アフターエピソード 風が運ぶもの
九月の海は、夏よりも静かだ。
波の音は柔らかく、風はどこか冷たい。
あの日から、澪は堤防に来ていない。
声を失ってから、
どう過ごしているのか、遥斗は知らなかった。
知ろうとする勇気も、まだ出なかった。
けれど、夕方になると、足は自然と堤防へ向かう。
海を眺めていると、
まるで澪が隣にいる気がしてしまうから。
カメラを構える。
シャッターを切る。
写るのはただの空と海。
それなのに、
どこかで澪の「す」の続きを探してしまう自分がいた。
「……馬鹿だな、俺。」
独り言は波に消えた。
「遥斗くん」
振り返ると、日向が立っていた。
今日は眼鏡を外していて、
少しだけ疲れた顔をしている。
「澪のこと……聞きたい?」
喉が詰まった。
聞きたいけれど、聞きたくない。
そんな気持ちが胸で渦を巻く。
日向は隣に座り、
海を見ながらふっと息をついた。
「……今日ね、澪、声が出なくなってから初めて、笑ったの。」
「え……?」
「声じゃなくてね。
表情だけで、すっごく嬉しそうに笑ったの。」
それだけで、胸が熱くなる。
「なんて言ったと思う?」
遥斗は無言で首を振った。
日向は、
少し泣きそうな、でも誇らしげな顔で言った。
「“あの堤防で、最後に言えてよかった”って。」
風が止まったように感じた。
「遥斗くんの前で、言えたこと。
あれ、澪にとっては……
本当に、奇跡みたいな瞬間だったんだよ。」
たまらなくなって、
遥斗は顔を伏せた。
「……俺、何も返せてなかったよ。」
「返してたよ。」
日向は即座に言った。
「澪が言ったの。
“伝わった”って。」
その一言で、視界が滲んだ。
「澪……どうしてる?」
「声はもう出ない。
たぶん、もう少ししたら学校にも行けなくなる。
でもね、毎日、嬉しそうにノートに書いてるの。」
「……なんて?」
日向は微笑んだ。
「“今日も、伝えられた”って。」
その言葉が胸に刺さる。
「声がなくても、想いは伝わる。
澪、本当にそう思ってる。」
風が吹き、日向の髪が揺れた。
「……だから、遥斗くんもちゃんと生きてよ。
澪の声が届いたんだから。」
日向は立ち上がり、
背中越しに小さく手を振った。
「また伝えてほしいって言ってたよ。
“嬉しい”とか、“会いたい”とか……
声がないぶん、いっぱい伝えてほしいんだって。」
その言葉を残して、
日向は去っていった。
堤防にひとり取り残されると、
遥斗は空を見上げた。
夏の終わりの雲が、薄い光を抱えて流れていく。
「……澪」
声に出す。
届かなくてもいい。
風が運んでくれれば、それでいい。
「俺、ここにいるよ。」
カメラを構え、シャッターを切る。
夕陽と海。
風に揺れる空気の色。
そこに澪の声はない。
でも確かに、
“想い”は、まだ温かく残っていた。
写真の中で揺れる世界に向かって、
遥斗はそっと呟いた。
「声がなくても、ちゃんと伝わるから。」
風が返事をするように吹き抜け、
海が静かに波を寄せた。
優しい、“澪の声”みたいに。
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