第4話 森の主、フェンリルを一撃で「分解」する

 その時、世界から音が消えた。

 先ほどまで耳を賑わせていた鳥のさえずりも、虫の音も、風が木々を揺らす音さえも、唐突に断ち切られたように静まり返った。

 それは、生態系の頂点に立つ捕食者が現れた時にのみ訪れる、絶対的な畏怖と静寂だった。


「……来たか」


 俺は作り上げたばかりの愛刀『星砕き』を提げ、拠点の前の広場に立った。

 肌を刺すような冷気。

 ただ立っているだけで、大気中の魔素がビリビリと震えているのが分かる。


 森の奥、闇の深淵から、二つの蒼い光が浮かび上がった。

 ゆっくりと、音もなく、その巨体は姿を現した。


 銀色の毛並みは月光を浴びて輝き、その体躯は二階建ての家屋ほどもある。

 四肢には氷の粒子が纏わりつき、吐き出す息はダイヤモンドダストとなって舞い散る。

 伝説の魔獣。神話に語られる冬の災厄。


「グルルルゥ……」


 喉の奥から響く低い唸り声だけで、周囲の空間が物理的に振動した。

 俺の『物質解析』スキルが、視界に真っ赤な警告ウィンドウ(アラート)をポップアップさせる。


 ――警告:超高脅威生体反応。

 ――種別:神獣フェンリル(幼体)。

 ――推定レベル:85。

 ――保有魔力量:SSランク。

 ――特殊能力:絶対零度、音速機動、物理耐性(極大)、魔法耐性(極大)。


「へえ、これで『幼体』か」


 俺は感心して呟いた。

 成体になれば国を滅ぼすと言われるフェンリル。たとえ幼体であっても、辺境の森にいていい存在ではない。間違いなく、この『魔の森』の生態系の頂点、森の主(ボス)だ。


 フェンリルは俺を見下ろした。

 その瞳には知性が宿っている。単なる獣ではない。

 奴は俺を一瞥すると、人の言葉(テレパシー)を脳内に直接響かせてきた。


『去れ、ヒトの子よ。ここは貴様の如き矮小な存在が踏み入ってよい領域ではない』


 威厳に満ちた声だった。

 同時に、強烈な『威圧』のスキルが俺を襲う。

 常人なら、このプレッシャーだけで心臓が止まるか、恐怖で発狂していただろう。


 だが、俺には通用しない。

 俺の視界には、その威圧さえも『精神干渉系の波形データ』として表示されている。


「ノイズ除去(キャンセル)」


 脳内でコマンドを実行。

 不快な精神波をフィルタリングし、遮断する。ただそれだけで、伝説の魔獣の威圧はそよ風程度になった。


『ほう? 我が威圧に耐えるか』


 フェンリルがわずかに目を細めた。

 俺は肩をすくめて、改めて目の前の「素材」を値踏みした。


「去れと言われてもな。俺はここを拠点(ホーム)に決めたんだ。それに……」


 俺はフェンリルの輝く毛並みをじっと見つめた。

 

 ――解析:神獣の毛皮。

 ――特性:断熱、対魔法防御、自動清浄。

 ――用途:最高級の防寒具、ローブ、絨毯。


「その毛皮、すごく暖かそうだな。俺のベッドの敷物にしたら最高に眠れそうだ」


 本心からの感想だった。昨夜のウルフの毛皮も悪くなかったが、やはり神獣クラスとなれば格が違う。

 俺の言葉を聞いた瞬間、フェンリルの空気が変わった。

 静謐だった冷気が、荒れ狂う吹雪へと変貌する。


『……我を素材として見たか。傲慢な人間よ、その愚かさを後悔しながら凍り付け』


 ドンッ!

 フェンリルが前足を叩きつけると、地面から巨大な氷の槍が無数に隆起した。

 全方位からの刺突。逃げ場はない。

 さらに、大気中の水分が瞬時に凍結し、俺の身体を氷の檻に閉じ込めようと迫る。


 上級氷魔法『コキュートス・ジェイル』。

 発動速度、威力、範囲。どれをとっても超一流だ。


 だが。

 俺には、その魔法の構成(ソースコード)が丸見えだった。


(術式構成は美しいが……無駄が多いな。ループ処理が最適化されていないし、魔力消費のロスも大きい)


 エンジニアとしての職業病が疼く。

 俺は迫りくる氷の槍に対して、一歩も動かなかった。

 ただ、左手をかざし、術式に干渉する。


「解析(パース)、そして分解(デコンパイル)」


 パリン、と軽い音がした。

 俺の鼻先まで迫っていた氷の槍が、突如としてその形状を保てなくなり、光の粒子となって霧散した。

 凍り付こうとしていた大気も、一瞬で元の温度を取り戻す。


『な……っ!?』


 フェンリルが驚愕に目を見開く。

 無理もない。自身の最強の魔法が、防御されたわけでも、相殺されたわけでもなく、ただ「消滅」したのだから。


「魔法っていうのは、魔力というリソースを使って、物理法則を書き換えるプログラムだ。書き換える手順(コード)にバグを仕込めば、実行エラーで強制終了する」


 俺は淡々と解説した。

 要するに、魔法の構成式の重要な部分を少しだけ弄って、術式自体を崩壊させたのだ。


『バグ……? 何を言っている! 小癪な真似を!』


 魔法が通じないと悟ったフェンリルは、即座に戦法を切り替えた。

 物理攻撃だ。

 巨大な銀の塊が、音速を超えて突っ込んでくる。

 その牙は鋼鉄をも噛み砕き、その爪は城壁をも切り裂く。

 単純な質量と速度による暴力。小細工なしの、必殺の一撃。


「グルアァァッ!」


 回避は不可能。

 だが、俺は逃げるつもりはなかった。

 右手の『星砕き』の柄に手を掛ける。


「その突進も、解析済みだ」


 奴の筋肉の動き、重心、魔力の流れ。全てのベクトルの行き着く先が見えている。

 俺は鯉口を切り、神速の抜刀術を放った。


 ――スキル『再構築』応用。

 ――対象:空間座標、およびフェンリルの運動エネルギー。

 ――処理:切断と運動ベクトルの反転。


「シリアルコード『一刀両断』」


 銀色の閃光が走った。

 それは刃による切断であると同時に、世界(システム)への介入だった。


 ズンッ!!

 重低音が響き、衝撃波が森を揺らす。


 フェンリルの巨体が、空中で静止していた。

 俺の剣は、奴の鼻先寸前で止まっている。

 だが、その背後に広がる森の木々が、数百メートルにわたって「何か」に削り取られたように消失し、一直線の道を作り出していた。


『…………』


 フェンリルは瞬き一つできなかった。

 自分の身体を覆っていた強固な魔力障壁が、紙のように寸断されたことを理解したからだ。

 そして、今、自分の命が、目の前の人間の気まぐれ一つで「分解」される寸前にあることも。


 俺は剣を納めず、切っ先を突きつけたまま言った。


「お前の『防御力』と『攻撃力』の数値を構成している定義ファイルを削除した。今のその身体は、ただの大きな犬と同じだ。俺がこのまま剣を振れば、お前は最高級の毛皮と魔石になる」


 ハッタリではない。

 先ほどの一撃は、物理的な斬撃に加え、対象の存在強度(パラメータ)を強制的にゼロにするデバフを乗せている。


『……ば、化け物め……』


 フェンリルの喉から、恐怖に震えた声が漏れた。

 神獣である自分を、単なるデータのように扱い、あまつさえ弄ぶ存在。

 その圧倒的な格差を前に、誇り高き森の主のプライドはへし折られた。


 フェンリルはその場に伏せ、頭を垂れた。

 絶対的な服従のポーズだ。


『……我の負けだ。殺すがいい。だが、せめて神獣としての誇りを汚さぬよう、一撃で――』


「いや、殺さない」


 俺はあっさりと剣を鞘に納めた。

 カチン、と音が響くと同時に、フェンリルへの威圧も霧散する。


『……は?』


「毛皮は惜しいが、よく考えたら死んだ素材は使い切りだ。それよりも、生きたままの方が何かと『効率的』だろ」


 俺は屈みこみ、呆気にとられるフェンリルの鼻先を撫でた。

 ビクッと巨体が震えるが、抵抗はない。


「この森は広い。俺が素材採取に出かけている間、拠点が留守になる。お前、番犬になれ」


『ば、番犬……だと? この我に向かって、犬の真似事をしろと……!?』


「不満か? なら今すぐ毛皮にするが」


 俺が再び剣の柄に手を伸ばすと、フェンリルは猛烈な勢いで首を横に(犬のようにブルブルと)振った。


『わ、分かった! やる! やらせていただく! 我は今日から貴様の忠実な下僕だ!』


「よし、契約成立だ」


 素直でよろしい。

 俺は満足げに頷いた。

 こうして、強力な自動防衛システム(フェンリル)を手に入れた。

 魔力食いの神獣だが、餌はこの森にいくらでもいる魔物で十分だろうし、何なら俺の魔力をおこぼれで与えてもいい。


「名前が必要だな。フェンリルだから……『ポチ』でいいか」


『ポ……ッ!? 我は神獣だぞ!? もっとこう、威厳のある名は……』


「嫌なら『シロ』か?」


『……ポチで頼む』


 フェンリル改め、ポチががっくりと項垂れた。

 俺はその頭をもう一度撫でてやり、拠点の方へと歩き出した。


「ついてこい、ポチ。飯にするぞ。今日は特上のオーク肉がある」


『肉……!』


 現金なもので、餌の話が出た瞬間にポチの尻尾が大きく揺れた。

 どうやら、プライドよりも食欲が勝るタイプらしい。

 巨大な銀色の狼が、子犬のように俺の後をついてくる。その光景は、側から見れば異様極まりないだろうが、この森にツッコミを入れる人間はいない。


 こうして、俺の異世界生活三日目にして、最強のペット(兼セキュリティ)が導入された。

 生活基盤の「最適化」は順調に進んでいる。


「次は……生産設備の拡充だな」


 俺はポチを引き連れ、意気揚々と石造りの家へと戻った。

 だが、この時の俺はまだ知らなかった。

 森の主であるフェンリルが人間に従ったという事実が、森中の魔物たちを震撼させ、やがてその噂が森の外へ――人間社会へと漏れ出していくことを。


 無自覚な世界支配へのカウントダウンは、まだ始まったばかりである。

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