おばけ傘とくるくるり

チェンカ☆1159

おばけ傘とくるくるり

 ある雨の日、公園のベンチに一本の黒い傘が立て掛けてありました。

 そこへ一人の女性が重い足取りで歩いてきました。

 びしょ濡れになっている女性の目は僅かに赤く腫れています。

「ちょいと、そこのお嬢」

 突然知らない男の声が聞こえた女性は思わず顔を上げ、辺りを見渡しました。けれども人の姿はありません。

 どうやら幻聴でも聞こえたらしい。

 そう思った彼女がベンチの前を通り過ぎようとした時、再び声がしました。

「お嬢、無視するんじゃないよ」

 女性は足を止め、声の聞こえた方をしっかりと向きました。その視線の先には、ベンチに立て掛けられた一本の傘があるだけでした。

「お嬢今こっち見てるな。そのままこっちに来い。そうそう」

 声に導かれるまま、女性は戸惑いつつも傘に近づきます。

 そして声は言いました。

「お嬢、おいらを使いな」

「……あの」

 初めて女性が言葉を発しました。

「なんだい?お嬢」

「その呼び方、やめてくれませんか」

 その言葉は少し滑舌が悪いように聞こえましたが、声の持ち主にはちゃんと伝わりました。

「そうか……じゃあなんて呼びゃいいんだい?」

「るりです。くるく、るり」

「えらいユーモアのある名前だなぁ」

「それはどうも、では」

 立ち去ろうとする女性を、声は慌てて引き留めます。

「おいこら。るり嬢、おいらを使いなって」

 女性は立ち止まると、くるりと振り返って言いました。

「……いいんです。傘持ってたら、濡れてるのが雨だけじゃないってわかっちゃうから」

「おいらは別に気にしないぞ?」

「私が、気にしますから」

「……おいらこう見えてでけぇからさ、おまえさんの顔すっぽり隠しちまうよ?」

 女性は少し考えた末に、戻ってきて傘を手に取りました。

「そこまで言うなら、お邪魔します」

「おう!」

 女性は傘を広げると、ゆっくりと歩き出しました。

「ところで、あなた何者なんですか?」

「おいらかい?どこにでもある普通の傘だよ」

「嘘つき。普通の傘は喋ったりしません」

「そりゃそうだな。まぁ、簡単に言うならおばけになった傘だよ」

「おばけになった傘?」

「そう、持ち主に忘れられたまんま何年も経つとな、おばけ傘になっちまうんだよ」

「……ほう、あなたにもそんな悲しい過去が。すみません」

 女性が申し訳なさそうに謝ってきたので、声は慌てた様子でこう言いました。

「そんな気にするこたぁないさ、るり嬢。おいらより自分のこと気にしような」

「……はい」

 女性は小さく返事をした後、誰かに語りかけるように言葉を紡ぎ出しました。

「上司に叱られたんです。『最近ミスが目立つ』って。完璧にやろうって、ミスしないよう意識しなきゃって。わかってるのに、空回ってばかり。自分が嫌になります」

 声は話を聞き終えると、真面目な調子で言いました。

「るり嬢、おいらを三回くらい回してみな」

「え?」

「いいから」

「いやでも、目を回したりとか……」

「んなこと気にすんな。いいから回せって」

「は、はい」

 女性は言われるがままに傘をくるくると回してみましたが、何も起こりません。

「何も起こりませんけど……」

「そうだな。けど、ちっとは嫌なこと忘れられたんじゃねぇか?」

「……くだらない」

 女性は口ではそう言ったものの、その顔には笑みが浮かんでいました。

「くだらなくていいんだよ。肩の力抜いて、楽に構えときゃなんとかなる!」

「ふふっ。適当なこと言うおばけ傘だこと」

「何を言うか。適当なのも結構良いんだぞ?」

「まぁ、そうかもね」

 ふと気がつけば、女性の表情と心は天気に反して晴れやかになっていました。

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