沈める世界のソナタ

蒼波ミツハ

01.気配①

 ――あと少しで、この街は水の底に沈む。

 それでも、汐見しおみは鍵盤から手を離せなかった。


 線路脇の鉄柵が、錆びて軋む。

 換気塔は今日も白が薄く起きて見える。


 *


 昼下がりの窓は、外の濡れた空をそのまま貼り付けて佇んでいた。

 汐見は、雑巾をきつく絞り、曇った窓ガラスを縦にひと拭きした。透明の帯が一筋、部屋の空気を切り分ける。染み出した水が窓枠の角で丸くなり、重さに負けてゆっくり落ちた。

 

 一〇二号室の窓からは、いつも一本の換気塔が見える。

 幹線道路の向こう側、跨道橋の背後から突き出す蒼い背骨のような色。湿った水色は空を映しているのか、逆に空を塗り替えているのか、その境目だけが目に引っかかる。

 

 人の気配の消えた街からは、すっかり音が抜けていた。

 原因不明の流行病で外出を控える空気が続き、商店街のシャッターは半分だけ降り、バス停には間隔を空けた人影が点々とする。

 梅雨が長引き、空はここしばらく重たい雲で蓋がされたままだ。天気予報は「記録的な日照不足が続いています」と繰り返し、昼なのに照度の足りない灰色が、窓の高さでうすく揺れている。


 この街に来たのは、半ば逃げのようなものだった。

 ターミナル駅から各駅停車で十五分。幹線道路と大きな駐車場と急坂しかない、意識して選べば避けられるようなエリア。けれど近所に大手スーパーがあって便利だし、線路沿いの焼けた鉄柵の色は、子どもの頃によく遊びに行った祖母の家を思い出させた。冬になるといつも濡れていた、あの鈍い地面の色。

 ノリとヤケクソ、それから、妥協。そういう言葉で塗りつぶして決めた部屋だ。


 部屋の隅、壁際には古い電子ピアノがある。

 この街へ来るとき、譜面も賞状も、録音も録画もトロフィーも、全部置いてきた。いや、処分した。過去は軽くした。けれど、これだけは捨てられなかった。

 

 鍵盤蓋のほこりを雑巾で払いながら、汐見は自分の中の、そこだけ残った重しに気づいて、舌打ちの代わりに小さく息を吐く。捨てられなかったこと自体が、汐見は今も気に入らない。

 諦めの悪さを証明しているようで、痛みはいつだってはっきりした輪郭を残してそこにある。


 換気扇のスイッチを入れる。背中で鳴る羽根の鈍い回転に、キッチンの排水口から薄い潮と鉄の匂いが立った。鼻の奥がちくりとしみて、すぐに消える。クレンザーを撒いてシンクを磨くと、白いペーストが濡れた金属の上で途切れ途切れに溶け、スポンジの泡の縁が、海の泡立ち方に少し似た形を作った。

 

 ユニットバスの戸が、内側から小さく開いた。

 

「汐見さん」

 

 湯気の縁から、黒い髪が現れる。肩甲骨の下あたりでほどける海藻みたいなゆるい波。

 さくはいつも、昼過ぎに起きてきて、そこから長い時間、バスタブにこもる。

 今日は雨だからか、少し早い。


 朔のつぶらな瞳は、濃茶と翠を混ぜた複雑な色で、いつでも少しだけ眠たげだ。

 濡れた足裏がフローリングに水跡を置いていく。足跡は同じ形を選ばない。じっと見ていると、輪郭が滲み、やがてほどけて水に戻る。

 生理現象で片づけるには、少しだけ現実離れしている。


「長く入るなって言っただろ」

「すみません。気づくと、時間が……」


 朔はいつも、時間の切り方がうまくない。湯を止めるタイミングも、話すときの息継ぎも、いつも少しだけずれている。汐見はそれを、嫌だ、と思う前に不可解だ、と頭で受け止める。

 どちらにしても、扱い方に慣れるまでにはまだ時間が要りそうだった。

 

「タオル、ほら」

 

 バスタオルを投げて渡すと、朔は両手で受けて、素直に髪と肩を押さえた。滴が床の線を辿って流れる。ローテーブルの脚の下で止まる前に、汐見はティッシュで水の終わりだけをひと撫でした。

 

 窓の外の塔が薄く光って見えた。曇天の下でも、そこだけが眠り方を知らない。

 視線はすぐにあちらへ寄る。耳をすますと、どこからか微かな水音が混じる気がした。朔と同居を始めてからは、とくに。塔の水色は日によって微妙に違って見え、そのたびに、雨とは別の細い音を耳が拾うようになっていった。


 朔が風呂から上がったあとは、浴室の戸の隙間からうっすら潮の匂いが流れてくる。混ざる鉄の薄い匂い。汐見は台所から消臭スプレーを一本持ってきて、空中に一度だけ散らす。無香の霧。

 朔は肩をすぼめたが、何も言わない。言葉の前に、水の層が置かれているような間が、いつでもある。


 雨がほんの少し強くなった。汐見は換気扇を止め、部屋の音の地図を平らにした。

 雨音の粒が小さく、窓に当たっては戻る。


 ――朔を拾ったのは、湿った六月下旬の、月のない夜だった。


 終電を過ぎ、駅前の広場には夜に放り出された人たちのため息が散っていた。

 バスロータリーの屋根から落ちる水が、地面のタイルを丸く濡らす。風は汗と生乾きの衣類の匂いを運び、信号の赤が路面に滲んでいた。夜の隙間でしか息を継げない生きものたちが、流行病に夜からも締め出され、行き場を失って漂っている。

 汐見は小さくため息を落とし、歩き出した。濡れた肩にリュックの紐が食い込み、やけに重い。


 はじめは、不法投棄の黒いゴミ袋が置いてあるのだと思った。

 線路沿いの煤けた鉄柵の足元、駐輪禁止のカラーコーンと標識ロープの間に、彼は座っていた。

 髪がずぶ濡れで、肌は水の底の白に冷えていて、うつろな瞳が夜の色を溜め込んでいた。


「救急、呼ぶか」

 

 口に出した自分の声が、やけに遠くに聞こえた。朔はゆっくり首を振った。


「だめです」

「だめって、何が」

「すぐに、いや、あとで、たぶん……」


 ほどけるみたいな言い方だ。壊れているのか、壊れていないのか判断がつかない。

 汐見は彼の手首に触れた。手首に触れた瞬間、内側の骨のほうが冷たい、と直感するタイプの冷え方をしているとわかった。

 ためらいは半歩だけあったが、その半歩を踏み越えるくらいには、あの夜の街は静かすぎた。


「立てるか」


 肩を貸す。朔は小さく頷いて、よろよろと立ち上がった。

 オーバーサイズの黒いTシャツの中で、細い身体が泳ぐ。ふたり分の影が、線路の柵に伸びて重なった。






◇◇◇

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