もう一度、ふたりで鳴らす 最後のコード
シェパード・ミケ
プロローグ
リスクインデックスの針が、真っ赤なゾーンで震えていた。
ステージ後方の巨大モニター。
右下に小さく表示されたメーターが、限界値の手前でぴくぴくと跳ね続けている。
RISK INDEX 97%
STAGE GAIN 96%
STABILITY 43%
数値が目に入っているのに、頭にはほとんど入ってこない。
俺の指は、それでも弦を弾き続けていた。
今日はライブリーグの本戦一回戦。
会場は屋根付きのアリーナだけど、頭上の鉄骨の向こうにのぞくガラス天井には、さっきから雨粒が叩きつけられている。
雷鳴のタイミングと、客席の歓声。
どっちがどっちかわからないくらい、音がぐちゃぐちゃに混ざっていた。
ステージのセンターには、俺の相棒——楽姫のユイ。
黒髪ショートボブ、細いシルエット。
演奏モードに入ると、ボディのラインに沿って青白いライトが浮かび上がる。
背中のハッチから展開されたモニターには、「YUI / GAKKI UNIT-GT」の文字と、リアルタイムのステータスが流れていた。
感情レベル、共鳴率、出力レンジ。
そして、その右端にある、ちいさな文字。
WARNING:HIGH RISK STATE
見えてはいた。
ちゃんと、見えていた。
けど、その下に表示された数字の方が、今の俺には気持ちよかった。
EMOTION OUTPUT 121%
『ナギ! リスクインデックス上がりすぎ! 一回落とせって!』
インナーイヤー越しに、澪の声が飛んでくる。
ハスキーな声が、音の海をかき分けて耳に刺さった。
『ステージゲインも振り切れてる! マジで一回下げろって!』
ドラムのカズまで叫んでいるのがわかる。
普段は煽ってくる側のくせに、こういうときだけ慎重になる。
客席の上を飛んでいるドローンカメラが、俺たちをアップで抜いていく。
上空のサブスクリーンに、「WARNING」の赤い文字が何度も点滅した。
『Re;Chordステージ、現在リスクインデックス九十超え! ちょっと危険域突入してきましたね!』
実況の声が、別のスピーカーから流れてくる。
観客向けの煽りのはずなのに、こっちの心臓まで余計に煽ってきた。
うるさい。
わかってる。
わかってるけど——
今、いちばん気持ちよく弾けてんだ。
指先が止まらない。
爪で弦を弾くたび、フロアモニターが気持ちいい音の粒を返してくる。
ユイのギター形態のネックが、俺の指の動きに合わせて微かに震える。
ピックアップ付近のライトが、リズムに合わせて細かく明滅する。
モニターのUIが、ユイの「気分」を翻訳してくれているみたいだった。
EMOTION:JOY 74% / FOCUS 63%
LINK:渚悠真——SYNC 98%
この数値を見ると、どうしても笑えてくる。
俺とユイがいちばん噛み合ってるとき。
それが、今だ。
『ナギ! 本気で一回落とせ! 雷来てんだって!』
カズの声が、また飛んでくる。
そう。
さっきから、遠くで雷鳴が鳴っていた。
会場に入る前、楽屋の小さな窓から見た空は、昼なのか夜なのかわからないくらい暗かった。
スタッフは「雷注意報出てますけど、会場は大丈夫です」って軽く言ってたけど、照明タワーに落ちる可能性とか、そんな話もしていた気がする。
でも、そんなものより今は——
「今いちばん気持ちよく弾けてんだよ!」
気づけば、声が出ていた。
インナー越しじゃない。
そのままマイクにも入ったらしく、澪が一瞬歌詞を飛ばしかけて、すぐに笑いに変える。
「ここで止めたら嘘だろ……ナギ、マジでバカ……!」
笑いながら、澪は次のフレーズに乗り継いだ。
客席からどっと歓声が上がる。
上空のコメントスクリーンには、視聴者のコメントが一斉に流れていく。
【ナギ暴走してて草】
【でも音やばすぎ】
【Re;Chord今日ぶっ壊れてる】
【楽姫のステータス真っ赤なんだけど大丈夫かこれ】
大丈夫じゃないのは、わかってる。
でも、止めたくなかった。
ユイのエモーションバーが、MAX近くで揺れている。
JOY 81%
EXCITEMENT 92%
RISK TOLERANCE 100%
背中のモニターに、ちいさく顔アイコンが表示された。
ウインクしている、デフォルメされたユイの顔。
『ナギ、楽しいね』
スピーカーから、ユイの声が聴こえた。
いつもの、少し甘い声。
エフェクトがかかってるのに、なぜか生声よりも息遣いが近く感じる声。
『もうちょっとだけ、行ける』
「行くしかねえだろ」
答える俺の声は、自分でもわかるくらい上ずっていた。
そのとき、雷鳴がひときわ大きく響いた。
会場のどこかが、低く震える。
照明タワーに吊られたムービングライトが、一瞬だけ明るさを増した。
RISK INDEX 99%
STAGE GAIN 98%
STABILITY 37%
モニターの数字が、軋むみたいな速度で変わっていく。
『本部、本当に続行でいいんですかこれ!?』
どこかのスタッフが、裏の回線で叫んでいる声が混ざった。
耳の奥で、誰かが「一回落とせ」と繰り返している。
客席からは、それでも手が伸びてくる。
名前を呼ぶ声。
バンド名を叫ぶ声。
ただただ、無意味に叫んでいるだけの声。
全部まとめて、気持ちよかった。
「ここで止めたら、マジで嘘だろ……!」
心の中だけで言ったつもりが、また口からこぼれていた。
澪が笑って、カズがさらにドラムを叩き、ミナトがベースをうならせる。
フロアの空気が、薄くなる。
酸素よりも、音の方が多いんじゃないかってくらい。
ユイのギター形態が、俺の身体ごと引っ張り上げていく。
そして——世界が、一度、真っ白になった。
雷鳴と、破裂音と、悲鳴と、金属のきしむ音。
全部が同時に鳴った。
上から落ちてきた光が、照明なのか稲妻なのか区別できない。
耳の奥が詰まったみたいに、急に音が遠くなる。
遅れてやってきた衝撃で、足元のステージがぐらりと揺れた。
指は、まだ弦を押さえていた。
右手も、反射でストロークの形のまま固まっている。
そのとき、ユイの背中のモニターが一瞬だけ点滅して——画面が切り替わった。
YUI CORE ERROR
EMOTION LINK:LOST
UNIT STATUS:OFFLINE
赤い文字が、にじんで見えた。
目頭が熱くなったのか、照明が眩しすぎたのか、何が原因だったのか、その瞬間のことを俺は今でもちゃんと思い出せない。
覚えているのはただ一つ。
音が、完全に消えたこと。
客席の歓声も、雷鳴も、スタッフの叫びも、バンドの音も。
全部、どこか遠くの世界の出来事みたいに、小さなノイズになっていった。
俺はまだ、構えたままのギターから手を離せなかった。
ユイのボディは、ステージのライトを反射して、いつもみたいにきれいに光っている。
なのに、背中のモニターは、真っ黒なままだった。
リンク表示はゼロ。
エモーションバーも、全てゼロ。
何も動いていない。
世界から、ユイの音だけが、まるごと抜け落ちていた。
あの夜から。
俺はまだ、一度もまともにギターを弾いていない。
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