第3話 – 学校の天使がいつの間にか俺のお隣さんになっていた
週末の昼下がり、黒髪に黒い瞳の男が公園のベンチに座り、携帯に夢中になっていた。
真剣な表情で、両手の親指が素早くキーボードを叩き、片足をもう一方の足に乗せ、ベンチにもたれかかっている。何かに集中している。
ふと視界の隅に、鮮やかな青色の何かが映った。
「…ん?あいつここで何してんだ?」
顔を上げると、左側の小道のはるか先に、見覚えのある少女がスーツケースを引きずりながら、大きなリュックを背負って歩いているのが見えた。
明の目は少女の行く先を追ったが、やがて彼女が住むアパートの建物に入っていくのを見た。
頭には疑問が渦巻いていたが、彼が執筆中のライトノベルの原稿がまだ完成していないことを思い出した。
「まあいい」
とりあえず明は、他人のことを気にかけるより自分の仕事の方が重要だと感じ、うつむいて再び書き始めた。
明がライトノベル作家になってから2ヶ月が経っていた。彼の書いたライトノベルの一つが、MF文庫Jの新人賞を受賞したのだ。
MF文庫Jとは、日本最大の出版・アニメ企業である角川グループに直結する、有名なライトノベル出版レーベルである。
現在、彼は来月の締め切りまでに原稿を仕上げるのに忙しくしている。
そのため、彼は本当に忙しいのだ。見せかけの忙しさでも、人生に何の価値も生まないことに時間を費やしているわけでもない。
気づけば時間はあっという間に過ぎ、太陽の光はオレンジ色に変わっていた。
「もうこんな時間か…」
彼はもう一度携帯電話を確認し、作業した内容がすべてきちんと保存されていることを確かめてから、立ち上がってストレッチをした。
「帰るか。」
彼は携帯電話をズボンのポケットにしまい、だるい足を引きずりながらアパートへと帰路についた。
チン……
エレベーターのドアが開くと、すぐ目の前で見覚えのある少女がドアの前で戸惑っているのが見えた。
彼はすぐに足早に近づいた。
「何してるの?」
「あっ!…あ、あなたでしたか」
一瞬、明は優奈の体が少し後ろに跳ねたのが見えた。心のどこかで、自分の挨拶の仕方を改めて考え直すべきかもしれないと思った。
とはいえ、彼はそんなことにはあまり気にしていなかった。
「あの、白石さん——」
「あ、いえ、すみません。あそこに住んでいる人、どなたかご存知ですか?」
優奈は彼らの隣にある黒いアパートのドアに目を向け、そこに住んでいる人について尋ねた。
ドアの近くの壁には、そこに住んでいる人の家族名がはっきりと書かれていた。明はすぐに自分の家族の名札を指さした。
「…ユミウラ…さん!?」
「あ、あの、そこに住んでるんですか?」
「うん。で、どうしてここに来たの?」
優奈は顔を背けた。目の動きと冷や汗から、明は彼女が緊張しているか、わざと間違えた答えを探しているのだろうと推測した。
明は優奈の背後にある隣のアパートのドア近くのネームプレートを見た。そこには「白石」と書かれていた。
「なるほど。」 明はそれを見てすぐに理解した。
「一人暮らし試したいのか?」
数日前に明が優奈を家まで送った時の様子から、優奈が裕福な家庭に生まれたことは明らかだった。
だから、今考えられる可能性は、優奈が親元を離れて一人暮らしを試しているということだけだった。
「え、えっと…まぁ....」
突然優奈が悲しそうな表情を浮かべたため、明は自分が何か間違ったことを言ったとすぐに気づいた。
「こ、これどうぞ」
明が謝罪したりさらに質問したりする前に、彼女は丁寧に包装された白い包みを取り出し、直接明に差し出した。
「失礼します。」彼女はすぐにアパートに駆け込んだ。ドアをかなり強く閉めた。
明は呆然と立ち尽くし、手の中の白い包みを見つめ、目を上げた時にはすでに閉ざされたアパートのドアしか見えなかった。
彼は自分が言ったことに何が間違っていたのか、まったくわからなかった。あるいは優奈が彼のそばにいることに居心地の悪さを感じていたのかもしれない。
明は自分のアパートに戻った。起こったことに対して罪悪感を感じていないと言うのは嘘だった。...
「ニャー、ニャー…」
アパートの前の公園の近くを学校から帰る途中、優奈は突然猫の鳴き声を聞いた。
優奈が上を見上げて確認すると、木の枝の上に白い猫が怯えながら助けを求めて立っていた。
「あっ、待って、すぐ助けるから」
優奈はすぐに走り出し、公園のエリアに入り、猫が閉じ込められている木の下へ向かった。
考えもせずに、彼女はカバンを落とし、すぐに木に登り始めた。必死に木を抱きしめながら、上へ上へと登っていった。
「…はあ…おっと...…っ」
滑りそうになったが、幸い優奈は手の届く枝の一つに掴まることができた。
ようやく優奈は安堵の息をつき、猫が閉じ込められていた枝に足を踏み入れることに成功した。彼女は腰を下ろし、両手を開いた。
「おいで…猫ちゃん」
「ニャー。」
以前とは違い、白い猫は嬉しそうに、ゆっくりと優奈の膝の上に登ってきた。
優奈が優しく撫でると、猫はゴロゴロと喉を鳴らし、頭を擦り寄せてきた。
「…ふふふふ。」
ギシッ…
突然背後から大きな音が響き、優奈は反射的に音のする方へ振り返った。
(…!?)
彼女が座っていた枝が剥がれ落ち、上に乗った重みに耐えきれなかった。
「あぁぁぁ...…!」
枝が折れた。優奈は猫と共に地面へ落下した。
バン!
幸い下には何もなく、地面に直撃したものの無事着地した。
「…んん…」
彼女は自分の手を見た。厚手の長袖の制服ブレザーを着ていたため、手には傷はなかった。
しかし、手のひら、特に手の甲は、地面の小石との衝突や摩擦で傷ついていた。
ストッキングは少し破れ、足にも同じ傷があった——太ももからふくらはぎにかけて。それは大きな傷ではなく、散らばった小さな傷だった。
「…んん......痛い…」
「ニャー…」
同じ猫が近づいてきて、彼女の膝の上に登った。
「ニャー、ニャー…」
猫は大きな声で鳴き、その表情からは、今まさに自分を助けようとした人の状態を深く心配しているのが明らかだった。
「…大丈夫ですよ…」
優奈は右手で白い猫を撫でながら、傷ついた左手を足の上に置いた。猫のすぐ横に。
「ちょっと待ってね…」
優奈は猫を横にずらした。手と膝で押し上げるようにして、立ち上がろうとした。
右足が地面に着いた時、左足も踏み出そうとしたが――
「痛っ——」
突然、左足首に激痛が走った。左側を頼りに転んだ姿勢が、左足を捻挫させたようだ。
彼女は再び倒れ込み、足首を握りしめ、湧き上がる痛みに必死に耐えた。
「……んん……」
涙が長いまつ毛を濡らした。涙を堪えきれず、体が震えた。
彼女は足を前に引き寄せ、涙を拭うとゆっくり揉みほぐした。足が時々痙攣するため、優奈は揉むのを止むを得ず中断した。
同じ白い猫がまた近づいてきた。不安そうに鳴き、その声は以前より大きく、助けを求めているようだった。
優奈は時々振り返ったが、痛みを和らげようと必死で、一瞬だけ猫を見た。
小さな路地から、まだ制服を着てカバンを持った明が、猫の大きな鳴き声を聞いて振り返った。
そこには、痛みに耐えながらうずくまり、自分の足を揉んでいる優奈の姿があった。
前の出来事が彼女に躊躇いを抱かせたにもかかわらず、彼は公園へ入り、彼女の元へ向かった。
目の前に誰かの足が止まるのを見て、優奈は顔を上げ、目の前に立つ明を見つめた。
「…ユミウラさん…」
明は応答せず、振り返りもせず、反応もしなかった。彼は周囲を見渡し、すぐ近くに大きな枝が転がっているのを見つけた。
「なるほど」
明は現場を一瞥しただけで、彼女に何が起きたのかを即座に理解した。
猫、それに折れた木の枝。優奈ほど賢い少女なら、安全に踏める枝かどうかは理解しているはずだ。
そして地面にあるその枝は、かなり太いものだった。だから明は納得できた。そんな枝が、優奈と白い猫の体重だけで折れるはずがないからだ。
おそらく原因は、枝自体が脆すぎたか、あるいは木自体が老朽化していたのだろう。
彼はひざまずき、優奈の手を握って持ち上げ、すべての傷を確認した。
「…立てるか?」
優奈はうつむいて首を振った。一方で、先日の出来事の後、明と直接会うことにまだ躊躇していた。
昨日、優奈の感情はまだ朝に起きた出来事の後で安定していなかった。
優奈はあのような状態で明をすぐに置き去りにするつもりはなかった。しかし、気づいた時には、彼女はドアの陰に丸まっていた。
だから、どうすればいいかわからなかったし、彼に会う顔もなかった。
当面は明に頼るしかなく、彼にできることを任せるしかなかった。
彼女は理解していた。ヒトリグリの初心者である自分に、できることは何もないのだと。
胸に渦巻く複雑な感情と、頭の中で戦いを繰り広げる様々な思いを押し殺しながら、彼女は息を整え、目の前にいる男の助けを受け入れた。
「ストッキングを外してみて」
一瞬、肩がすくむ。明の最初の要求に驚いたのだ。頬を赤らめ、ゆっくりと横を向いた。
「…ダメじゃないですか」
明は疲れたように息を吐いた。またしても、彼を不快にさせることをしてしまった。
男として、彼はすぐに自分が女性に対してどれほど無能で鈍感であるかを悟った。
そして心の奥底で、冷酷な声が囁いた。「だから今まで彼女いないだよ」と。そして自らを憐れみ始めた。
彼はブレザーを脱ぎ、片端を握ったまま空中に投げ上げた。
そのブレザーは自然に優奈の足元へ落ち、優奈がそんな行動を取った原因を覆い隠した。
「これでいいだろう?」
「…うん。でも、あっち見てください」
女の子として、他人に足を見せるのが恥ずかしいのは当然のことだ。ましてや同年代の男性なら尚更である。
少なくとも、優奈のように異性に対して羞恥心を持つ純真な少女にとっては、ごく当然のことだった。
明は優奈の意図を理解し、すぐに振り返って、優奈がストッキングを脱ぐためのプライベートな空間を与えた。
「…もう大丈夫です。」
優奈が用事を済ませたのを聞くと、明は振り返って鞄を置いた。
彼は鞄を開けて何かを取り出した。
「…そ、それは?」
「マッサージオイル。これ使うとその傷が良くなるだろう」
学校にマッサージオイルを持ってくる理由はない。確かに、それは理にかなっている。
しかし、そのマッサージオイルは、明が今朝学校に行く前に買ったばかりのものだった。
アパートにある分が切れたので、新しいものを買ったのだ。
でも、学校から帰ってから買い忘れるのが嫌だったので、早めに買った。
自分でもこんなに早く使うとは思っていなかった。
明はそれを開け、優奈の足に少し垂らした。蓋を閉めずに、横に置いた。
また開ける手間を省きたかったのだ。
明は床に座り、優奈の足を膝の上に載せて、ゆっくりマッサージし始めた。
「…んん…」
明がマッサージを始めた途端、優奈の足が急に硬直した。
明が優しく、強く押しすぎずに揉んでいるにもかかわらず、その重い痛みは優奈の捻挫がどれほどひどいかを示していた。
優奈は片目を閉じ、痛みに呻きながらも、もう片方の目だけは開けたまま、明が自分の足を揉む様子を見つめていた。
痛みがかなり和らいだ後、彼女は息を整えると、好奇の眼差しで明をちらりと見た。
彼女は、話すべきか、それとも黙っているべきか迷った。
結局、彼女は口を開くことに決めた。
「あの、湯三浦さん、昨日のことなんですが……その……ごめんなさい」
一瞬、明はどう応答すべきか戸惑ったが、考えながら優奈の足を揉み続けた。
「…なんか、俺も、ごめん。昨日、あんたの気持ちうっかり傷ついってしまったんだな。」
「ううん、違います。昨日の夜に起きたあの出来事の後、私の気持ちはまだ落ち着いていません。」
「家族の喧嘩?」
「…あなたには関係ないです。」
それは確かにそうだった。明はまたしても、気づかぬうちに踏み込むべきでない領域に足を踏み入れていた。
しかしこれで明らかになった。優奈が一人暮らしを選んだ理由は、全てを引き起こした家族の問題があったからだ。
「…また、ごめん。」
「いいえ。」
明は気づき、すぐに謝った。
優奈は、明がこれ以上踏み込まない限り、あまり気にしないようだった。
その理由で、彼は引き下がることにした。家族の問題はプライベートなものだ。
明のような部外者が関わるべきことではない。少なくとも、今のところは。
明は、もし深く関われば面倒な家族と対峙することになるだろうと理解していた。
だから、用事がない限りこれ以上関わるつもりはなかった。
今の二人の関係は、たまたま隣同士に住んでいるだけの隣人に過ぎない。それ以上のものではない。
「痛い。」
優奈は、明が特定の部位を押した時に突然痛みが走ったため、反射的に足を引っ込めた。
「おい、こら、ひっぱらないで。」
明は優奈の足を掴み、再び自分の膝の上へ引き寄せた。
彼はすぐに、押した時に優奈が足を引っ込めた箇所を調べた。
「ご、ごめんなさい」
明は慎重に優奈の足首を揺らし、足の筋肉が十分に緩んでいることを確認し、次にすべき準備を整えた。
明は捻挫した足首の近くで、優奈の足の前後を指で押さえた。
「…もうちょっと我慢して」
「あん…...っ」
明は躊躇なく痛む部分を叩いた。
瞬く間に、優奈の足首の筋肉が特有の音を立てた。
思わず両肩が跳ね上がり、目を閉じた。静電気のような衝撃を感じたのだ。
捻挫した足のこわばりと痛みが、明の熟練した指圧によって和らいでいく。
ゆっくりと明は優奈の足を膝の上に載せ、「動かしてみて」と、まだ痛みがあるかどうか確認させた。
ゆっくりと優奈は足を動かした。「おぉ…」と呟き、足がもう痛くないことに驚いた。
まるで以前感じていたあの激しい痛みが、過ぎ去った悪夢のように思えた。
立ち上がろうとしながら、明はマッサージオイルのボトルを取り出し、蓋を閉めてバッグに戻した。
彼は手を差し伸べた。「ちょっと立ってみて」と、彼女が自力で歩けるか確かめたかった。
優奈はそれを受け入れた——明は彼女を引き上げ、立ち上がるのを助けた。
優奈が立ち上がると、明は素早く彼女の落ちかけたブレザーを拾い上げた。
「…もう痛くない。」
「それは良かった」
優奈が自力で立てると確認すると、彼は手を離した。元通りになった彼女を見て嬉しそうに微笑んだ。
彼はバッグの中から何かを取り出すため、膝をついた。
バッグの中から、明は自分のスウェットパンツを取り出すと、優奈に近づいて手渡した。
優奈はそれを受け取り、無邪気な表情で明を見上げた。
彼女の顔は赤くなり、目の前の男性を呆然と見つめた。
「この後、ちょっと用事があるから。じゃ。」
ここでの用事が済んだ以上、彼女と一緒にいる理由はない。
彼は振り返らずに公園を出て、後ろに残された優奈にそっと手を振った。
優奈は思わず手を挙げた。彼に感謝する間さえなかった。
繊細で敏感、そして頑固な性格。しかし、言葉では言い表せない優しさを秘めている。
そんな彼女にとって、明が人生で誰よりも気にかけてくれたことは、温もりを感じさせるものだった。
だからこそ、彼が自分から離れていくのを見たとき、胸のどこかが締め付けられるように感じた。
自分でも、今自分が何を感じているのかわからなかった。
今日、明は書き上げたライトノベルの原稿を出版社に提出しにいくことになっていた。
締め切りはまだ先だったが、早めに提出することに決めた。
まだ新人だから、編集者から原稿に関するアドバイスをもらえるかもしれないと思ったのだ。
「あら、湯三浦先生、いらっしゃい。もう来たんですね」
眼鏡をかけた、ミルクチョコレート色のロングヘアの可愛い少女が、丁寧に挨拶した。
声は柔らかかったが、こう呼ぶのは失礼かもしれないが……彼女からは強いオタクのオーラが感じられた。
以前、明は彼女に、自身の作品第三巻の原稿を提出しに来ると伝えていた。
だから彼女は、明が来ることを知っていて、迎えに来ていたのだ。
彼女は明のライトノベル原稿と、他の新人ライトノベル作家数名の担当編集者だった。
多くの人が言うには、この明の前の編集者である田中春香は、昨年大学を卒業したばかりだという。
「はい、こちらが私の作品の続きです」
「はい、拝見しました」
明は分厚い茶封筒の書類を春香に渡した。彼女は柔らかな笑顔で受け取り、赤らんだ頬が可愛らしく見えた。
「湯三浦先生の作品はすごく甘い恋愛話なんですから、私個人としても楽しみです」
「あははは、そうなんですか。気にいてもらえたなら、嬉しいです。」
「それでは、よろしくお願いします。」
「はい、お任せください。」
明は振り返ると、すぐに出口のドアへ向かった。春香は分厚い封筒を抱え、優しい笑顔で彼の去り際を見送った。
座る前に、彼女は手にした茶色の封筒を見つめ、大きく微笑んだ。
「さて続きはどうするかな…」
彼女が明のライトノベルの続編を心待ちにしていたのは、嘘ではなかったようだ。
彼女はすぐに封筒を開け、中から分厚い紙を取り出した。
春香は茶色の封筒を机の上に置いたまま、手にした分厚い紙にだけ集中した。
それを机に置き、注意深く読み始めた。ファンであり、責任ある編集者として。
「へえ…」
しかし、しばらくの間、彼は仕事を放り出すつもりらしい。
ふと、彼が初めて明のライトノベルの原稿担当になった時のことを思い出した。
原稿を全部読み終えるために夜を徹し、日が昇りかけていることすら忘れてしまい、数時間後にはまた仕事に戻らなければならなかった。
「へへ、あの時はヤバかったな…」
「まあ、でも…そんなことはもう二度とないはず」
「じゃ、読む時間だ…!」
自分の机で、春香は受け取った原稿を一行一行読み進めた。結局、午前3時まで起きていた。
目の前にある小さな時計に目を向けた時、初めてそれに気づいた。
「へっ!?」
愛必要の天使様は、自分の気持ちに嘘をつけない件 @ShiromineAira
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