への帰省。

 声優仲間の青山奈緒と一緒に温泉旅行に来ていた。

 ”声優仲間”と言えば聞こえはいいが、私たち二人はまだアルバイトも続けないと生活できないし、代表作と言えるような作品もまだない。


 初めてメインのキャラができたのは、webでしか放送されてない『会話がほぼ成立しない幼なじみたち』というアニメだけ。

 しかも、それも主人公じゃないし。

 アニメのメインキャラができると、初めはテンションが上がったりもしたが、Youtubeを見ても、Xを見ても、誰も何も取り上げていなかった。

 というか、公式アカウントも出来てなかったし。


 結局そのアニメは、誰の目にも触れることなく、炎上することも、話題になることもなく、ただひっそりと、インターネットの片隅で終了した。


 私も誰もが通る下積み時代とは分かっている。

 しかし、このトンネルはいつまで続いているのか、トンネルの出口は未だ見えてこない。

 それでも、ただ前に進まないといけない。


 旅行に来ているのに、将来への不安や仕事のことを考えてしまう。

 だめだ、今は温泉に集中しないと――


「ねぇねぇ、さっきの人、赤城翔さんじゃないかな・・・?」


 奈緒の声で、思考が遮られる。


 赤城翔さん。

 私が大好きなアーティストだ。

 彼は、デビューしてからヒット作を連発した。

 作る曲はほとんど全て、アニメ・ドラマ・映画・CMに起用された。

 誰もが認める天才。


 そんな彼が、こんな田舎に来ているわけがない。

「まさか、こんなところいないでしょー」


「うーん。確かにそうだよね・・・。見間違いなかなぁ」

「そうだよ。それにそうだったとして、私たちじゃ話しかけられないよ」


「まぁ、そうなんだけどね。でも、赤城さん、アニメ好きだってインタビューで言ってたし、もしかして私たちの声も聞いてくれてるかもしれないよ・・・?」


「詳しいね。奈緒、そんなに好きだったっけ?」


「今じゃ、赤城さんの曲好きじゃない人の方が珍しいよー。でも、千愛には負けるかな」

「そりゃそうだよー。私ほどの赤城オタクみたことないもん。」


「いっつも、赤城さんの曲聞いてるもんねぇ」

「もちろんだよ。それに、今度ワールドツアーが始まるのに、本当はついていきたいくらいなんだから」


「そう言うと思ったよ笑」

「まぁ仕事がいつ来るか分からないから、行けないんですけどねぇ〜」


「そうねー仕事がねー」


 私たち新人声優は、メインのキャストで仕事が来ることはあまりない。

 なので、脇役とか周りのエキストラ(その他大勢)として呼ばれる中で、修行していかないといけない。

 そして、ちょい役は、直前に決まることが多い。

 海外旅行で長期不在なんてしたら、仕事がこなくなってしまうのだ。


 あ、また仕事のことを考えてしまった。

 はぁ、ため息をついて、切り替えようとする。


「さぁ、早く私たちもお風呂行こう?」

「うん!」

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