第2話 五年前――あの日より始まりて
「おい、ここに雄鴨が一羽迷い込んだであろう。知らぬか」
その日、狩りをしていた高陽は、なかば押し入るようにして、一軒の草庵に踏み込んだ。
扉は無く、
僧侶は筆を持っていた。写経中だった。身なりは質素。なれど、庵の内部と同様に、一応の清潔は保たれている風情である。
墨と枯草の匂いがたゆたっている。
「なんじゃ。乞食坊主のねぐらであったか」
「学僧でございます。あばら家ゆえ、もてなしはできませぬ」
僧侶は二十代半ばくらいかと思われた。細く長い首が品よく立ち上がっている。彼は静かに筆を置くと合掌し、「お引き取りを」とお辞儀した。鶴のごとき優雅さであった。
「もてなしは要らぬ。その鴨を返せ」
高陽が探している鴨はいた。僧侶の隣で、籠を被せられている。恐れているのか、鳴き声を上げるどころか身じろぎ一つしない。
翼に刺さったはずの矢は既に抜かれ、籠の横に置かれてあった。
「そいつは皇帝が射たものだ。坊主よ、返さねば反逆罪にあたるぞ」
「私は辯機と申します。あなた様は?」
「高陽公主だ。皇帝の……寵姫である」
高陽は言いよどんだ末に嘘をついた。『無能』で通っている房遺愛の妻であると公言するのは癪だと感じ、ならばいっそのこと、と実父を夫に仕立て上げたのだ。
辯機の口元に笑みが浮かんだ。ふっ、と微かな笑い声を喉にまとわせた彼は、涼やかな顎を上げて、壁を作っているほつれた
「あなた様はいとも容易く嘘をおつきになるようですが。その嘘は、この簾から外を眺むるがごとく、透けるに透けておりまして、大変粗末であらせられる」
と、のたまった。
あまりの言われように、高陽は思わず大口を開けた。次いで拳を強く握ると、声高に挑発する。
「ならば完璧な嘘とはどのようなものじゃ。手本を見せてみよ」
「僧は虚言を禁じられております」
「先日、我が父が戒律を変えさせた。知らぬのか」
高陽はまた嘘を言った。
辯機は黙ったまま、嘘つきを見据えている。高陽はそのまっすぐな瞳に応戦を試みるも、胸にそわそわとしたものを覚えはじめ、やがて折れた。
「もうよいわ。鴨を渡せ。それは、わらわの獲物ゆえ」
「できませぬ」
「わらわに手ぶらで帰れと申すか」
「手ぶらで帰ったところで、今夜のお食事に差し障りがありましょうか」
なんと強情な男なのだ。高陽は衝動的に、手近にあった壊れかけの笊を、辯機めがけて投げつける。
笊は辯機と鴨の間を抜けて、粗末な土壁に当たって落ちた。鴨が翼をばたつかせ、騒がしく鳴く。
「何ゆえ渡さぬのだ。泥棒め!」
「鴨のほうから助けを求めて入ってきましたゆえ、泥棒ではございません。怪我を治して野に放ってやろうと存じます」
「つまらぬことを」
高陽はふんと鼻を鳴らした。
子供の頃から、誰もが高陽の言いなりであった。大抵のわがままは通った。通らぬ時は、おかんむりの印に下唇を突き出して嘘をこねくり回せば、父王でさえ「はいはい」と二つ返事で目尻を下げるしまつなのだ。
この男も、四の五の言わず嘘に乗っていればいいものを。
高陽は腕を組んで考える。
一計を思いついた。
「よう分かった。ならば、わらわと勝負せい」
高陽は騎馬服の裾を翻すと、ずかずかと筵の上を歩き、辯機の前に胡坐をかいた。いきなり勝負を挑まれた相手は、怪訝な顔をしている。
高陽は身を乗り出して訊ねる。
「お前、頓智は好きか」
「……ほどほどに」
ためらいつつも、辯機は答えた。
「では辯機。わらわは今から嘘しか言わぬ。お前は真実を見ぬき、かつ不自然でない受け答えをしろ。そして、真実だけを申せ」
「私が勝てば?」
「願いを一つ聞いてやる」
「あなた様が勝てば?」
「鴨をよこせ」
なるほど、と呟いた辯機は、思案するように視線を落とした。しばし黙した後、かすかに頷き、高陽に見合う。
「承知いたしました。さあ、どうぞ」
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