【実録】S県K市・緑ヶ丘団地における「見守り活動」の記録と考察
@tamacco
第1話:プロローグ・古道具屋のノート
ライターという職業柄、私は古い資料や捨てられた手記といった類のものに目がない。それがたとえ、誰かの妄想の産物であったとしても、そこには必ず書いた人間の「体温」のようなものが残っているからだ。
だから、その日、郊外の国道沿いにある寂れたリサイクルショップ兼古道具屋に立ち寄ったのも、ほんの気まぐれだった。店じまいセールという張り紙に引かれ、埃っぽい店内を物色していた私の目に、乱雑に積まれた段ボール箱の隅から覗く、輪ゴムで束ねられた大学ノートが飛び込んできたのである。
店主の老人は、私がそれをレジに持っていくと、めんどくさそうに片眉を上げた。
「ああ、それね。遺品整理の山から出てきたんだが、売れるようなもんじゃねえよ。ただの爺さんの日記だ」
「日記、ですか」
「中身は見てねえけど、表紙に団地がどうとか書いてあるだろ。まあ、持っていきな。百円でいいよ」
百円玉一枚と引き換えに手に入れたその束は、全部で七冊あった。
一番上のノートの表紙は、長い年月を経て黄ばみ、角が丸く擦り切れている。コクヨのキャンパスノート。背表紙のテープが剥がれかけている。
表紙の中央には、黒のマジックインキで、定規を使ったような几帳面な四角い文字でこう記されていた。
『緑ヶ丘団地・夜間見守り隊 日誌 第一巻』
昭和五十八年四月開始、という添え書きもある。
緑ヶ丘団地。S県K市にかつて存在した、高度経済成長期の象徴とも言えるマンモス団地だ。数年前に老朽化による取り壊しが決まり、現在は更地になっているはずだった。
帰宅後、私は仕事机の明かりの下で、埃を払いつつそのノートを開いた。
カビと防虫剤が混ざったような、古い紙特有の匂いが鼻を突く。
最初のページをめくると、そこには日誌の「書き手」による宣言のようなものが記されていた。
――
昭和五十八年四月一日
本日より、緑ヶ丘団地自治会による自警団組織「夜間見守り隊」を発足する。
団地内における風紀の乱れ、不審者の侵入、および住民間のトラブルを未然に防ぐことを目的とする。
隊長である私、相田(仮名)が、毎夜の巡回記録をこのノートに詳細に記すものとする。
我々の任務は、住民の平穏な生活を守り抜くことである。
異常があれば、いかなる些細なことであっても記録に残さなければならない。
――
筆跡は驚くほど端正で、右上がりの癖が強い。ペン先が紙に食い込むほどの筆圧で書かれていることから、この相田という人物の、真面目で、ともすれば神経質な性格が読み取れた。
一冊目の内容は、拍子抜けするほど退屈なものだった。
昭和五十年代後半の団地の日常が、淡々と綴られているに過ぎない。
――
四月五日(火) 天候:曇り 巡回者:相田、他一名
午後九時、C棟裏の駐輪場にて、無灯火の自転車に乗る中学生数名を指導。
午後十時、A棟三階の廊下にゴミ袋が放置されているのを発見。中身は生ゴミのようだが、カラスに荒らされる前に回収ボックスへ移動させた。明朝、当該フロアの住人に注意喚起のビラを配布する必要あり。
異常なし。
四月十二日(火) 天候:雨 巡回者:相田
雨天のため、階段や踊り場が滑りやすくなっている。B棟二階の蛍光灯が点滅しており、不気味な印象を与えるため、早急に交換を管理事務所へ依頼すること。
午後十一時、公園のベンチにてサラリーマン風の男性が泥酔して寝ているのを発見。声をかけたところ、居住者ではない模様。警察に通報し、引き渡した。
異常なし。
――
私はあくびを噛み殺しながらページをめくり続けた。
どこにでもある日常。プライバシーの概念がまだ緩かった時代の、お節介で真面目な管理人の記録。そう結論づけて、ノートを閉じようとした時だった。
指が止まった。
五月に入ったあたりの記述から、少しだけ、雰囲気が変わっていたのだ。
違和感の正体は、日常の報告の中に唐突に紛れ込む、奇妙な「注意事項」だった。
――
五月二十日(金) 天候:晴れ 巡回者:相田
午後八時、D棟四階、404号室の前を通る際、ドアののぞき穴(ドアスコープ)が内側からガムテープで塞がれているのを確認。
住人の佐々木さん(仮名)に事情を尋ねようとチャイムを鳴らしたが、応答なし。
ただし、ドアの向こうから、何かを床に叩きつけるような湿った音が聞こえていた。
夫婦喧嘩の可能性あり。
【備考】
以後、夜間の巡回においてD棟404号室の前を通る際は、極力足音を立てないこと。
また、ドアスコープが「開いて」いても、決して覗き込んではならない。目が合うと、向こうが入れてくれと頼んでくるため。
――
目が合うと、向こうが入れてくれと頼んでくる。
私はその一文を二度読み返した。
文脈がおかしい。「向こう」とは誰だ? 佐々木さんではないのか? それに、ドアスコープ越しに目が合うというのは、どういう状況なのだろう。普通、外から覗かない限り、中の人間と目が合うことはない。
それとも、中の人間もまた、内側からじっと外を覗いているということか。
私の背筋に、冷たいものが走った。
だが、次の日の記述はまた「駐輪場の整理」に戻っている。
相田という男は、この奇妙な出来事を、駐輪場の自転車整理と同じレベルの「事務的な処理事項」として記録しているのだ。それが逆に不気味だった。
私は二冊目のノートを手に取った。
時期は昭和五十九年に入っている。
相田の筆跡は相変わらず几帳面だが、心なしか文字が大きくなっているように見えた。
――
二月十四日(火) 天候:雪 巡回者:相田
積雪あり。団地内の公園にある砂場が雪で覆われている。
午後十時、砂場の中央に誰かが掘り返したような跡を発見。
子供のいたずらかと思ったが、掘り返された穴の周囲に、裸足の足跡が多数残されていた。サイズからして成人のものと思われる。
足跡は砂場から出ておらず、砂場の中で途切れている。
【処置】
スコップにて穴を埋め戻す。
その際、砂の中から人の髪の毛のような束が出てきたが、見なかったことにして埋めた。
本件に関し、見守り隊の他のメンバーには「野犬が掘った穴」と報告済み。
これ以上、住民を不安にさせてはならない。
――
見なかったことにして埋めた。
その記述に、私は戦慄した。この「見守り隊」の隊長である相田は、明らかに何かを知っている。あるいは、何かに気づきながら、それを「団地の平穏」という名目のもとに隠蔽しようとしている。
ページをめくる手が早くなる。
奇妙な記述の頻度は、徐々に上がっていた。
――
六月六日(水) 天候:雨
午後九時、集会場の裏手にて、赤いレインコートを着た女性が立っているのを発見。
傘もささずに雨に打たれていた。
声をかけようと近づいたが、彼女が振り返った瞬間、それが「部外者」であることを確認。
顔のパーツの配置が、平均的な人間よりも中央に寄りすぎている。
【対応】
会釈をして通り過ぎる。
彼女から「また増えましたね」と話しかけられたが、無視を徹底した。
規約第十三条『部外者との対話禁止』を遵守。
後方から笑い声が聞こえたが、振り返らずに管理事務所へ帰還した。
――
規約。
第十三条。
私は慌てて、最初の一冊目のノートに戻った。表紙の裏、あるいは最初のページに、そんな規約が書かれていただろうか。
探してみたが、一冊目には「団地の風紀を守る」という理念しか書かれていない。
私は残りのノートの束を解き、中身をパラパラと改めた。
三冊目、四冊目、五冊目。
五冊目のノートの間に、四つ折りにされた藁半紙が挟まっているのを見つけた。
経年劣化で茶色く変色し、折り目は今にも切れそうだ。
私は慎重にそれを広げた。
『緑ヶ丘団地・夜間見守り隊 行動規約(改訂版)』
最上部にはそうタイプ打ちされている。日付は昭和六十年。
そこには、一般的な防犯マニュアルとはかけ離れた、不可解なルールの数々が列挙されていた。
1.夜間巡回は必ず二人一組で行うこと。ただし、一人が話しかけても相方が応答しない場合は、直ちに巡回を中止し、朝まで管理事務所に籠城すること。
2.C棟のエレベーターは、夜間は一階と四階にしか停止しない仕様となっているが、万が一「地下」のランプが点灯した場合は、全員で大声を出し続けること。
3.公園の時計が逆回転しているのを見かけても、修正しようとしないこと。
4.赤い服の女性、および「這うもの」を見かけた際は、会釈のみを行い、決して会話をしてはならない。
5.404号室の住人は、昭和五十五年に退去済みである。表札が出ていても、郵便物が溜まっていても、そこは空室であると認識すること。決してチャイムを鳴らしてはならない。
……
……
項目は二十以上に及んでいた。
読み進めるうちに、私の部屋の空気が重く澱んでいくような錯覚に陥った。
これは、ただの「変な人の日記」ではない。
もしこれが妄想だとしたら、あまりにも体系的で、具体的すぎる。
そして何より、この規約は「印刷」されていた。ガリ版刷りのような粗い印刷だが、少なくとも数十枚は刷られ、他の誰か――「見守り隊」の他のメンバーにも配布されていたことを意味する。
相田という男は、そしてこの見守り隊は、一体「ナニ」から団地を見守っていたのか。
あるいは、団地の住民を「ナニ」から遠ざけようとしていたのか。
それとも――団地の外の世界へ、中の「ナニ」かが漏れ出さないように監視していたのか。
私は七冊目の、最後のノートを手に取った。
平成三年の日付がある。
パラパラとめくると、それまでの几帳面な文字は影を潜め、ページ全体に殴り書きのような文字が踊っていた。
『見られている』
『数が合わない』
『あの子はどこへ行った』
『埋めたはずだ』
『404』
最後のページは、黒いインクで塗りつぶされていた。
いや、よく見ると、同じ文字が何千回、何万回と重ねて書かれているのだ。
『ゆるして』
あるいは
『あけるな』
そう読める文字が、紙が破れるほどの筆圧で刻み込まれていた。
私はノートを机に置き、大きく息を吐いた。
窓の外を見る。現代の街並みは、変わらずそこにある。車の走る音、遠くの電車の音。
だが、私の手元にあるこの七冊のノートは、確かにかつて存在した「異界」の記録だった。
私はライターとしての本能が、恐怖を上回るのを感じた。
この緑ヶ丘団地で、過去に何があったのか。
相田という人物は、その後どうなったのか。
そして、あの規約に書かれた「404号室」や「赤い服の女性」とは何だったのか。
私はスマートフォンを取り出し、検索画面に「緑ヶ丘団地」と打ち込んだ。
すでに取り壊された団地だ。だが、ネットの海には、かつての住人たちの書き込みや、廃墟マニアによるレポートが残っているかもしれない。
検索結果が表示されるまでの数秒間、私は妙な視線を感じて振り返った。
もちろん、部屋には誰もいない。
ただ、机の上に置いたノートの束、その一番上の表紙に書かれた『見守り隊』という文字が、じっとこちらを見上げているような気がした。
「本日、異常なし」
私は口の中でそう呟き、自分を落ち着かせると、表示された検索結果の一番上をクリックした。
そこには、ある掲示板の過去ログが表示されていた。
スレッドタイトル:『S県の緑ヶ丘団地について語ろう』
書き込み日時:200X年
そのスレッドのあちこちに、奇妙な隠語が散りばめられていることに、私はすぐに気がついた。
それは、私が今読んだばかりのノートの内容と、奇妙に符合していたのだ。
私は決意した。
この記録の裏側にある真実を、掘り起こさなければならない。
たとえそれが、あの公園の砂場のように、決して掘り返してはいけないものだったとしても。
これが、私がS県K市の緑ヶ丘団地、そして「見守り隊」についての調査を始めることになった、全ての発端である。
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