二十二話 決水竜


 衛界軌道えいかいきどうが生んだとされている魔物以外にも、人類を脅かす生物は太古の昔から実在している。

 あらゆる神話や伝説に登場する強大な種は、魔道具が一般的となった現代でも抗うことを許されない。敵意を向けられてしまえば、街や都市を放棄しなければいけないほどだ。

 そのうちの一種が、竜である。


「……イオ、マリオン。神殿へ……はやく……」


 ルティアの視界いっぱいに広がる、ブロークレ山脈上空の爽快な青空では、一本のロープのような何かが踊っている。

 透明なそれは徐々に翡翠色ひすいいろに染まっていき、陽射ひざしを湾曲させて煌めいており、液体状の宝石がごとき美麗さで形を成していく。

 ロープの先に、蛇のような頭が生じた。短い手足が生えた。後ろの先がぴんと尖った尾となった。頭には角が伸び、牙が生え、手足の先ではすでに爪が鋭い。

 はるか遠くにあってまだ小さく見えるそれが、徐々に地上へ近づいてくるにつれ、その規模を知らしめる。もはや一般的な家屋であれば、ひと呑みできる大きさであることは、誰の目にも明らかとなった。

 竜を模した魔術だ。そのカタチがゆるされているということは、与えられる威力ははかり知れない。


「はやく、避難しないと……」


 だが、ルティアたちの足は動かない。どこか心を奪われたかのように、竜の動きに目を奪われている。

 遠近感を喪失させる存在が、町の防壁に突撃してきた。

 空まで伸ばされた魔術の防壁は、竜の突進によってその大部分にひびを走らせた。神殿区画の上空に、防壁の破片が散らばる景色は、絶望するほどうつくしい。


 竜は防壁術式にあいさつした後、そのまま新市街を蹂躙じゅうりんする。

 積み木細工を崩す赤子のように、人類からの抵抗を許さぬ超常生物のように、燃え盛る家屋はもちろん、カーシュたちが隠れていた石造りの建物も、すべてが冗談のように軽く吹き飛んでいく。

 防衛軍の隊員や町の職人たちに、いっさいの抵抗を許さない破壊の表象だ。


「……っ!」マリオンが駆け出した。


 ルティアが驚く隣で、「マリオン!?」イオが彼女を追いかける。

 二人を放っておけず、その背中へ必死についていく。しかし、魔力をうまく使えないルティアと違い、二人の足はとても速い。やっと壁にたどりついたときには、マリオンはすでに救助活動を行っていた。


 ラサルハグだ。

 あの黒い鎖をいくつも展開したマリオンが、高い位置に固定させた一本の鎖の上に立ち、べつの鎖を壁の向こうへと伸ばしている。封魔術式である炎を宿した鎖は防壁を貫通しており、動かすことに支障はないらしい。

 そして軽々と、翡翠の竜に追い込まれていた隊員たちを、壁の内側へと運んでいた。


 追いついていたイオは、彼女の動きを援護するように壁に取り付いて、一点物の魔道具をあの竜に向けて発砲していた。同様にほかの職人たちや隊員も攻撃をつづけているが、構成している術式に損傷はないようで、竜は軽やかに空を踊って楽しんでいるように見える。

 しかし、外に隊員を救助しに出た職人が、負傷してしまったひとりを防壁内に運ぶところを狙われた。

 竜はそのあごを上下に大きく広げ、防壁術式を砕き、喰らいながらまっすぐ地上まで墜落し、防壁の門をくぐる職人と隊員に迫ってきた。

 もはや避けようのない悲劇を前にして、ルティアが全身を硬直させたそのとき、壁の向こうで光の柱が立ち昇る。


「……なに、あれ?」


 なぜか祈りを捧げたくなる、心が救われるような清浄なる青白い光だ、

 ルティアの視界を縦に割るほど大きく、青空のなかで物質化していく。うっすらと紋様もんようを浮かべた直剣となり、切っ先まで形作られた直後、大地を震わせる魔力の鳴動めいどうとともに。


「──っ!」


 飛来する翡翠の竜へと振るわれた。

 視界を白く染める衝撃と魔力の波動によって、ルティアは地面に倒れ込む。

 竜と剣の衝突が数秒つづいたあと、青白い光の刃は翡翠を貫き、そして切り裂いた。


「すご、い」


 職人と隊員は無事だった。衝撃に吹き飛ばされてしまったようだが、それでも直撃はしなかったらしく、立ち上がってこちらに歩いている。

 しかし、代償は大きかった。


「……カーシュさんっ!!」


 竜と剣が衝突した余波によって、神殿区画の防壁が崩壊している。

 ルティアの視点から遠くの土砂崩れまで、そこにあったはずのフィルダーレンの歴史が消失してしまった。

 翡翠の竜が作りだした荒野のなかで、カーシュがあの長い剣を杖にしてやっと立っている。剣には、ルティアが先ほど目にした青白い光が残っている。やはり竜を切り裂いたのは彼だった。

 しかし、その背後に黒い鎧と深紅のローブの一団が迫ってくる。


「これはこれは、やはりカーシュ・ウィデル・ハリオットであらせられたか」


 空から落とされた声と同じだ。

 カーシュのそばまで悠々と歩いてくる帝国兵の中でも、ひときわ豪奢ごうしゃなローブに身を包んだヒトの男性。先頭に立つ彼が口を動かしている。


「このプライデル、竜の地でも名高い剣士と顔を合わせることができ、恐悦至極きょうえつしごく


 あの男こそが、プライデル・エウカッハ。決水竜けっすいりゅうの長であり、竜の魔術を行使した者だ。

 手にする長い杖は黒曜石こくようせきのように陽を照り返し、杖の先には結晶でつくられた翼を広げる竜が居座っている。

 彼の顔には、魔眼まがんりたちのように入れ墨が彫られている。左右で色が異なるあの左目は、おそらく誰かから奪った覚醒魔眼なのだろう。

 あの怜悧れいりな顔付きを見るに、年齢は叔父のガベルより少し年上だ。フードがさげられており、濃紺色の長髪をすべて後ろに流した頭が見えている。

 そんな人物は、笑みを浮かべながら大仰に両手を広げてみせた。


「さらに、正しき者がいただく冠、義人ぎじんの啓示、証明の刃。あの『聖者の樹梯はしだて』をも目にすることができた。わが決水竜をも切り裂く威力。じつにすばらしき古代魔道具と、それに認められし剣士といえよう。……しかし、どうやらすでに力を尽くされてしまったご様子。貴重な魔眼を宿しているわけでもなし。このまま消えてもらおうか」


 プライデルの言葉へ抗うように、カーシュは剣をかまえる。無理をしているのはルティアの目からも明らかだ。

 周りを見まわす。防壁の崩壊に巻き込まれた隊員や職人たちが、必死にがれきから這い出てきたところだ。命を落としてしまった者は見当たらないが、誰もが体力を消耗しきっている。

 カーシュを援護できそうな者は、しかし一人だけいた。


「巻き取りなさい、ラサルハグ!」


 崩落した防壁の陰から、カーシュに向かって炎を宿す黒い鎖が射出された。

 それは小隊長の身体にまきつき、町のこちらへ放り投げるように運んだ。彼の手からあの長剣、古代魔道具が離れてしまったものの、着地点には「隊長っ!」ヘレナが待機しており、彼の身体を受け止めることに成功する。

 この様子を目にしたプライデルは、残された長剣の魔道具には目もくれず、喜ばしい発見をしたようにマリオンを見つめて口角を吊り上げる。


「イオ、ルティア。ヘレナさんを手伝って!」カーシュを運んだマリオンが叫ぶ。「みんなで助け合って神殿まで退きましょう! 辺境伯へんきょうはくの軍隊はここへ急行しているはず! 絶対に、最後まであきらめちゃダメ!」


 その言葉で目を覚ましたのはルティアだけではない。

 周囲の職人たちや、隊員たちも懸命に立ち上がる。ルティアとイオは、カーシュを支えるヘレナのもとへ走る。互いに頷いて移動しようとしたところ、「おぉ、ようやくこの目にすることができた!!」と、プライデルが大声を発した。

 彼は追撃に動きもしない兵士を背にし、劇を演じる役者のごとく片手を胸にあて、逆の手にもつ杖をマリオンへと向ける。


「マリオン・トキナス! 母君と生き別れた痛みにえ、単身でブロークレ山脈を越えし健気な少女よ! すばらしい魔術、そして輝かしい精神力! 受け入れられたフィルダーレンとの関係も良好そうで、私の心は歓喜に震えて仕方ない!」


 蛇の眼の少女からの返事は、舌打ちひとつ。

 そのまま無視して神殿まで退こうとするマリオンの背中に、プライデルは声の色を変えぬまま「これは冷たい」とつづける。


「せっかくおまえの母君が、愛娘まなむすめの姿を目にすることができたのに、もう背中を見せてしまうのか」


 マリオン、ルティア、イオ、カーシュやヘレナといった隊員、職人たちが動きを止めて沈黙する。

 いま、この男は、なんと言った?


「ほ~ら、その美しい顔を、もっとよく見せておやりなさい!」


 ゆっくりと、マリオンは振り向いた。


「そう、もっと近くへ! そうすれば、この通り──」


 プライデルが指を自分の左目の上下にあてて、入れ墨に囲まれた眼球を、移植された魔眼を見せつけるように広げる。


「──感動的な親子の再会だぁ!!」


 彼は、その蛇の眼をマリオンへ向けて、嘲笑あざわらった。


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