第3話 五十年の成果
ギィ、と錆びた音を立てて屋上の扉が開いた。
強い風が吹き込む。
視界の下には学園の広い敷地が見え、フェンスが冷たく揺れていた。
昼の日差しはまぶしいが、空気は妙に重い。
「……着いたぜ、九十九」
黒田仁が口角をつり上げ、振り返った。
その隣に並ぶのは、取り巻きの二人。
彼らの表情が示すのは、いつもの悪意ある笑み。
穂高の肉体が、わずかに震えた。
この体に刻まれた記憶がよみがえる。
何度も貶され、囲まれ、殴られた場所。
魔法の試し撃ち、サンドバック。
ここは穂高にとって、地獄でしかなかった。
だが今の俺は落ち着いている。
なぜならこれは穂高の感情であって、俺のものではないからだ。
と、心の中で静かに整理していく。
「さて……じゃあさっそく教えてくれよ。再試験に合格なされた奇跡の九十九様がどんなズルをして、退学を逃れることができたのか」
黒田の声には、笑っているのに温度が無い。
その目は、獲物を見下ろす獣そのものだった。
「……ズル? なんの話だ?」
一応問いかけると、黒田は鼻を鳴らした。
「お前、前の試験の時、魔力数値100もまともに出せなかったよな?」
「ああ、そうらしいな」
「そうらしいな、じゃねぇよ」
風が止んだ。
黒田の瞳がギラつく。
「どうやったんだ? 短期間で350なんて数字、越せるわけねぇだろ。お前にそんな力、あるはずがない」
「だがその数値がでた。それが現実だ」
「それが嘘くせぇって話してんだよ!!」
怒号が屋上に響く。
過去の穂高なら、心が折れていたかもしれない。
だが俺はただ、静かに息を吐く。
「いいか、黒田。魔力というのは、心が安定していないと出力できない。心が乱れた状態では、いくら魔力を持っていても外に漏れていくだけだ」
「……は?」
黒田だけでなく、取り巻きも眉をひそめた。
「今回は、心が整っていた。それだけの話だ」
「そんな説明で納得できるかよ!!」
黒田の声は怒りに震え、拳を握りしめていた。
「じゃあこうしようぜ。その安定した心とやらで、俺たちに本当の実力を見せてくれよ」
取り巻き二人がにやにや笑いながら前に歩み寄る。
「ここは仁さんが出るまでもないですよ。俺らがしっかりと実力を測りますんで」
「おう。九十九の顔が歪むのを見るのが楽しみだぜ」
穂高の体がまたわずかに震える。
過去の恐怖は強い。
だが、俺にとってはどうってこともない。
これはただの修行。
前世の続き。
今まで瞑想により身につけた莫大な魔力を、次は応用的に使えるように与えられた――
修行の場だ。
そう胸の内で、そっと呟く。
「仁さん、まずは俺からいきますよ」
「いいや、俺からいかせてくださいよ、仁さん」
取り巻きの二人が一歩ずつ前に出た。
「お前、この前散々九十九のこと殴ってたろ。俺はあの時、参加できなかったんだよ」
「それはお前の都合だろ。今回も俺からだ」
どちらが先に九十九穂高をいたぶるか。
そんな醜い争いをし始めた。
実にくだらない。
「取り巻きの御二方。俺は同時に相手をしてやってもいいんだが、どうだろう?」
それだと俺も一層修行になるし、相手も同時に穂高を殴る権利を得ることが出来る。
互いが得するいい考えだと思う。
しかし取り巻きの二人が、同時に顔をしかめる。
「オイ……こいつ、マジでイカれてんのか?」
「ま、でもたまには二人でボコるってのもいいかもしれねぇな!」
二人が同時に構えを取り――
屋上の戦いが、静かに幕を開けた。
取り巻きの一人が、屋上の床を蹴って飛び込んできた。
「まず一発目は俺だッ!!」
拳を握りしめ、勢いだけで振り下ろす。
動きは速いが、雑。
軌道が丸見えだ。
俺は呼吸を整え、魔力をゆっくりと体に巡らせた。
魔力は――ただ攻撃するための出力ではない。
巡らせることで、全身の感覚を研ぎ澄ませることができる。
例えば視覚。
振り下ろされる拳が、今の俺にはまるでスローモーションのように見える。
次に聴覚。
地面を擦る音。
下肢を振り上げる前動作を察知することができる。
さらに触覚では、前腕で受けた蹴りの衝撃を、上手く受け流すことができる。
「は!? なんだコイツ!?」
今の俺の対応を見て、相手は初めて表情から余裕の笑みを失った。
「当たり前だ。体が殴りに行く前に、全てを語っているからな」
「語ってる……?」
「お前は力任せに魔力を押し出している。それでは動きが粗くなる。魔力の流れと筋肉の動きが一致していないから、攻撃が読まれやすい」
「なっ……!」
動揺したのか、男の動きがわずかに止まる。
「甘いな」
俺は手刀で相手の身体を軽く払い除けた。
魔力を巡らせた指は細い刃のように鋭い。
制服に一筋の亀裂が入り、じわりと赤く服が滲んでいく。
「ぐっ……!? 痛っ……な、なんだ今の!」
男は大きくよろめいた。
「纏う魔力の密度を上げれば、このように刃にだってなるんだ」
「そ、そんなわけ……」
動揺する男を他所に、二人目が割って入ってくる。
「おいコラ! 九十九、ふざけんなよ!!」
「ふざけているのはお前たちだろう」
今度は蹴り。
勢いよく踵が俺を刺してくる。
だが、
雑。
軌道が高い。
空間が空きすぎている。
俺は体をわずかにひねった。
男の蹴りが空を切る。
「は!?」
その足を、俺は軽く手で押す。
バランスを崩した男は半回転し、そのまま大きく後ろへ退いた。
「……くっ!? なんだよこれ!」
この二人と戦って、分かったことがある。
こいつら……魔力の扱い方を何も分かっていない。
魔力の気配が粗い。
流れが乱れ、力任せに体へ押し込んでいるだけ。
五十年修行してきた俺からしてみれば、彼らの魔力は漏れまくっている壊れた水道管のようなものだ。
「だから言っているだろう。力を押し出すだけでは、魔力は整わない」
「くそ、たまたま上手くいったからって、調子に乗るなよ!!」
一人が懲りずに拳を放ってきたが、こんなものは避けるまでもない。
俺はそれを手で掴み、同時に懐へ蹴りを入れる。
「……っ!」
まだだ。
まだ終わりじゃない。
男は数歩後退するが、俺はすかさず距離をつめ、
「これが本当の拳だ!」
今出せる本気の一撃を叩き込む。
「ぐあ……っ!」
男は勢いのまま吹き飛ばされ、屋上のフェンスにぶち当たった。
五十年の修行は伊達じゃなかった。
魔力の流れが整った身体はこんなにも軽く、そしてこんなにも強いのか。
いや、それだけじゃない。
おそらくこの穂高という肉体の若さや本人の持つポテンシャルにも関係があるのだろう。
「な、なんで……お前みたいな無能が……!」
もう一人の取り巻きが声を震わせる。
「穂高が無能なのではない。穂高が力を出せる環境ではなかっただけだ」
一人は気を失い、もう一人は戦意を失った。
俺は静かに息を吐く。
「残るはお山の大将ただ一人。さぁ、どうする?」
今まで九十九穂高を散々いたぶってきた元凶。
黒田仁。
彼は今の穂高の戦いを見ても、全く揺るぎのない眼光で俺を射抜く。
「……二人まとめて、とはな」
黒田が一歩前に出た。
全身に、ドロリと濃い魔力が集まり始める。
取り巻き二人とは比べ物にならない圧。
「今までの九十九穂高じゃねぇってのはよく分かった。だが――それは所詮Dクラスでの話だ」
黒田はニヤリと口角を上げる。
「オレの推定魔力総量は、Bクラス並み。再試験をギリギリ突破している程度の実力じゃ、どう足掻いたって勝ち目なんてねぇんだよ!」
屋上の空気が、緊張で張り詰めた。
そして――俺と黒田の距離が縮まる。
「それはやってみなければ分からない」
「はっ、せいぜい殺されねぇように祈っとけ」
黒田の声が、風の中に冷たく響く。
これは八雲澄明が、五十年間積み上げてきた修行の成果、力の証明であり――そして九十九穂高の抱える深い闇、一つ目の精算だ。
そんな戦いの幕が、今あけようとしている。
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