第3話「重力のほつれ、感情のノイズ」
レース会場の朝。
2スト特有の甘く油の混じった匂いと、地面に染みついたゴムの焦げた臭いが漂っていた。
あちこちでエンジン音が跳ね、乾いた爆ぜる音が冬空に散る。
──パパンッ、パーン。
──ポ、ボンッ、ポッ……。
高音で弾けるスクーターの音、
低く湿った蒸気船のようなVESPAの音。
二つが混ざり合うと、まるで“別々の心臓”が鼓動を打ち合っているようだった。
マサオはヘルメットを脇に抱えながら、自分の胸がざわつくのを感じていた。
(……まただ。朝から “ノイズ” が多い)
人の雑多な感情が、薄い霧みたいに耳をかすめてくる。
嬉々とした高揚。
緊張に潰されそうな呼吸音。
誰かの小さな苛立ち。
ほとんどゴミみたいな感情の粒。
全部、拾ってしまう。
しかし、以前よりは“距離”を置くことができた。
自分の意思でボリュームを下げる技術も、ある程度は身に付いてきた。
(……あの時よりは、まだ楽だ)
ただ、それでも長時間使えば頭が割れそうになる。
ポケットには常に頭痛薬を入れていたが、使えば使うほど効きが鈍くなる気がして、できるだけ頼りたくなかった。
***
ライダーズミーティングが終わり、試走時間。
マサオはコースインした。
VESPAの2ストは、回転が上がると機嫌よく跳ねるような音を出す。
──ボッ、ポポポッ……ボーーン!
ハンドルに伝わる微細な振動が、指先を通して神経に刺さるように鮮明に届く。
(……調子いい)
その瞬間、ふっと視界の端に 薄紫色の点 が見えた。
あのJOGだ。
さっきの少年──名前も知らない、黒いMA-1のまま乗っているあいつ。
「なんで、ここに……?」
偶然とは思えない。
だが、彼はこちらに気づいていない様子で、淡々とコーナーを攻めていた。
奇妙な違和感があった。
JOGというより、彼自身が“地面に吸い付いていない”。
例えば──
倒れそうなのに倒れない。
滑りそうなのに滑らない。
重力の糸が、ほんの一瞬「ほつれて」いるような。
「……なんだ、あれ」
目を凝らすと、ほんの数センチだけ、前輪が地面から浮いているように見えた。
(いや……気のせい、だろ)
次の瞬間、少年は大きくバンクしながら急なS字を抜けた。
通常なら肩がすくむようなバンク角なのに、ホイールは滑らず、車体は吸い付くように曲がる。
走りが軽い。
明らかに“常識の摩擦”から、少しだけ外れている。
(……まさか、あいつも……?)
そう思った瞬間、マサオの胸にまた “声” が割り込んできた。
──息、もつよな……
──いける……まだいける……
──せっかく今日、来れたんだ……
──絶対、負けたくねぇ……あのVESPAには……
(……!)
感情の波がギラリと刺さる。
純粋に“走りが好きな気持ち”と、“自分のスタイルを貫きたい衝動”が混ざっていた。
“名前も知らないのに、何かがリンクしている。”
マサオは、心臓が少し跳ねた。
***
周回を重ねるたび、頭の奥がじわりと痛み始める。
能力の“回路”を走らせすぎると、決まってこうなる。
(……やばい、来た)
エンジン音が遠くなり、視界がわずかに滲む。
こめかみを叩くような痛みと、喉の奥から上がってくる吐き気。
「……っぐ」
アクセルをゆるめ、コース外に避難した。
ハンドルの影でこっそり頭痛薬を口に含む。
息を整えていると──
ふいに、薄紫色JOGの少年がスッ……と隣に停まった。
こちらを見る。
ヘルメット越しでも分かる、戸惑いと興奮が入り混じった目。
だが少年は何も言わず、すぐにまた走り出した。
心の声も聞こえなかった。
彼は、息を止めていた。
(……息を止めて、能力を使ってる?)
理解できない。
けれど、確信だけはあった。
あいつも“ズレてる”──自分と同じ匂いがする。
***
試走が終わる頃、頭痛薬が効いてきた。
マサオは空を見上げた。
冬の雲は薄い。
それに比べて胸の奥は、妙にざわついている。
(名前……聞けば良かったのか?)
でも、それはまだ少し怖かった。
あの少年と深く繋がった瞬間、自分の中の何かがまた“暴れ出す”気がしたから。
ただひとつ分かる。
今日。絶対に、避けられない瞬間が来る。
大会の開始が近づいていた。
二人の奇妙な距離は、まだ“出会い”とは呼べない。
けれどその境界線は、もうすでに震え始めていた。
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