混ざる悪意よ混沌に沈め

千猫怪談

1.邪悪な手

第一話 邪悪な手①

 緩やかな尾根が幾重にも連なり、薄く煙るような山並みが、どこか遠い世界の風景のように見える。

 谷から吹き上げる風は湿り気を帯び、衣服の裾をわずかに揺らした。そのたびに、両手に抱えた霧箱の重みがいっそう際立った。

 曇天の空は厚く沈み、灰色の雲が山肌を覆い尽くしている。光は乏しく、昼なのに夕暮れのような薄暗さ。まるで空そのものが彼を見下ろし、何かを責めているようだった。

 ──せめて、こんな日くらいは晴れてくれたら。

 そう思いながら、沖陽一おき よういちは小さく息を吐いた。胸の奥に溜まる重苦しさは、天気のせいだけではない。容赦のない運命の残酷さが、骨の芯まで染みついて離れない。

 足元の小石を踏むと、乾いた音が響く。その拍子に、霧箱の中で陶器がことん、と鳴った。

 沖ははっとして立ち止まる。胸の前で箱を抱え直し、指先で木の蓋をそっと撫でた。

 ──こんな小さなものの中に、妻が入っている。

 軽く、小さくなって、ただの灰になって。

 そう思うと、腹の底から何かが沈み込むような気がした。冷たいものが背骨を伝い、全身に広がっていく。

 残暑がまだ厳しいある日のことだった。

 妻は、あまりにもあっけなく死んだ。

 なんの前触れもなく、唐突に。

 ──いや、違う。

 思い返せば、少し前から様子がおかしかった。食卓で言葉少なく、窓の外をぼんやりと眺めていることが増えていた。

 それを見ていながら、沖は気づかぬふりをした。

 仕事が忙しかった。そんな有体な言い訳を、自分に言い聞かせていたのだ。それがただの逃げだったことも、分かっている。

 明日話そう。

 次の休みにゆっくり聞こう。

 そうやって先延ばしにしているうちに、時間は静かに尽きた。

 そして、気づけば妻はもう、どこにもいなかった。

 あの時声をかけていたら、違った未来があっただろうか。

 何を間違えたのだろうか。

 私と結婚していなければ死ぬことはなかったのではないか。どうしようもない後悔が、ありとあらゆる負の感情が、渦となって、目の前は暗く沈んでいく。

 そんな沖の気持ちを察してか、なあ、とすぐ隣を歩く義理の父が声をかけた。

「やるせねえよなあ。なんで由佳ゆかがこんな目によ」

 大切に育て上げた一人娘を亡くしたばかりの父親は、涙を堪えるように視線をあげた。

「困ったことがあったらなんでも言えよ。由佳はいなくなっちまったけどな、俺はお前の親父だ」

「タツさん、ありがとう」

「それにしてもよ。由佳のやつ、なんであんなところで」

 義父は、絞り出すような声で呟いた。

 妻が見つかったのは自宅からすぐ近くの雑木林だった。

 前日から家に帰っていない妻を心配して、各所を駆けずり回っていた矢先の出来事だった。

 既に病院で安置されていた妻を、沖は茫然として見つめていた。

 死因は心筋梗塞だ、と担当していた刑事が言っていた。

 目立った外傷はなかったことから、すぐに事件性はないと判断された。

 苦しかっただろうか。

 妻の顔はあまりにも綺麗で、まるで眠っているかのように穏やかであった。

 そうだとしても。

 なぜ妻は誰もいない雑木林の奥にいたのだろう。誰にも何も伝えないまま姿を消し、人知れず息を引き取るだなんて。

「タツさん、ごめん。俺がもっとしっかりしてたら──」

 こんなことにはならなかった、と言いかけてやめた。結局、沖には自信がなかった。こんなに近くにいて、妻のことを理解できていなかった、と思い知った。

 沖は、妻にとって何だったのか。

 結局、分かりあえなかったと言うことか。

 それならいっそ。

 自分なんかと夫婦にならなければ。嫌でもそんな考えが頭に浮かんでしまう。

「そんなことないさ。あいつは、陽一と一緒になって幸せそうだった。お前のおかげだ」

 沖の思いを察したように、達夫たつおが言葉を絞る。

 その言葉が痛々しくもあり、優しかった。

 砂利を踏み鳴らす音がやけに耳に残る。

 時折、足元で小石がパチンと跳ねて、静かに落ちていく。

 義理の父にあたる達夫には子供の頃から世話になっていた。

 近所の少年野球チームに所属していた沖は、コーチをしていた達夫のもと、毎週末汗を流していた。

 イベントでハイキングに連れていってくれたり、自宅でバーベキューをしたりと、家族ぐるみで子供たちの面倒を見てくれたのだ。

 昔は甲子園を目指すぐらい凄かったんだぞ、なんて自慢が口癖だった達夫の後ろ姿を見ながら育った。

 由佳と付き合うようになったのは沖が大学を卒業して社会人になった時。体調を崩して入院した病院に三歳年下の由佳が働いていた。

 運命的な再会だ、というほどでもないけれど、昔から知っている由佳との距離はすぐに縮まった。

「よかった、少しは晴れてきたかな」

 一筋の光が山の尾根を揺らすように流れていた。

 素直に綺麗だと思った。

 雲の隙間から橙色の日が差し込み、沖を、手元の霧箱を照らす。

 途端に、どうしようもなく寂しい気持ちが込み上げてきた。

 突風が吹き抜け、流した前髪を揺らす。

 自然と、涙が溢れてきた。

「どこかで見ていてくれるといいな」

「ああ、そうだな」

 達夫も目にいっぱいに涙を溜めている。

 ふと、「パパー」と前方から幼い声が聞こえてきた。

 沖の両親に手を引かれ、息子の春人はるとが駆け寄ってくるのが見えた。今年でまだ四歳になったばかりだ。

「今日はじいじのお家に泊まるよ」

 はしゃぐ声に、達夫の笑みが重なる。

 春人の小さな手のひらを握った。その無邪気さが、胸に刺さる。

 母親がもういないことを、この子はまだ理解していない。

 この子のためにも強くあらねば、と思った。

 沖は無理に笑い、さあ帰ろう、と言った。


 達夫や、沖の両親たちがそれぞれの車に乗り込むのを見送ったあと、春人を後部座席に座らせて車のドアを閉めた。

 背後から、「早くじいじの家で遊びたい」なんて子供らしいことを言う声が聞こえる。

 ゆっくりとエンジンをかける。

 視界の端、サイドミラーに光が滲んだ。何かが動いた気がした。

 気のせいか、と思い再びミラーを覗いてみると。

 そこに。

 影が見えた。

 黒い靄のようなものが、火葬場の裏手でゆらゆらと揺れている。

 木立の陰でも、光の加減でもない。

 まるで人の形をした煙が、風に撫でられるように伸び縮みしていた。

 ひゅっ、と喉が鳴った。

 じっと見ていると、影はこちらに顔を向けたように見えた。

 ぞわりと背筋が冷たくなる。

 頭では見間違いだと言い聞かせるけれど、鏡の中の闇は消えない。

 ゆらり、と地面の上で形が揺らぐ。

 まるでダンスを踊っているかのように。

 そうだと思ったら。

 にょきり。

 一瞬、影の首が伸びた。

 子供の頃に見たアニメのろくろっ首のように。

 心臓が高鳴り、堪らず振り返る。

 後部座席の窓の向こう、そこにはただ、夏の終わりの陽が落ちかけた景色があるだけだった。

 風に吹かれ、のぼりがかすかに震えている。

 一体なんだったのだ。

 未だにどくどくと心臓が鳴っている。

 何気なく後部座席に視線を移す。

 春人が座っているはずの席に、あるはずの姿がない。

 さっきまでそこにいたはずだ。

 あれ、と思って身を乗り出す。

 チャイルドシートから降りて、後部座席のドアをカチカチと弄っている。

 半ドアになった後部座席は、今にも開いてしまいそうに不安定に揺れていた。

「は……春人!」

 このまま発進していたら危ないところだった。

 息子は、沖の突然の慌てように気づいたのか、不思議そうな顔で沖を見ている。

 ありえない。

 シートベルトは締めていたし、まだ自分では外せないはずだ。ドアも必ずロックをするのが癖になっていた。

 なぜ、と思いながらも再度春人をチャイルドシートに座らせ、沖は達夫たちの待つ家へと帰路についた。

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