ドクター・ブラッド
ハナノネ
ドクター・ブラッド
湘南大学病院の採血室は、独特の緊張感と消毒液の冷たい匂いに満ちていた。
午前中のピークタイム。ひっきりなしに訪れる外来患者の腕に、山村菜穂は淡々と、しかし正確無比な手つきで翼状針を滑り込ませていく。
菜穂は二十八歳。肩につかない程度の長さで切り揃えられた黒髪は、動きやすいよう耳にかけられ、健康的で飾り気のない顔立ちを露わにしている。淡いピンクのスクラブからは、日々の業務で鍛えられたしなやかな腕が伸びていた。
真空採血管がホルダーに押し込まれ、どす黒い静脈血がシュウッと吸い出されていく。
その背後を、異様な物体が通過した。
古びて赤茶けた毛布を頭からすっぽりと被り、中身の正体がまったく見えない「それ」は、幽霊のようにのっそりと足音を忍ばせて歩いている。毛布の裾からわずかに覗くのは、季節外れのコーデュロイパンツと、擦り切れた革靴だけだ。
採血中の患者が、ぎょっとして目を剥いた。菜穂もまた、背後の気配に首を傾げたが、業務の手を止めるわけにはいかず、不思議そうな顔でその背中を見送るしかなかった。
湘南の海風を受ける高台にそびえ立つ、十階建ての巨大な白い巨塔。
その深奥部にある『中央臨床検査室』は、病院というよりは精密機器の工場のようだった。
広大なフロアには、自動分析装置の列が何本も並び、ベルトコンベアが検体ラックを運んでいく。ウィーン、ガシャン、ピピピ、という電子音と駆動音が重なり合い、絶え間ない騒音を作り出している。
白衣やスクラブを纏った検査技師たちが、その機械の群れの間を忙しなく行き交っていた。
「さっきのやつ、再検の報告まだ?」
「あと3分です」
殺気立った空気が流れる中、日高凛は白衣のポケットに両手を突っ込み、カツカツとヒールの音を響かせて歩いてきた。
三十九歳の彼女は、その年齢を感じさせない研ぎ澄まされた美貌を持っていた。栗色のロングヘアを夜会巻きのようにきっちりとまとめ上げ、額を出した顔立ちは知的で攻撃的だ。切れ長の目はアイラインで強調され、完璧なベースメイクが疲労の影を覆い隠している。白衣の下に着たサテンのブラウスとタイトスカートが、彼女の副技師長としての矜持を主張していた。
周囲の技師たちが向ける視線には、尊敬と同時に、どこか煙たがるような色が混じっている。
凛は遠心分離機の前で足を止めた。そこでは菜穂が、分離の終わった採血管を慣れた手つきで振っていた。
クッション性の高いスニーカーを履いた菜穂の足と、七センチヒールの凛の足が向かい合う。
「忙しい?」
「ピークタイムですからね。もしかして日高さんも作業手伝ってくれ」
菜穂が期待を込めて顔を上げるが、凛はため息交じりに一枚の書類を取り出した。赤く塗られた爪先が、紙面を叩く。
「この男見なかった?」
突き出されたのは履歴書だ。添付された証明写真は、視線が泳ぎ、どこか怯えたような表情の男――名前の欄には『深見修二』とあった。
「深見修二……?検査医……あ、もしかしてうちに新しく入るっていう?」
「今日から勤務のはずなのに、姿見せなくて。私が探してこいって言われてさあ。忙しいのよ。山村さん、頼めない?」
菜穂は採血管をラックに移し替えながら、苦笑いを浮かべた。
「今はちょっと……」
断りかけたその時、菜穂の視線が部屋の隅へ吸い寄せられた。
「あ!」
巨大な生化学分析装置の裏側、配管と壁の隙間に、赤茶けた毛布の塊がうずくまり、微かに震えている。
菜穂が指さす。
「朝から気になってて……」
凛は綺麗に整えられた眉をひそめ、その不審物に向かって大股で歩み寄った。
埃っぽい機械の裏で、毛布はダンゴムシのように丸まっている。凛は容赦なくその端を掴むと、勢いよく引っぺがした。
「うわ……」
中から現れたのは、白衣を着た三十一歳の男、深見修二だった。
陽の光を浴びていないような青白い肌に、無精ひげがまばらに生えている。手入れされていない黒髪はボサボサで、長く伸びた前髪が目元を隠していた。その隙間から覗く瞳は、脅えた小動物のように落ち着きがない。痩せぎすな体は白衣の中で泳いでおり、全体的に不健康そのものだった。
深見は奪われた毛布を追って身を投げ出した。骨ばった指で必死に端を掴むと、奪い返すようにして床に寝転がり、再びその身を包み隠してしまった。
技師長室は、検査室の騒音が嘘のように遮断されていた。
マホガニーの机に座る三沢千賀子は、五十二歳という年齢を重ねた女性特有の、ふくよかで柔和な雰囲気を漂わせていた。上品なグレーのカーディガンを羽織り、パーマのかかった短い髪が優しげな顔立ちを縁取っている。だが、銀縁の老眼鏡の奥にある瞳は、すべてを見透かすように鋭い。
千賀子は履歴書を眺め、微笑んだ。
「よかったわあ。心配したのよ、迷ってるんじゃないかって」
その視線の先、机の前の床には、赤い毛布にくるまった深見が座り込んでいる。椅子を勧められても頑として座らず、床に根を生やした巨大な赤いキノコのようだ。
「あなたの優秀さはうかがってます。うちに来てくれてうれしいわ」
千賀子の言葉に、深見は毛布の隙間からわずかに顔を覗かせた。
「あい、いい、いいいよ」
言葉がつかえ、意味を成さない。重度の吃音だ。
傍らに立つ凛は、腕組みをしてその様子を胡乱な目で見下ろしている。
結局、深見は会話を諦めたらしく、毛布ごと浅くお辞儀をした。
千賀子は気にした風もなく、一台のスマートフォンを差し出した。
「これ、院内用のスマホ。あなたのアカウントはもう作ってあるから。他にわからないことがあったら日高さんに聞いてね」
「は?私が面倒みるんですか?」
凛が素っ頓狂な声を上げる。
深見はもぞもぞと手だけを出し、スマホを受け取ると、猛烈な勢いでフリック入力を始めた。その指の動きだけは、異常なほど速く、滑らかだった。
「あの、私、研究の方が、こいつ、いや、この人の世話はできません!」
凛が抗議しようとした瞬間、彼女のポケットに入っていたスマホと、千賀子の机上のスマホが同時に震えた。
ブブブッ。
二人が画面を見る。
専用メッセージアプリの通知。送信者は『深見』。
『技師長さん、よろです。でもこんな意識高い系オバ○ん、わいも相手するの勘弁ですわwww』
凛のこめかみに青筋が浮かんだ。彼女は深見を睨みつけた。
深見はとっさに毛布を頭まで被って防御姿勢をとるが、凛はそれを許さず、毛布の首根っこを掴んで無理やり立たせた。身長だけなら凛より頭一つ分高い深見だが、ひどい猫背のせいで威圧感はない。
「こっちだとずいぶんしゃべるんですねえ、深見さん」
その時、部屋の外、ガラス越しに見える検査室のフロアから、ドッと沸くような笑い声が聞こえてきた。
凛が驚いて振り返ると、作業中の技師たちが手を止めてスマホを見ながら、こちらを見てクスクスと笑っている。
嫌な予感がして、凛はもう一度自分のスマホ画面に目を落とした。
メッセージの送信先グループは――『全員』。
「何してくれてんの!?」
凛が金切り声を上げる。
その隙を突き、深見は身を屈めると、脱兎のごとく部屋の外へ逃走した。
「待ちなさい!」
追いかけようとする凛を、千賀子の穏やかな声が引き留める。
「若い人は新しい機械でも使いこなすのが早いわ」
「技師長、なんなんですかあれは?」
憤懣やるかたない様子の凛に対し、千賀子はゆっくりと老眼鏡を外し、意味深な笑みを向けた。
「患者を見ずに、患者を診る医者、ってところかしら」
「臨床検査医なんて大概はそうでしょう」
「日高さん、この間出した論文、リジェクトされたんですってね」
痛いところを突かれ、凛は言葉を詰まらせた。
「それは…予算が足りなくて追試が」
「私はテーマの新規性が弱い気がしたけど。うちで博士持ちはあなただけだから、期待してるんだけど」
凛は唇を小さく噛み、視線を落とした。研究費の不足、業務の忙殺、そして結果が出ない焦り。艶やかなネイルアートが、苛立ちを隠すように握りこまれる。
「深見さんは面白いわよ。彼の世話係におさまるか、彼を持ち駒にできるかは、あなた次第」
「持ち駒……?」
「行っていいわよ」
千賀子は興味を失ったように、手元の海外学術誌に視線を戻した。
昼下がりの検査室。
ラックには分離された血清の入った採血管が整然と並んでいる。黄色く透明な液体が、蛍光灯の光を反射している。
「お昼行ってきま~す」
同僚の声にも生返事で、凛はノートPCで英語論文を読み込みながら、実験機材を操作していた。そこへ菜穂が近づいてきた。
「あの、日高さん」
「何?」
菜穂が一枚の検査結果リストを差し出す。
「この患者さんの鉄とUIBCなんですけど、前回からいきなり下がってて、異常がないか、深見先生に聞いてみたいんですけど」
二人が同時に横を見る。
少し離れたデスクで、深見が毛布にくるまりながらPCモニターに見入っていた。画面のブルーライトが、彼の青白い顔をさらに幽鬼のように照らしている。彼は瞬きもせず、高速でマウスを操作している。
「私が見ます。貧血とかじゃなくて?」
凛が代わりに答える。
「担当医の先生にも聞いたんですけど、そういう所見はないって」
その時、二人のポケットでスマホが震えた。
『貧血www、まず疑うのは溶血だろwww。データ見るの下手か?ハカセぇ……』
画面に躍る『ハカセぇ』の文字に、凛の理性が弾け飛んだ。
「口出すな!あといちいち全員宛てに送んな!」
凛が怒鳴るが、深見は我関せずといった様子で、キーボードを叩く。
『口出してませーん どもりなんでw』
「あ、ほんとだ」
菜穂が声を上げた。彼女の手には、一本の採血管がある。
中の血清は、通常の黄色ではなく、鮮やかな赤色に染まっていた。
菜穂は深見の横に歩み寄った。
「よくわかりましたね。溶血の項目はマイナスだったんですけど」
深見は顔を赤らめつつ背け、毛布を深く被り直した。
『鉄系の試薬はヘモグロビンに近い吸収スペクトルがあるから、分光波形みればわかります。溶血の項目はギリギリ+に入らないけど数値は高めでした。時間が経ったから目視可能になったと思われます』
長文の解説が即座に送られてくる。その内容は的確で、専門的だった。
「はあ、なるほど~」
感心する菜穂の横で、凛は画面を睨みつけながら呟いた。
「なんでそっちには丁寧なんだよ」
夕刻。院内の売店は面会客や職員でごった返していた。
凛は冷蔵ケースからペットボトルのトマトジュースを取り出し、レジへと向かった。
休憩スペースに戻ると、窓から西日が差し込み、床に長い影を落としていた。
凛が紙コップにドロリとした真っ赤なトマトジュースを注ぎ、口元へ運ぼうとしたその時、検査室の方から切羽詰まった声が響いた。
検査室の空気は一変していた。
誰もが小走りで移動し、機器の操作パネルを叩いている。
「生化結果出ました」
「免疫あと10分です」
生化学分析装置の前で画面を凝視する菜穂に、凛が声をかけた。
「緊急?」
「はい。9歳の女の子、意識不明で運ばれてきて、原因は不明。臨床からも早く結果が欲しいって」
一刻を争う事態だ。原因がわからなければ治療の施しようがない。
今は結果を待つしかない、そう凛が思った瞬間、またしても、スマホが震えた。
『パラコートか有機リンかも。検査キットある感じ?』
凛と菜穂は顔を見合わせた。
「農薬!?」
二人の声が重なる。
凛は深見の席を睨んだ。彼は相変わらず毛布を被り、モニターの光を浴びている。
「根拠は?」
凛が問うと、深見の指が動いた。
『コリンがほぼゼロ。腎障害傾向。外れでもいいから調べろ。吐かせるなら早くやんないとガキはすっぐ死ぬで』
文面の冷徹さと裏腹に、そこには確信めいた焦燥があった。
「キット、あります。すぐ調べます」
菜穂が冷蔵庫へ向かって駆け出す。
深見は音もなく立ち上がると、長い毛布の裾を引きずりながら、検査室を出て行った。その背中を、凛はじっと見つめていた。
休憩スペースに、深見はいた。
凛がその後を追って入っていく。
『なんか用?』
スマホを向けてくる深見。
「女の子、助かったって。おじいさんが農家で、遊びに行ってたら納屋の農薬をジュースと勘違いしたみたい」
『誤飲の王道展開キタコレ』
凛がなめつけるように深みを見る。
「生化の結果だけで農薬の可能性が浮かんだの?」
『俺が見てんのは全部の可能性ねwww』
深見はボサボサの髪の上から自分の頭をトントンと指さし、人を小馬鹿にしたような視線を凛に向けた。目の下の隈が、彼の不気味さを際立たせている。
そして、テーブルの上に置かれていた紙コップ――先ほど凛が注いだトマトジュースが入っている――を手に取ると、躊躇なく口に含んだ。
ブーッ!
次の瞬間、深見は盛大に中身を噴き出した。
赤い飛沫が床に散る。白衣の胸元に赤い染みが広がった。
「だ、だいじょうぶ?」
驚く凛をよそに、深見は口元を拭いながらスマホを操作する。
『カフェオレじゃねえのかよ?罠すぎる。誰だよこれ置いたバカは』
「他人のもの勝手に飲むなよ……」
凛は呆れて言い返そうとしたが、ふと言葉を止めた。
赤いトマトジュースを、カフェオレと間違えた?
そういえば、彼はいつも赤い毛布を被っている。
「もしかして、色、わかんないの?」
凛の問いに、深見は悪びれる様子もなく入力する。
『それが?ま、臨床検査医になったのはそのせいだけど。俺はこの仕事に満足してる。人間は嫌いだけどデータのかたまりとして診る分には面白いからな。勘違いすんなよ。あんたみたいな意識高い系は障害持ちにはコロコロ同情し始めてマジうぜえから』
画面の向こうの悪意に、凛は唇をぐっと噛みしめた。
同情などしていない。ただ、千賀子の言葉が脳裏をよぎった。
この男の診断能力は本物だ。色が見えなかろうが、性格が破綻していようが、使える。
(こいつを持ち駒にできるか……)
凛は努めて冷静な声を出し、彼に向き直った。
「今のはいい仕事だった。カフェオレ好きならおごってあげようか?」
深見がおずおずと右手を差し出した。毛布から出た手首は驚くほど細い。
「なにその手?」
『おごるんなら、金くれ』
スマホの画面を見せつけられ、凛は目を剥いた。
「は?普通さ、そういう時って現物をもらうもんでしょ?」
深見はチッという顔をして手を引っ込め、再び毛布を深く被り直した。
『めんどくさ。だったらいいわ。俺の方が給料高いしw』
去っていく赤い塊の背中に向かって、凛は吐き捨てるように言った。
「一生トマトジュース飲んでろ!この蓑虫野郎」
(了)
ドクター・ブラッド ハナノネ @hanenone
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