十七年の心拍
三角海域
十七年の心拍
線香の匂いで駆は軽く咳き込み、目を伏せた。
リビングの中央に設えられた祭壇の前で、親戚たちが小声で話している。誰かが「まだ若かったのにねえ」と言い、誰かが「息子さん一人残して可哀想に」と返す。
「お父さんとは、翔太くんが亡くなってすぐ離婚したんだっけ」「ええ、もう十年以上前よ」。低い声での会話が耳に入ってくる。
哀れみの視線が背中に刺さるのを感じながら、駆はソファの隅に座り、膝の上で組んだ自分の手を見つめていた。
母が死んだ。
数日が経っても、その言葉は胸の奥で空回りするばかりで、現実として着地してくれない。
交通事故だった。信号待ちの列に暴走車が突っ込んできたのだという。
あの朝の記憶が、何度も脳裏に蘇る。
「駆、お弁当。それから薬。忘れないで」
「わかってるよ」
「心拍計のアラート、昨日の夜に二回鳴ってたでしょう。ちゃんと深呼吸した?」
「......してない」
「駆!」
母の声が一段高くなった。駆は玄関で靴を履きながら、苛立ちを隠そうともせず言い返した。
「もう放っておいてくれよ。僕は子供じゃない。自分の体くらい、自分で管理できる」
母の顔が強張った。
駆はそれを見ないまま、ドアを閉めた。
それが最後だった。
帰宅したときには、すでに母は病院に運ばれた後だった。夕方には死亡が確認されていた。
「ごめん......」
駆は小さく呟いた。
もう二度と、その言葉は届かない。
夜中になって、ようやく親戚たちが帰った。
駆は一人、リビングのソファに座っていた。
テーブルの上には、警察から返却された遺品の入った袋がある。財布、鍵、画面が蜘蛛の巣のように割れたスマートフォン。そして、文字盤にひびの入ったスマートウォッチ。
母は常にそれを身につけていた。自分の脈拍、血圧、歩数、睡眠時間。すべてを数値で管理する人だった。
駆のことも同じように、いや、駆のことはもっと厳しく管理していた。
心臓に爆弾を抱えている。駆は幼い頃からそう言われ続けてきた。父の記憶はほとんどない。母は「あなたが小さい頃に別れた」としか言わなかった。駆は母と二人きりで生きてきた。
体育の授業は見学。走ることは禁止。階段も一段ずつゆっくりと。揚げ物やカフェイン、塩分の多い食事は厳禁。毎日決まった時間に薬を飲み、毎晩スマートウォッチで心拍数を測定する。
修学旅行の登山はドクターストップがかかった。
サッカー部に入りたいと言ったときは、母に泣かれた。
「あなたには無理なの。わかって」
母の目には、いつも恐怖があった。何かに怯えているような、必死で何かを守ろうとしているような、そういう目だ。
過保護だと思っていた。神経質すぎると思っていた。
でも今、母のいない部屋で一人座っていると、駆は途方に暮れていた。明日の朝は何を食べればいい?
薬はどれを、いつ飲めばいい? 心拍数が上がったらどうすればいい?
すべてを母に管理されていた自分は、母なしでは何もできない。
そのとき、テーブルの上で母のスマートフォンが振動した。
画面は割れているが、まだ動くらしい。通知のライトが暗がりの中で青白く点滅している。
駆は手を伸ばし、スマホを手に取った。ひび割れた画面に、見慣れない通知が浮かんでいた。
『ペアリングデバイスの脈拍消失から72時間が経過しました』
『緊急プロトコルを作動します』
『アクセス権限を登録者へ移行します』
画面が切り替わる。パスワード入力を求められることなく、ロックが解除された。
母は、自分が急死した場合の措置まで、完璧に設定していたのだ。
ホーム画面に、見たことのないアイコンがあった。
『駆』
自分の名前が、そのままアプリ名になっている。
恐る恐るタップすると、画面いっぱいにグラフとデータが表示された。心拍数、血圧、体温、睡眠時間、運動量――駆の十七年間のバイタルデータが、すべて記録されていた。
一番上に、医療レポートのタブがある。
駆はそれを開いた。
検体名 一ノ瀬駆
性別 男性
生年月日 二〇〇八年三月十五日
遺伝子情報 クローン個体(ドナー 一ノ瀬翔太)
遺伝子修復済み
修復箇所 SCN5A遺伝子変異(ブルガダ症候群関連)
難解な用語が並んでいて意味がわからない。
だが、理解できる箇所はある。
クローン個体。
翔太。
駆は母の寝室に駆け込んだ。仏壇の横にある古いアルバムを引っ張り出す。
そこには、駆の知らない少年の写真があった。
母に抱かれた赤ん坊。小学校の入学式。サッカーボールを抱えて笑う、日焼けした少年。
アルバムの最後のページには、病院のベッドで弱々しく微笑む少年の写真。日付は、駆が生まれる二年前だった。
写真の裏に、母の字でこう書かれていた。
『翔太、十六歳。安らかに』
駆の手が震えた。
兄がいた。自分の知らない兄が。
そして自分は、その兄の細胞から作られた存在だった。
駆はリビングに戻り、ソファに崩れ落ちるように座り込んだ。
スマホの画面を見つめる。医療レポートの詳細を読み進めると、さらに衝撃的な事実が記されていた。
母の長男、翔太は十六歳で突然死した。原因は遺伝性の心疾患、ブルガダ症候群。激しい運動の後、心室細動を起こして倒れ、そのまま帰らぬ人となった。
母は臨床検査技師として、大学病院の遺伝子研究チームに所属していた。翔太を救えなかった母は、最新のゲノム編集技術を使って、翔太の細胞から疾患因子を除去した。
そして、その細胞から駆を産んだ。
「僕は......翔太の代わりだったのか」
駆は震える声で呟いた。
兄の代用品として作られた自分は、遺伝子編集が成功したかどうかを確認するために、十七年間モニタリングされ続けていたのか。
「なんだよそれ......」
涙が溢れた。母の優しさも、心配も、すべてが薄っぺらい虚構に思えた。
駆は母を、実験を優先する冷酷な科学者だと思った。
ふと、画面の下にもう一つのタブがあることに駆は気が付いた。
『日記』
震える指で駆はそれをタップした。
日記のエントリーは、十七年分あった。
だが、駆の目に飛び込んできたのは、最初の一行だった。
2008年3月15日 駆、誕生
無事に生まれてきてくれた。翔太に似ている。でも、翔太とは違う。この子は、この子自身の命を生きる。私が守る。何があっても、十七歳まで絶対に守り抜く。
十七歳。
その数字が、何度も日記の中に現れた。詳細を読む気力はなかった。ただ、画面を指でなぞるようにスクロールしていくと、断片的な言葉が目に入ってくる。
心拍数が上がりすぎると、修復した心筋が......
あと五年。あと五年我慢してくれたら......
嫌われてもいい。駆が生きて十七歳を迎えてくれるなら、私は......
駆は、ある日付で手を止めた。
三年前。駆が「母さんは僕を信用してない」と言い放った日の夜だ。
2022年3月8日
駆の言葉がずっと胸に刺さっている。信用していないんじゃない。怖いだけ。また失うのが怖いだけ。でも、それをどう伝えればいい? 真実を話せば、この子は自分を「作られた存在」だと思ってしまう。それだけは避けたい。だから私は黙って、嫌われ役を続ける。鬼だと思われてもいい。駆が生きていてくれるなら。
画面が涙で滲んだ。
指が震えながら、最後のエントリーを開く。
2025年3月14日
明日は駆の十七歳の誕生日。
今朝、また喧嘩をしてしまった。「放っておいてくれ」と言われた。でも、もう大丈夫。明日、すべてを話そう。
クローゼットの一番下の引き出しに、プレゼントを隠してある。診断書と、駆がずっと欲しがっていたサッカーシューズ。明日ケーキを買って帰ったら、「もう何でもできるよ」と伝えよう。走っても、サッカーをしても、山に登っても大丈夫。
あなたの心臓は、もう大丈夫だから。
十七年間、よく頑張ったね、駆。
駆の十七歳の誕生日は、通夜の準備に追われる間に、とっくに過ぎてしまっていた。
駆は立ち上がり、母の寝室へ向かった。
母の寝室は、生前「埃が立つから」と入室を禁じられていた場所だった。
部屋は整然としていた。ベッドは綺麗にメイクされ、デスクの上には医学書が並んでいる。窓際のクローゼットが、夜の闇の中で静かに佇んでいる。
駆はクローゼットの前にひざまずき、一番下の引き出しを開けた。
そこには、きれいにラッピングされた箱と、一通の封筒が入っていた。
駆はまず封筒を開けた。中には、大学病院長の印が押された診断書が入っていた。
駆は次に、ラッピングされた箱を開けた。
中には、ずっと憧れていた最新モデルのサッカーシューズが入っていた。
スポーツショップのショーウィンドウで、何度も立ち止まって眺めていた。母が横にいるときは、見ないふりをしていた。欲しいと言えば、また悲しい顔をされると思っていたから。
でも、母は知っていたのだ。
箱の中に、小さなカードが添えられていた。
母の字で、一言だけ書かれていた。
『十七歳おめでとう。これからは、あなたの好きな場所へ』
駆はシューズを強く抱きしめた
「ありがとう、母さん......」
その言葉は、もう母には届かない。
でも、駆は何度も何度も繰り返した。
「ありがとう......ありがとう......」
通夜から数日後。駆は玄関で新しいシューズの紐を結んだ。
駆は立ち上がり、仏壇の前に歩み寄った。母の遺影は、穏やかに微笑んでいる。
「行ってきます」
その声は、もう守られるだけの子供のものではなかった。
駆は玄関を開け、外へ走り出した。
すぐに息が上がった。足がもつれた。今まで使っていなかった筋肉が悲鳴を上げる。
決して速くない。かっこよくもない。
でも、胸の鼓動は力強かった。破裂しそうな恐怖ではなく、生きている証として、ドクン、ドクンと高鳴っていた。
十七年の心拍 三角海域 @sankakukaiiki
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