第3話

黒い水と甘い泥

 冒険者稼業の基本は、まず依頼(クエスト)を受けることから始まる。

 だが、結成されたばかりの「坂上パーティ」には、致命的な問題があった。

 所持金だ。

 坂上の財布には日本円と小銭しかない。

 龍魔呂は稼いだ金をすべて孤児院に送金済みで素寒貧。

 ルナに至っては、通貨の概念があるかどうかすら怪しい。

「……食わせるとは言ったが、先立つものがないな」

 坂上がギルドの掲示板の前で腕を組んでいると、その足元から、にゅっと茶色い影が現れた。

「ダンナ、えらい難儀してはりまんなぁ」

 コテコテの関西弁。

 見下ろせば、身の丈ほどの巨大な風呂敷を背負った、茶トラ模様の猫耳族の男がそこにいた。

 商人の前掛けを締め、手には金色の算盤を持っている。

「誰だ?」

「わてはニャングル。ゴルド商会のしがない商人だす。……ダンナ、ええ『匂い』させてまんなぁ」

 ニャングルは鼻をヒクヒクさせ、坂上のポケット――コーヒーキャンディの入っているあたり――を嗅いだ。

 さらに、坂上の全身から漂う「只者ではない気配」と、異世界の「未知の技術」の匂いを敏感に感じ取っていたのだ。

「単刀直入に言いますわ。わての護衛、頼めまへんか?」

「護衛?」

「へぇ。隣町まで荷物を運びたいんやけど、最近は物騒でしてな。シルバーランクのわてでも、ちと荷が重い。……どないだす? 安い依頼やけど、前金で飯代くらいは出しまっせ」

 坂上は、即座に計算した。

 今の烏合の衆で、いきなり戦闘任務はリスクが高い。

 まずは行軍(移動)を通じて、部下の特性を把握する必要がある。商人の護衛は、そのための訓練(ドライラン)に最適だ。

「……悪くない話だ。乗ろう」

 こうして、坂上、龍魔呂、ルナ(+ネギオ)、そして依頼人のニャングルという奇妙な一行は、夕暮れの街道へと足を踏み出した。

 ◇

 町を出て数時間。日は完全に落ち、街道脇の森で野営をすることになった。

 ニャングルから前金として受け取った銀貨で、最低限の干し肉とパンは確保できたが、決して豪華な食事とは言えない。

「ふあぁ……お腹いっぱい……」

 ルナは、自分の分に加え、龍魔呂が「いらねぇ」と投げた分のパンまで平らげると、即座に電池が切れたように眠りに落ちた。

 地べたに直に寝ようとする主人の背中に、執事のネギオが素早く毛布を掛ける。

「おやすみなさいませ、お嬢様。……まったく、警戒心というものが欠落しておられる」

「世話焼きだな」

「ええ。私の生き甲斐ですので」

 ネギオは慇懃に礼をすると、周囲の警戒配置についた。

 焚き火のそばには、坂上と、少し離れて座る龍魔呂だけが残された。

 龍魔呂はフードを目深に被り、無言で焚き火を見つめている。

 人を寄せ付けない空気を放っているが、坂上は意に介さず、おもむろに虚空を操作した。

「……?」

 龍魔呂が眉をひそめる。

 坂上の目の前に、半透明の青いウィンドウが浮かんでいたからだ。

 ユニークスキル【酒保(PX)】。

 坂上は手持ちの日本円残高を確認し、購入ボタンを押す。

 ブォン。

 空間が歪み、見慣れた「自衛隊仕様の段ボール箱」が出現した。

 中から取り出したのは、携帯用ガスコンロと、ステンレスのケトル。そしてペットボトルの水。

 

 ゴォォォォ……

 青白い炎が上がり、湯が沸く音が静寂に響く。

 魔法とも違う、無機質な文明の音。

 龍魔呂が警戒心を露わにしながら、それでも好奇心に負けて近づいてきた。

「……オッサン。なんだそりゃ」

「故郷の道具さ。魔法より確実で早い」

 坂上は、二つのシェラカップに粉末――スティックタイプのインスタントコーヒー――を入れ、熱湯を注いだ。

 ふわりと、香ばしくも苦味を含んだ湯気が立ち上る。

「飲むか?」

「……毒じゃねぇだろうな」

「部下に毒を盛る指揮官がどこにいる」

 差し出されたカップを、龍魔呂はひったくるように受け取った。

 一口、すする。

「……ッ、苦(にげ)ぇ! なんだこりゃ、泥水かよ」

 顔をしかめる龍魔呂に、坂上はクツクツと笑った。

 やはり、若者にはまだ早かったか。

「悪かった。……これを入れてみろ」

 坂上が取り出したのは、スティックシュガーとコーヒーフレッシュだ。

 龍魔呂は怪訝な顔をしながらも、白い粉と白い液体をカップに投入した。

 黒い液体が、まろやかな茶褐色に変わる。

 恐る恐る、もう一口。

「……!」

 龍魔呂の瞳孔が開いた。

 苦味の角が取れ、砂糖の甘みとミルクのコクが口いっぱいに広がる。

 そして、カフェインの作用か、冷え切った身体の芯から熱が湧いてくる感覚。

 角砂糖ばかり齧っている彼にとって、それは未知の「液状の菓子」だった。

「……甘ぇ。悪くねぇな」

「だろう? 疲れた脳にはそれが一番効く」

 坂上も自分のブラックコーヒーをすすり、ふぅ、と息を吐いた。

 焚き火のパチパチという音だけが響く。

「……お前ほどの腕があれば」

 静寂を破ったのは、坂上だった。

 説教臭くならないよう、独り言のように呟く。

「群れずとも、一人で十分食っていけただろう。なぜ、あのギルドであんなに苛立っていた?」

 龍魔呂の手が止まる。

 カップの中の渦を見つめながら、しばらくの沈黙の後、ポツリと答えた。

「……ガキの泣き声が、嫌いなだけだ」

「泣き声?」

「ああ。ガキが泣くと……頭の中で、何かが切れる。俺の中の『バケモノ』が目を覚ましちまう」

 彼は自分の右手を――赤黒い指輪が嵌った手を、強く握りしめた。

 その震えは、怒りなのか、恐怖なのか。

「だから俺は一人でいい。誰かと組めば、いつかそいつを巻き込む。……あんたもだ、オッサン。俺に関わると、死ぬぞ」

 突き放すような言葉。

 だが、その声には微かな「寂しさ」が滲んでいた。

 坂上は、コーヒーを飲み干し、静かに言った。

「死ぬ、か。……俺も、多くの部下を死なせてきたかもしれん場所から来た」

 イージス艦での緊迫した日々。祖父の話。

 守れなかったかもしれない命の重みが、坂上の言葉に深みを与える。

「だがな、若造。……『狂犬』にも、首輪を握る飼い主は必要だ。お前がバケモノになって暴走しそうになったら、俺が止めてやる」

「……あ?」

「それが指揮官(俺)の仕事だ。だから、お前は安心して牙を研げ。……背中は俺が守ってやる」

 龍魔呂は、虚を突かれたような顔をした。

 そんなことを言われたのは、初めてだったかもしれない。

 彼はフンと鼻を鳴らし、フードを深く被り直した。

「……酔狂なオッサンだ。後悔しても知らねぇぞ」

「後悔は、あの世ですることにしている」

 龍魔呂はそれ以上何も言わず、残った甘いコーヒーを一気に飲み干した。

 その横顔は、ギルドで会った時よりも、幾分か憑き物が落ちたように見えた。

 木の陰から、その様子を見ていたニャングルが、小声で呟く。

「……へぇ。あの狂犬を手懐けるとは。坂上のダンナ、やっぱりええ『器』してまんなぁ」

 夜が更けていく。

 異世界での最初の夜は、コーヒーの香りと共に静かに過ぎていった。

 翌日、ルナの「おしっこー!」という絶叫で叩き起こされることになるのだが、それはまた別の話である。

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