第4話 最後のレッスン
八月の終わり、海は少しだけ秋の匂いを帯びていた。
潮の色が深くなるたび、
澪の表情から、声の気配がさらに遠のいていくのがわかった。
その日、澪は約束の時間になっても来なかった。
堤防に吹く風はいつもより強くて、
遥斗は何度もカメラのストラップを握りなおした。
(……今日は、無理か)
そう思って立ち上がったときだった。
小さな足音が、焦げた砂を踏んでこちらへ向かってくる。
白いワンピース。
揺れる髪。
短い呼吸。
汐見澪だった。
でも、いつもと違った。
息を切らし、肩は震えて、
目は泣いた後のように赤くなっていた。
「……澪?」
澪はノートを広げようとして、手を止めた。
そして、喉に触れ、小さく息を吸う。
その一瞬でわかった。
(――もう、声がほとんど出ないんだ)
澪は何かを言おうとした。
でも、空気が漏れるだけの微かな音しか出なかった。
それでも諦めないように、喉を押さえ、もう一度息を吸う。
見ていられなかった。
「いい、澪。無理しなくて……」
言いかけたとき、澪は首を横に振った。
強く、必死に。
そしてノートを開き、震える字で書いた。
「最後に……どうしても伝えたいことがあります。」
最後。 その言葉だけで、胸が痛くなる。
「伝えたいことって……昨日の、続き?」
澪は返事をせずにノートを胸に抱えた。
そのまま堤防の端に座り、海を見つめる。
夕陽は、今日に限ってやけに大きく見えた。
「……澪。今日、来ない方が良かったんじゃないか?」
静かに訊くと、澪はすぐには書かず、
海風に濡れるような視線でこちらを見た。
やがてペンが動いた。
「来ない方がいい日は、来たくなるんです。」
「……なんだよそれ。」
「だって、遥斗さんに……伝えたいので。」
胸の奥に重いものが落ちた。
「伝えたいなら、ノートでも伝えられるだろ。」
そう言った瞬間、澪の手が震えた。
ノートに、ゆっくり三行書かれた。
「これは……声で言いたいんです。この気持ちだけは。文字じゃなく、声で。」
その言葉は、どんな叫びより痛かった。
澪の喉は、もう声を出せないのに。
そのとき、少し離れた場所から足音がした。
日向だった。
ただ、いつもの強気な雰囲気がなかった。
代わりに胸の前で両手を握りしめ、迷ったように立ち尽くしていた。
「……澪。 本当にもう、声は戻らないんだよ。」
その言葉に、澪はゆっくり目を閉じた。
わかっていたのだろう。
それでも、揺れる睫毛が痛々しいほど震えた。
日向は遥斗に向き直った。
「お願い。
これ以上……澪に“言わせよう”としないで。」
「……俺は、何も」
「違うの。
澪が、あなたに言いたがってるの。」
その声には、姉としての優しさと、どうしようもない覚悟が混じっていた。
「澪はね、声を失ってから、
ずっと“言いたい言葉”を抱えてた。 無理して歌おうとして、そのたびに喉を痛めて……。
本当は、とっくに声なんて出せなかったの。」
遥斗は言葉を失った。
日向は澪の横にしゃがみ、頭を撫でた。
「……もうおしまいなんだよ、澪。
“声で伝える”って願いだけは……届けられない。」
澪は強く首を振った。
涙が頬を伝う。
それでもノートを開いて書いた。
「最後に、一つだけ。一言だけ……声で言わせてください。」
日向は顔を背けた。
泣きそうだった。
「澪……そんな顔しないで。
声を出すたびに喉が壊れていくの、見てられないの。」
澪はノートに、
小さな、小さな字で書いた。
「怖いです。でも、言いたいんです。」
“怖い”なんて、初めて聞いた。
言葉にできない想いが胸に広がり、
遥斗は息を飲んだ。
「……澪。最後のお願いって、なんなんだ?」
澪はそっと喉に触れ はじめて自分から遥斗に近づいた。
距離はほんの一歩分。
そして、ノートの最後にこう書いた。
「声が消える前に。あなたに、聞いてほしい言葉があります。」
夕陽が海に沈んでいく。
風が、澪の髪を揺らす。
まるで、最後のレッスンの始まりを告げる合図のように。
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