二十六話 恐怖にゆがむ眼
フィルダーレンの神殿区画。その上空に、魔術によってつくられた雨雲が立ち込めた。
見る見るうちに広く、厚く、濃くなるそれから、ぽつぽつと水滴が落ちはじめる。
新市街が消失してしまった荒野では、
その手につかむ、翼を広げる竜を先端に据えた黒い杖は、魔力によって
「はははっ! そら、降りはじめたぞ!
その声に怯むことなく、町の人々は互いを助けるために動いていた。
「安心しろ!
負傷した町の職人を運ぶ防衛軍の隊員。ふたりの肩に雨粒があたる。
「ひとつの町が溶けて消え失せる。未来では、わが帝国の日誌にだけ残される、書類上の存在となるのだ!」
動けぬ者を
「最期にとくと世界に
崩壊した防壁のがれきに雨粒は弾かれ、神殿につづく石畳の道を濡らし、区画内の植物を湿らせる。
「……歴史と、血肉と、記憶が……溶ける……ぜつ、ぼう…………」
町の人々は、空を見上げる。その顔に、身体に、全身に雨粒を受けながら、黙って雨雲を見上げる。
「…………………………」
雨は、ただ、町を濡らすだけであった。
この土地にいる全員が沈黙する。町の人々は困惑し、帝国兵は当惑し、プライデルは呆然とする。
そんな静寂に、雨は静かな音色を
すると、液体が地面に落ちる音がした。
プライデルが、マリオンが、帝国兵たちがぎこちなく顔を向ける。
そこには
拘束が解けた少女は、ゆっくりと立ち上がる。
「……ありえ、ない」プライデルは、ゆっくりと首を左右に振る。「たとえ、この瞬間、魔眼を覚醒させたとしてもだ。この雨は、蛇の魔眼と、私と、古代魔道具でつくりあげた絶対的なものだ」
一歩、二歩と、周囲の黒い鎧が、深紅のローブが、震える足で後ずさる。わずかでも、少女から距離をあけようとする。
「山羊の魔眼が、変質の術式を宿しているとしてもだ。この術式構造そのものを、遠くからひと目見ただけで変えられるはずがない」
山羊の少女は、一度だけ深呼吸した後、ちらりと蛇の眼の少女に顔を向ける。
直後、彼女を拘束していた翡翠色の水が飛び散って、その身体が地面に倒れる。蛇の眼の少女は、呆気にとられながら山羊の少女を見つめた。
「
平常心を失った帝国兵たちがいた。
黒い鎧の一人が、
深紅のローブの一人が、手にする魔道具の杖に魔力を込める。空中にいくつもの火球を生み出し、杖を振り下ろしたのだが、山羊の少女が目を向けると、それらは瞬時に消失した。
そんなことが、あと数回だけ繰り返された。
「違う。変質ではない。いや、変質だけではない。その眼は、山羊の眼の術式は……おまえ……」
プライデルは、移植された蛇の瞳ではなく、彼自身が生まれ持つヒトの瞳に、とある感情の光を
「おまえ……なんだ。その眼は、いったい……なんだというのだ!」
恐怖にゆがむ男の瞳が、山羊の眼に映った。
= = = = =
ルティアは生まれて初めて、やっと世界を視ることができたと感じる。
この眼に映る流れは
だが、たしかに感じとることができている。これが魔力。
「ルティア……あんた、いったい?」
マリオンの声を耳にし、ルティアは彼女に目を向ける。そして、頷いてみせた。
「ちょっとだけ待ってて。この人たち、みんなやっつけちゃうから」
小さく笑ったマリオンが、やっと表情を緩める。「殺そうとしてくる連中に、その言い方はちょっと子どもっぽくない?」
そんなこと言われても困ってしまう。これまで生きてきたなかで、強い言葉なんて使ったことは一度もない。
どんな言い方をすればいいのだろうと、首をひねると同時に背後から殺気を感じた。
ルティアは足に魔力を意識する。すると地面が弾け、自分の身体は横方向に鋭く
視界に収めたことで、その槍は
さらに奥、こちらに向かって地中を伝う魔術をこの眼で見破ると、術式が暴発し、ほかの帝国兵を巻き込みながら地表を吹き飛ばした。
不思議な感覚だ。見えていないのに視えている。
背後の殺気や魔力も、地中の術式すらも、近くであればしっかりと感じとることができている。さらに、視ることによって動かせることを知った。
脳裏に浮かんだ術式は、マリオンのラサルハグ、あの封魔術式の炎だ。
「これなら、どうかな!」
ルティアがぐるりと見まわすと、すべての黒い鎧と深紅のローブの全身が炎に包まれ、身を硬直させる。
彼らは手にする魔道具を起動することもできなければ、魔術で反撃することも叶わない。身を包む炎は、衣服を燃やさず肌も焦がさない。ただ身の動きごと魔力を封じる炎によって、次々とその場に倒れ伏せた。
一人だけを除いて。
「なんっだ、これはぁ!!」
プライデルだ。彼は炎をなんとか振り払った。
どうやらあの黒い杖によって、ルティアの封魔術式を耐えきったらしい。厄介だ。耐えきったということは、続けて拘束しようとしても意味はない。べつの手段で無力化するしかないだろう。
ルティアは戦闘の意思を見せるも、しかし、彼はふもとのほうへと顔を向ける。ルティアも一瞬だけ視線を動かすと、数多くの銀の鎧が、あの土砂崩れを急いで乗り越えていた。
やっと辺境伯の軍が到着した。これで間違いなく、フィルダーレンは救われる。
「……ルティア!」怒声を張りあげる決水竜の長。「その名を、その顔を、その眼を覚えたぞ! 必ずや、
「ここまでやって、逃げるだなんて許さない!」
マリオンがラサルハグを瞬時に伸ばす。だが、あの翡翠色の水に防がれてしまった。
怒りと焦りを織り交ぜた表情を浮かべるプライデルは、もはや捨て台詞の余裕もないまま逃走の姿勢をとる。足元に波紋が広がったかと思えば、その身を空高く打ち上げた。
彼は空中でさらに波紋を広げ、神殿区画の上空まで必死に滑っていく。おそらく、害のなくなった雨雲に突入することで姿をくらまし、奥のブロークレ山脈へと向かうのだろう。
ルティアは足に力を込める。マリオンの言うとおりだ。故郷の景色をこんなにも壊しておいて、このまま逃がすわけにはいかない。
「ルティア!」マリオンが、希望の光を灯した蛇の眼を向けてきた。「そのワケわかんない術式で、あのクソ野郎をなんとかしてやんなさい!!」
「まかせて! それじゃ、行ってくるね!」
「その調子! 行ってらっしゃ…………えっ?」
頭に浮かんだ術式は、不愉快ながらたったいま目にすることができた、あの男の移動方法だ。
マリオンに危害を加えないよう注意しながら、ルティアはふたたび足に魔力を意識させ、自身を空高くまで打ち上げた。
空中でもう一度、さらにもう一度。何度も直線を描きながら空を駆ける。恐怖もなければ
「ルティアー! なんとかしろとは言ったけれど!! 空を飛べとまでは言ってないからー!!!」
というマリオンの大声を背中にし、ルティアは徐々にプライデルへと追いついていく。
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