第2話「始動する朝、まだ触れない鼓動」

レース会場のパドックは、朝日と白い息で満ちていた。

遠くで2ストのエンジンが何台も目を覚ます。


「ポッ……ボッ……ポンッ……ボボッ……」


Vespa50の乾いた音は、他のスクーターと比べても異質だ。

蒸気船のように脈打ちながら、低く熱をためる。


マサオは工具箱の横で、自分の胸を押さえていた。


(……今日、使うかどうかだ)


能力——

感情の強さと集中度で、遠くの“雑音”まで拾ってしまう。

制御すれば、相手のアクセルのリズム、ライン取りの迷い、

ブレーキングの一瞬の“ためらい”まで感じ取れる。


ただし、代償がある。


「……っ!」


こめかみが内側から殴られたように痛む。

使う前から、体が“拒否反応”を覚えていた。

頭痛薬のシートを取り出すが、飲むかどうか一瞬迷う。


(薬に頼るとクセになる……今日は、まだやめとくか)


冷たい空気を吸い込み、ゆっくり息を吐いた。


***


その頃、離れた場所――

薄紫色のボロいYAMAHA JOG の横で、翔也もまた準備をしていた。


彼のジョグは2スト特有の鋭い高音を響かせる。


「パパンッ……パパパーンッ……!」


見た目はただのボロい通学スクーター。

なのに、アイドリングは妙に安定している。


翔也は深く息を吸い——

そして、一瞬だけ、息を止めた。


その瞬間、

ジョグのフロントフォークが、わずかに“軽く”なる。


ほんの数ミリ……いや、

計れば3センチ浮いているのかもしれない。

本人もよく分かっていない。


ただ、これをやると——コーナーで絶対に転ばない。

タイヤが地面と“喧嘩しない”から。


「……っぷは!」


息を吐いた瞬間、前輪は普通に戻る。

翔也は額を拭った。


(なにこれ……やっぱ、俺、ちょっとおかしいのか?

 でも……使える。今日、使うしかない)


翔也は、さっきの交差点で見たベスパの少年を思い出した。


──なんであの人、目が離せなかったんだろ。


──なんで、胸がざわざわしたんだろ。


名前も知らない“あの人”と同じレースに出ることを知った瞬間、

心の奥でなにかが燃えた。


(勝ちたい……あの人に。

 いや……勝てなくていい。

 せめて、あの人の記憶に残りたい)


翔也は、誰にも聞こえないように小さく笑った。


***


マサオのパドックに、別のレース仲間が声をかけてくる。


「マサオ、そのベスパで本気で上狙うの? 無理すんなよ」


「……さぁな。エンジンは調子良い」


(あと、俺の頭がもてばな)


また痛みがぶり返す。

マサオは胸の奥をそっと押さえた。


その時、遠くで鋭い2ストの音が響いた。


「パ、パパーンッ!!」


風のように、薄紫のジョグが走り抜けていく。

その横顔を見た瞬間、

マサオの中で“あの残響”がよみがえった。


──あの人……


──なんで、こんなに気になるんだろ……。


声じゃない。

波のように流れてきた“感情”だけ。


(また聞こえた……これは、やっぱり)


痛むこめかみを押さえながら、

マサオは自分の中の“何か”が

また動き始めていることに気づいた。


***


レース開始10分前。


スタートラインに並んだ時、

マサオが自然と横を見ると、

そこには例の薄紫ジョグがいた。


互いに名前も知らない。

まだ一言も交わしていない。


でも——

緊張でも、敵意でもない、

もっと奇妙な“磁力”がふたりを引き合わせていた。


翔也は小さく息を止める。


マサオは頭痛を押して視界を研ぎ澄ませる。


二人だけの世界が、スローモーションのように静まり返る。


そして――


ライトが赤から青に変わる。


次の瞬間、

乾いた2ストエンジン音と鋭い2ストエンジン音が、

冬の空を切り裂いた。


ポッ・ボッ・ポンッボボッ!

  パパンッ・パパパーン!!


まだ交わらない二つの能力。

まだ知らない二つの名前。


ただ、運命だけが

確かに回転し始めていた。

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