2.
「あんた今食べちゃってお腹空かないの? まだ二時間目終わったばっかじゃん」
そんな声に顔を上げると、長野美月が傍らに立って見下ろしていた。
いや、物理的には単に「見下ろしていた」だけなのだが、その目つきたるや、文字を一つ減らして「見下していた」と言いたくなるような代物で。野元正志は、今口に入れたばかりの米飯を咀嚼し飲み込む音が、不必要にあたりに響いているような気分を味わった。
「なんだ、美月か。なんか用?」
それでも精一杯能天気を装う正志に、美月はさらに汚いものでも見るような目を向ける。
「下の名前で呼ぶのやめろ、アホ正志」
「なんだよ、合唱部の同期みんな下の名前で呼び合ってるじゃん。なんで俺だけ」
「あんただからに決まってるでしょアホ正志」
お前こそそんな呼び方すんなよな、と言う言葉をグッと飲み込み、ため息。
「わかったよもういいよ。そんで何、その長野のお嬢様が俺みたいなアホでバカでスケベで下賤なものになんか用ですかね」
「あらそこまでは思ってないから卑下することないわよ。『下賤』まで言わなくても」
「それ以外は思ってんのかよ!」
「まあそれはおいといて」
「流したな」
もう一度ため息。美月は気にする風もなく話し始めた。
「明宏くんのこと。なんか様子おかしいって、また早希がさあ」
「ああ、それか。またそういうあれか」
「そ。またそういうあれ」
「まったくなんであいつばっかモテるかなあ」
「え、「あいつばっか」って……まさかあんた、自分が明宏くんと同等にモテて当然だと思ってんの? いや、明宏くんが特にモテるほうだとは思わないけどさ、そもそもあんた、自分が他の男子と比べられるような存在だと思ってるわけ? モテるという言葉と最も縁がない、それどころかたった一人の女子にさえ好かれたことがなくこれからも好かれる当ても見込みもない、取り柄も長所も脳みそもない、あるのは情欲とコンプレックスだけっていうあんたが? 冗談でしょ」
カラカラと美月は笑う。正志はしばらく呆けたようにそんな美月を見ていたが、やがてはっとして、
「おまっ……そこまで言うか!? あまりにひどすぎて一瞬気が遠くなったわ!」
「あらもっと言ってもいいのよ」
「お願いしますやめてください」
即座に答える正志を面白そうに眺める美月。
「まあそんなわけだから利用価値くらい証明してちょうだい。明宏くんに何かあったのか、なんで様子がおかしいのか、それとなーく聞き出して……」
「あ、それなら」
続く言葉を制するように右手を上げる正志。
「もう知ってる」
「え?」
虚をつかれた美月の無防備な表情を見て、まさしはニヤリと笑う。
「教えて欲しい?」
「あ……当たり前でしょ、なんのためにあんたなんかに話しかけたと」
「あれー、いいのかな? そんな態度で」
「……何よ」
「別に俺としてはさ、美月に教えなくても、雪村さんが心配してても、ひとつも困んないんだけど」
「ふうん」
美月は一層冷たい視線で 正志を見下ろす。
「そ……そんな目で見られたって怖くないぞ」
「つまり合唱部の女子全員に、あんたについて有る事無い事言いふらしてもいいってことね」
「ちょ……なんでそうなる? 大体有る事無い事って言うけど、俺何にもしてねえぞ。ないことないことの間違いじゃ」
「去年の合宿でお風呂覗こうとしたよね」
「ばっ……あれは事故……」
「まあ一応そういうことになってるけどさ、いまだに疑ってる子多いよ? そこにあたしがないことないこと爆弾ぶちまけたらさ、どっちが信じてもらえるかなあ」
「ぐっ……」
「いいよ別に、あんたが自分の信頼と実績に絶大な自信があるて言うならさ。でもここだけの話、テナーがパー練ごにしてる下品な話、結構聞こえてるんだよねー。あんたの声、特に通るもんねー」
「ひ、卑怯な」
「普段の言動がこう言う時ものを言うのよね~」
「わかったよちくしょう」
正志はため息をついた。
「いいよもう。別に守りたい秘密ってわけでもないし。本人だって聞けば教えてくれるような話だし」
「バカね、あたしが明宏くんと話して仲よさそうに見えたら早希が悲しむでしょ」
「そこまで気にすることかね」
「デリカシーのないあんたにはわかんないでしょうよ。で? 明宏くん、なんだって?」
「あー、はいはい。寝不足だってさ」
「寝不足? テスト終わったばかりなのに勉強でも」
「ちゃうちゃう。夢見るんだってさ。毎晩同じ夢」
「夢?」
「そう、夢。なんだっけな、じっとこっちを見つめてる、知らないけれども会いたくてたまらなくなるようなかわい子ちゃんだかなんだか」
「それで、寝不足?」
「まあねちゃいるみたいだけど、寝た気がしないんだってさ。眠りが浅いってやつかね」
「ちょっと、そんなの早希にどう言ったら……」
「知るか。流石に管轄外だよ、そんなん」
「そうだけど……」
美月は考え込んだ。
手洗いから帰ってきたのか、チャイムとともに教室に戻ってきた明宏を見つけ、早希はちょっとだけ安堵の表情を浮かべた。
我ながら、どうかしている、そう思う。
九月の学園祭まではこんなじゃなかったはずだ。
それ以前から、明宏のことは好きだった。いつからかは覚えていない。夏期講習のクラスが一緒だといいな、と思った記憶があるから、一学期の終わりにはもう意識していたはずだ。
だけど、こんなじゃなかった。視界に入れば嬉しい、言葉を交わせばドキドキする、笑いかけてくれたり、真剣に授業を受けている横顔を見ると胸がキュンとなる、それくらいはあったけど、一瞬でも見えなくなるのが不安で、じっと見ていない時がすまなくて、ちょっとした変化に一喜一憂するなんて、我ながらどうかしている。
ストーカーじみてる、そう言った美月の言葉が蘇ってくる。さっきは反論したが、実のところ、自分でもそうかもしれないと思う。
全部、学園祭のせいだ。学園祭で、二人とも帰宅部だったばかりに押し付けられた、クラスの企画委員。恥ずかしいけど確かに嬉しかった、ひと月ばかりの準備期間。一緒に遅くまで残って生徒会に出す模擬店の計画書を書いたり、装飾や発注の手配をしたり、泣き言を言う会計と一緒に計算が合うまで付き合ったり。
そんな時間は確かに幸せで、ときめきに満ちていて、だけど少しばかり、親密すぎた。
急速に縮まった距離は、早希に告白を促すほどには達することなく、結局全てが終わった後に残ったのは、思い出と、中途半端な、クラスメートとしての仲の良さばかり。
挨拶くらいはしてくれる、以前に比べれば言葉を交わすのに躊躇がなくなった、せいぜいその程度。実際には、仕事がなくなってしまえば話すことそれ自体がなく、会話する理由も、二人きりになる理由すらなくて。
だから、早希はつい、明宏を目で追ってしまう。教室にいて見つからないと不安になってしまう。
あの、親密過ぎた日々がのこした、その親密さの形をした穴を埋めようとして。
いつまでも学園祭がおわらなければ……いや、いっそ、始まらなければよかったのに。
あの準備期間が、ずっと続けばよかったのに。
「ねえ、早希! ほら、先生来たよ!」
小声で後ろの席から美月に言われ、我に返る。そうなってはじめて、さっきから美月が間近であれこれ言っていたのを意識する。
「ごめん、美月、何か話してたよね。あたし……」
「やっぱ聞いてなかったのね」
美月は苦笑する。
「まあいいわ、その話はあと。とりあえず授業!」
「う、うん」
早希は座り直し、ノートを開く。
食べ終わらなかったらしい弁当を浮かぬ顔で仕舞い込む正志に、教科書やノートの準備をしながら、明宏は声をかける。
「珍しい。食い終わらなかったのかよ」
「いやそれがさ、美月が」
「長野さん? お前らほんと仲良いよね」
「だったらいいんだけどね」
正志は苦笑する。
「それ、美月に言わねえ方がいいぞ。罵倒の嵐が飛んでくるから」
「そうなの? そんなキツい人だっけ?」
「キツいのキツくないのって……いや……」
正志は自分も教科書を出しながら、ちょっとだけ考え込む。
「あいつ、他のやつにはそうでもないのか。パー練も厳しいみたいではあるけど」
「それってさ、仲いいってことじゃねえの? 遠慮の必要ない関係っていうか」
「多少は遠慮して欲しいんだけどねえ、俺としては」
芝居がかって肩をすくめて見せる正志。
「で、その長野さんがなんだって?」
「あー……なんでもね」
「え? ただお前の早弁を邪魔するためだけにきたってこと?」
「まあそんなようなもんよ、俺にしてみりゃ」
納得しきれない顔の明宏に、正志は前を見るように促す。
次の時間の教科担任が入ってきたところだった。
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