結局、あの曲は俺の人生を彩る

萬多渓雷

あれ?大丈夫かな

 迷子を助けた。いや、迷子と言っても、いわゆる『迷子』とは違うんだけど。



 在宅での仕事に一区切りついたので、明日乗る新幹線のチケットの発券と住民税の支払いをしに駅に向かった。六月に入り少しずつ暑くなり、昨日からエアコンの除湿のスイッチを入れなければ、仕事である動画編集もやっていられない。作成した動画の書き出しには小一時間かかるため、そのすきに諸々済ませてしまおうと思ったのだ。

 家から駅まで片道、徒歩三十分。普段から運動がてら歩いて向かうようにしている。駅に向かうだけでこんなに汗が出るなら、そろそろこの健康法も考えなきゃいけないなと後悔したのは四つ目の信号に足を止められ、赤から青に変わるのを待っていた時だった。

 駅に着き、チッケトを発券。その後コンビニで住民税の支払いを済ませた。自分の汗で濡れないように、諸々をサコッシュに入れ、自宅の方へ向かうバスの時刻を確認した。バスが来るのは二十分後。その間、屋根はあれど、この蒸し暑い中で待つのは億劫だ。バスに乗ろうが、今からまた歩いて帰ろうが、汗の量と帰宅する時間はさほど変わらない。転職に躓きカツカツの俺は二百二十円を浮かせるために、歩いて帰ることを選んだ。



 帰り道の中間地点。斜度はそこまできつくはないが、国道に向かって長く伸びる上り坂がある。これが地味にきつい。幸にも行きよりも日は落ち、夕焼け空のオレンジだけが、少し熱を帯びている時間にその坂に差し掛かった。

 坂の真ん中。シャッターの閉まった塾教室の前で一人の白衣姿の少年に声をかけられた。

「すいません。今何時だかわかりますか?」

 礼儀よく話してきたその子に、こちらも真摯に十八時三十七分と携帯電話の待受画面を見せながら答えた。

「ああ、そうですか…ありがとうございます。」

 聞きたいことはそれだけだったらしく、少年は頭を丁寧に下げ俺に礼を言った。その姿に少しの不安を持っているように感じた俺は、聞きたかった内容と、今抱えている悩みはイコールじゃないのではと思い、

「どうしたの?」

と、込み入った質問をした。すると少年は今自分が置かれている状況を俺に話してくれた。

 塾があるもんだと思って母にここまで送ってもらったものの、一向に塾のシャッターは開かず、もしかしたら今日は授業がないのかもしれないと思ったが、それから先どうすればいいかと悩んでいるとのことだった。

 少年の家は、小学生の男子が歩いて帰れる距離でもなくて、またその道のりも覚えていないとのこと。小学三年生のタナカ・ハヤト(仮名)くんは携帯電話も、親の電話番号も覚えていなかったため、なすすべなく現在まで声を掛けれそうな人を待っていたのである。そこそこの大人たちがハヤトくんの前を通っただろう。その中で、なぜ腕にタトゥーが入っている俺に声をかけたのだ?

「そのバックの中に、なんか電話番号とかかいてあるやつはある?お母さんのとか塾のとか」

と、聞けば

「顕微鏡と星座早見盤はあるよ!!」

と、無邪気な愚問が返ってくるほどに、ハヤトくんは勉強熱心で可愛らしい子だった。

 坂の麓にはコンビニがあり、そこは外に喫煙スペースが設けられ複数のベンチが置かれている。地べたに座っていたハヤトくんに、俺はそこで作戦会議をしようと提案した。ハヤトくんは頷き、彼と一緒に汗をかきながら登ってきたその緩やかな坂を下り戻って行った。




 さて、どうしたもんか。

 とりあえず塾教室の名前はわかるからネットで調べて電話をしてみるか。…ありゃ留守電だ。

 通っている小学校に電話をしよう。何かしらの対策をとってくれるかもしれない。…へぇ、今って学校も自動音声なんだ。っておい、なんだ『営業が終わりました』って。公的教育機関が言うかねそれを。まあ、俺の時とは時代も違うし、何かしらの対策なんだろうけど。

 あっちゃ〜。どうするか。警察に相談するほどの出来事でもないし——。

 パッと思いついた案はことごとく失敗に終わった。仕方がないから、俺は再度ハヤトくんのバックに入っている持ち物を見せてもらった。

 ハヤトくんは教材の中身を自慢げに見せてくれた。その時、俺は一つの違和感を感じた。それはさっきまでいた塾教室の名前と教材や白衣にプリントされている名前が違うということだ。

 その名前を改めてネットで検索をかけると、どうやらその塾では場所を貸してサイエンススクールを開校していることがわかった。つまり、さっきかけた市外局番から始まる電話番号と窓口が違かったのである。なるほどそういうことだったか。

 そのサイエンススクールのホームページの閲覧を続けると、そこには授業風景などが紹介されているブログが掲載されていた。

「あ!これ先生!」

 ハヤトくんが指差したその人は、青年男性。俺と同じぐらいの年齢じゃないかな。ただ、とても教育の現場にいるとは感じにくい、明るく緑色の髪色をしたパリピだった。まあ、私営の塾講師だ。"服装・髪型自由"の範疇だし、人を外見で判断しちゃいけない。しっかりと勉学を励んできた過程の中で生まれた、彼のアイデンティティなんだ。イケてると思う。

「この人しょっちゅう死ねとか言うんだよ。ちょっとヤンキー」

 さっきまでの俺の配慮を返してくれ。いや、やっぱり返さなくていいや。サイエンスティーチャーの言う『死ね』はきっと、なんか、専門的知識の中での、概念の、比喩的な……うっ、苦しくなってきた——。




 

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