調停の炎焔(ほむら)

トニコ

第1話

◆序章◆ 理(ことわり)の帰結


天正十年六月二日、未明。


京の夜気は湿り気を帯びていた。梅雨入り前の重く、肌にまとわりつくような空気とともに立ち昇る紅蓮の炎が新たな層を連ねている。

赤黒い瘤のような煙が寺の屋根から噴き上がり、火の粉が夜空に弾けるたび、境内の輪郭が震えて歪んだ。


堂内はすでに「寺」としての落ち着き、静謐を失っていた。梁(はり)は悲鳴のように軋み、火の舌が木材を舐め尽くすたび、古い漆喰が爆ぜて粉塵となり舞う。熱は近づくにつれて指先を焦がすように変質し、呼吸は乱れ、眼から涙が滲む。影が生き物のように伸び縮みし、仏像の面は炎の照り返しで表情を失い、熱気が空間を何度も揺らめかせている。


床には、熱で黒ずんだ瓦片と、崩れ落ちた格子の破片が散らばる。油の臭いが濃く、揺れる気流が香と煤を混ぜ合わせて、伝統的な香りを一瞬にして食い尽くしていた。

僧の読経は聞こえない。あったはずの秩序が消えた場所では、声も音も燃え尽きるまでしか存在を許されない。


その混沌の中で、若い侍たちが必死に主君を囲んでいた。


「殿──! まだ道はございます、こちらへ!」


「火の手が回る前に、裏口より……!」


刀剣の金具が焦熱で軋み、汗が額を流れる。

誰もが恐怖に追われている。しかしその目には、逃亡ではない、“生かす”ための執念が宿っていた。


だが、その中心にいる人物だけが、別の世界に立っているかのようだった。


燃え落ちる梁の影を背に、殿と呼ばれる人物は静かに炎の先を見据えている。焦げた煙で涙がにじむ。それでも、その眼差しは妙に澄んでいた。


「退け。焦るな」


静かなその声が、逆に家臣の胸を締めつけた。


達観。

諦念ではなく、状況を“読み切っている”者だけが持つ冷徹な理解。


それでも家臣たちは諦めない。

幾人かは火の粉を払いながら、その人物、織田上総介信長の肩に手を伸ばしかける。


「殿をお連れせねば我らの面目が立ちませぬ!」


「これしき……退路さえ確保できれば──!」


信長はわずかに目を伏せ、その決意を受け止めながらも静かに言う。


「……もう遅い」


それは家臣を責める言葉ではなく、自らの残る時間を量った上での確認のようだった。


——そしてその外、炎に照らされた境内では、漆黒の甲冑を纏い、静かに馬に跨る人物を映し出す。

その周囲を側近と思しき供回りの兵たちがまったく別の焦りに追われていた。


「未だ信長発見の報、御座りませぬ……! まだ討ち果たせてはおらぬ模様!」


「火の勢いが強すぎるとの由、兵が奥へ踏み込めませぬ!」


焦燥と混乱が入り混じる声が、夜気の熱と共に馬上の人物の耳にも届く。

側近たちは槍を手に走りながら、指示を仰ぐように何度も振り返った。


「ここで取り逃がせば……!」


「間に合いませぬぞ!!」


焦りは理解できた。

だがその人物、惟任日向守光秀は、炎を見つめる眼を動かさず答える。


「急くな。時は──まだ動いておる」


その声音は、側近たちの荒れる胸中とは対照的に、深い静けさを帯びていた。


光秀は、頬を撫でる熱風を感じながら、その炎をじっと見据えていた。

鉄の匂い、焼けた木材の裂ける音、風に乗って流れてくる油の焦げた臭気。

そのすべてが、光秀の胸の奥に、冷たいものと熱いものを同時に押し流すのだった。


昂りはない。

自らの名誉を賭した鼓動のざわつきもない。

あるのは、巨大な水門を閉じるために全身を使い果たしたような重い疲労と目の前の仕事が終わったという静かな確信であった。


(時を稼がねば……いや、今少し戻さねばならぬ)


光秀の胸中で、はっきりと言葉が形になる。

この十年、彼が対峙してきたのは「織田信長」という、時代の器に収まりきらない“巨大な異物”だった。


織田信長。後世の者がどう評価しようと、その本質は保守的であった。しかしその政策のあまりに苛烈で合理的な側面は、信長を古くから知る者たちから見ても「うつけ」としか映らぬ。信長が行う簡略化された効率的な運用は、伝統的な秩序や手続きといった面倒だか根幹に必要なものを破壊する異質な思想に他ならぬ。


ワシはその異物が放つ思想の鋭さを丸め、この国の体質と擦り合わせ、軋みを和らげるために尽力してきた。

言わば、この仕事は信長の思想と旧体制の間に入って破綻を免がせること。つまりワシ自身の人生を賭した、「調停」であったはず。


しかし、その思想は余りに切れ味が鋭く、そのスピードは余りに速すぎた。このまま放置すれば、ワシの…いや、調停や調整という名の知恵で制御できる段階を超え、国という器そのものが、軋みの末に砕け散る。


ゆえに、苦悩の末、決断した。

ここで一度、無理やりにでも時の流れを止めるべきだ。と、

その「政治的決断」が、今、夜空を焦がしておる。


そして、その夜空を焦がす根源である本能寺。

その堂内では、織田信長が燃え落ちていく梁の影を背に、最後の時を迎えつつあった。


信長は怒りに身を震わせることもなく、むしろ、燃え盛る本能寺を俯瞰しているかのように炎の先にある外の気配を読み取ろうとしていた。

焦げた煙が目に染みて涙がにじむ。だがその目は、なおも鋭く、冷たく澄んでいた。


この男の不思議さは、裏切りの瞬間でさえ、感情よりも先に事態の“構造”を理解してしまう点にある。


——もっとも信頼し、もっとも己が思考を理解していた光秀が、我に牙を剥いた。


それは即ち、

自らが敷いた、仕組みと政策、経済的・思想的な秩序が自らに帰着し、無慈悲に履行される段階に達した。ということでもあった。


信長は静かに息を吐き

「……是非も、なし」

そう呟いたと伝わる。

その声は、諦念ではなく、燃え上がる炎の熱量に反して冷徹で、静かであったと云う。


己が創り上げた仕組みが、政策が、己を呑み込むほどに整い、そして自らを処断するに至ったことを最後に理解した表現——そんな深い合点の瞬間がそこにあったのだ。

そして、それを正確に理解できるのは、信長以外には図らずも今、この本能寺にて相対する明智光秀その人物のみであると理解とも共感とも取れない確信があった。


だからこそ、その呟きは、敗北ではなく

**“自らの理の完結を認めるための最終の言葉”**であった。


炎が寺の屋根を貫き、火の粉が夜空に舞った。

光秀はそれを見届けるように、馬上で静かに息を吐いた。

胸の奥に広がる空洞のような感覚は、勝利でも敗北でもない。


ただ一つ、

「これで、時を稼ぐことが出来たはず…」

“調停者としての矜持”が、彼の背筋を支えていた。


だが、その“調停者としての矜持”が、のちにどれほど残酷な誤算となるかを、

このときの光秀はまだ知る由もなかった。

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