最終話 春より先に、君は散る
桜が散り始める頃、
ひよりは町を離れることになった。
症状が進んだわけではない。
ただ、このまま学校に通わせるには負担が大きすぎた。
専門の施設に移り、ゆっくり治療を続けた方がいい──
北園先生はそう説明した。
「……春のうちに行きたいんだって」
つむぎがそう言ったとき 胸の奥がひとつ、静かに落ちた。
春が終わる前に。
桜が散る前に。
ひよりは、蒼より先に散ってしまう。
出発の朝。
霧灯町駅は、いつもよりやけに明るかった。
春の光が、ひよりの肩を細く照らしていた。
薄いピンク色のカーディガン。
その袖口をぎゅっと握るひよりの手は、
まだ震えていた。
「……来てくれたんだ、蒼くん」
「当たり前だろ」
それだけを言うのが精一杯だった。
本当は、もっとたくさんの言葉が溢れてきたのに。
いま言ってしまえば、
ひよりが揺れてしまう気がした。
ひよりをこれ以上苦しませたくなかった。
「蒼くん」
ひよりが、ゆっくりと俺の方へ向き直る。
「最後に……触ってもいい?」
その声は、怖がりながら、
でもそれ以上に勇気がこもっていた。
俺が頷くと、ひよりはそっと手を伸ばした。
触れた指先が震えて、
でも、その震えはすぐに落ち着いていった。
「あ……ほんとだ……。 蒼くんだと……まだ、ちょっとだけ……大丈夫なんだね」
ひよりは笑った。
泣き笑いでも、恐怖の微笑みでもなく、
ただの、優しい笑顔だった。
「ねぇ蒼くん。
蒼くんは……私の“最後の普通”だよ。」
その言葉は、春の風みたいに軽くて、
でも胸のどこか深い場所に落ちていった。
「……ひより」
「うん?」
「怖くなったら、どうしたらいい?」
「そのときはね……」
ひよりは目を細めて、
桜が散るホームの端を見つめた。
「泣くときは……ちゃんと泣いていいんだよ?」
「……俺は、泣けないんだよ。
ずっと……泣く場所を間違えてきたから。
妹のときも……泣けなくて……」
「ううん」
ひよりは首を振って、俺の胸に手をあてた。
「蒼くんは……今、泣けるよ」
「……どうして」
「だって……ね」
ひよりの声が、すこしだけ震える。
「蒼くんは、私の涙をずっと受け止めてくれたから。
泣けない私のかわりに、いっぱい悩んでくれたから。 だから……ね」
ひよりは、静かに微笑んだ。
「蒼くんの涙は……私がもらっていくよ」
その瞬間だった。
胸の奥で何かがほどけたように、
視界がにじんだ。
泣けないはずだった喉が、
勝手に波を押し返す。
「……ひより……」
「うん」
「ありがとう……」
声にならない声のあと、
俺の頬を初めて、正しい涙が伝った。
ひよりは、その涙を見て、
とても嬉しそうに、少しだけ悲しそうに微笑んだ。
「……やっと泣いてくれた」
桜が散っていくみたいに、
ひよりの笑顔は静かに薄れていった。
列車のドアが閉まる。
「蒼くん……またね」
その声は、振り返った桜の花びらより淡くて、 だけど、どこまでも温かかった。
列車が動き出す。
ひよりの姿がゆっくり離れていく。
ホームにひとり立ち尽くす俺の頬を、
まだ涙が流れ続けていた。
春風が頬を撫でた。
「……ひより。 君のおかげで、俺はやっと泣けたよ」
その声は風に消えて、
散った桜の上に落ちた。
今年の春は、ひよりより遅れて散った。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます