十八話 聖域から逃れた狐
町は厳戒態勢に入ることを決めた。
すべての店はいったん営業停止。新市街では防衛軍の小隊が展開し、町を守護する姿勢をとる。
現状を言ってしまえば、ふだんよりもたくさん魔物が出現しただけの話なのだが、ヘルヴェグルの鐘という魔道具を知ることができたフィルダーレンが、それは日常の
山に対して準備されていた防備が設置されはじめ、魔物を確認しに向かった職人たちの帰りを待つばかりとなる。
神殿区画に戻ってきた叔父のガベルが、カーシュと相談をはじめた。漏れ聞こえた会話だと、防衛軍を山側で動かす場合を想定しての話らしい。
ルティアは居てもたってもいられなくなった。
何かできることはないかとガベルに相談し、マリオンの同行という条件のもとで町の人々の手伝いを許された。
向かった先はレオニット病院、この町の医療施設だ。
「あれ、ヘレナさん?」
すでに見慣れた銀の鎧が、古めかしい病院の前で木箱を運んでいた。
その頭にある薄い赤色の狐耳がぴくりと震わせて、彼女はルティアに顔を向ける。
「あら、ルティアちゃんにマリオンちゃん。どうしてここに……って病院だもんね」小さく笑ったヘレナがつづける。「怪我? それとも体調が悪い? 私でよければ治療するわ」
「いえ、あの、そうじゃなくて」あわてるルティアにつづき。
「手伝いに来たの。いま町ではみんながたいへんだから」マリオンが説明した。
この返答に喜んだのはヘレナだけでなく、ちょうど病院の扉からでてきた獅子の獣人である老人の男性、サイラス・レオニットも同様だった。
新市街の病院から運ばれた物資を整理する必要に迫られ、ちょうど人手不足だったらしい。
「ご覧のとおり、病院内はドタバタしているから気を付けてね」
開かれた扉の向こうでは、神殿区画の見知った顔が複数人、院内で忙しそうにしている。
走ってはいないが、けっして歩いているとはいえない速度で各部屋を往復していた。
「ルティア、マリオンちゃん」サイラスがいつもの優しい獅子の目を向けてきた。「ふたりにはヘレナさんを手伝ってほしい。そこの木箱を彼女といっしょに二階の倉庫へ運んで、中身を整理して収納してもらいたいんだ」
ルティアはマリオンといっしょに了解して、木箱を手にしてヘレナに先導されながら病院内へと運び込む。
到着した倉庫で、ルティアが木箱を開けるための金具を探していると、「よいしょっと」と軽い声ひとつあげながら、ヘレナは釘打ちされた木の板を素手で剥がしていた。
ぽかんと口を開けながら見ていると、隣のマリオンもラサルハグの黒い鎖を一本だけ生み出し、その鎖を器用に板の端へと引っかけて剥がしていた。
「ルティア、そっち貸して」
ルティアの運んだ木箱も、マリオンが同じように開いてくれた。
その様子にヘレナが「便利ね」とほほえみを浮かべる。
「私が予想するに、その鎖は戦闘以外でも移動手段なんかに使えると見た」
「正解よ」木箱の中身に目を落としながらマリオンが応じる。「たとえば、女の子を誘拐しそうな狐のお姉さんから逃亡するのにも使えるわね」
「その節は、怖がらせちゃってごめんなさい」ヘレナ、反省。「隊長にもあの後、たっぷり
「……あの」ルティアは、木箱を
ルティアとしては、そうとうの勇気をもって尋ねた質問だった。
しかし、ヘレナはきょとんとした表情で、「どういうこと? べつに怖いとかはないけれど」と答えた。
「えっと、わたしの山羊の眼、ほかのみんなと違って瞳孔の形が、なんだか不気味かもって思ってて、だからヘレナさんに、かわいいって言われたことが、すごく変だなって、ずっと考えてて」
うまく言語化することができない。ルティアは自分の気持ちを整理しきれないでいると、「この国にはね」とヘレナが口を動かす。
「山羊の獣人だけでなく、羊の獣人や馬の獣人もいるの。羊の彼らも同じような眼をしているし、馬の彼らは少し目立たないけれど、よく見ればそんな瞳孔をしているわ。たしかにめずらしいけれど、それを理由に怖がられるってことはちょっと考えられないかな」
ルティアは言葉を失った。
ずっと抱え続けていた悩みがたったいま、あっさりと消失してしまったからだ。
では、イオの言っていたことは本当だったのだろうか。ルティアが神殿区画の外にでてはいけなかったのは、
呆然としていると、ヘレナが「眼が怖がられてしまう、か」と、過去に想いを
「ルティアちゃんの気持ち、わかるよ。多少なりとも共感することができる。私、この狐の眼を周囲に怖がられて……
えっ。という声をルティアとマリオンは重ねた。
二人の尋ねる視線を受け止めるヘレナは「白亜の国ではね。覚醒した
「獣人を排し、ヒトだけが生きることを許される
魔眼を覚醒させてしまったヘレナは、故郷の村で周囲から隔離されてしまった。
白亜の国では弱い立場の獣人が、覚醒した魔眼との関与を疑われてしまえば制裁を加えられてしまう。審問官の追及についても、悲惨なうわさは尽きることがない。
ゆえに
「世界でもっとも危険とされている土地。でも、私みたいなワケありの人を他国へ運ぶことで、お金を稼ぐような組織も少なからずあった。……そして信用してはいけない者たちだったと、当時の私は知らなかった」
あの土地の光景は今でも記憶に刻まれているという。
幻想的な特異環境が隣接し、結びつなぐ魔術王国の遺跡は呆れかえるほど巨大。白亜の国にある高い山から見下ろせば、世界中の景色をかきあつめた絵画を、三重の円にそれぞれ縫い合わせたような理解不能の景色となる。
それが衛界軌道であった。
最初は心躍る光景に足が軽かったが、一人では後戻りできないところまで進んだところで、
「衛界軌道の魔物は、はっきり言って異常そのもの。いっしょに運ばれていた人たちみんな、魔物の
ヘレナは魔物から必死に逃げた。
どこにいるのか、どこに向かっているのか。そんな認識の余裕もなく走った。しかし魔物は徐々に近づき、もう爪と牙が届いてしまう、そのときだった。
空中にいくつもの剣閃がきらめいたかと思えば、その魔物は切り刻まれ、素材を残して消失した。呆然としながら見上げた先に、
「カーシュさん、ですね」ルティアも、どこか懐かしい想いを抱く。「わたしを救ってくれたときも、熊の魔物をあっという間に倒してくれました」
同じ思い出を共有するように、ルティアはヘレナとほほえみあう。
マリオンが視線で続きを促したので、狐の隊員がふたたび口を動かす。
「そのままカーシュさんの……隊長のお荷物になって、獣人国まで連れていってくれた」
この眼が忌まわしくないのですか?
衛界軌道から出たとき、ヘレナは勇気をだしてカーシュにそう尋ねた。
彼は困ったようにほほえみ、こめかみを掻きながら答えたそうだ。
──怖くはない。でも、嫌だ。そんなにも怯えて、恐れて、あきらめているような眼をされてしまうのは、とても嫌だと感じる。とにもかくにも、オレはいま、きみの眼に
「この人のちからになりたいと思った。覚醒した魔眼はこの国でもめずらしく、治療術式はさらに貴重。隊長は王都で生活することもできると言ってくれたけれど、頼みこんで防衛軍の小隊に編入させてもらったんだ」
そして、彼の感覚を自分も持つようになった。
魔物に襲われた、魔眼狩りや審問官に追われた、盗賊に奪われた人々の暗い眼を知った。自分も、彼らの眼に光を取り戻そうと誓った。
「そんな私が今、強く望んでいることはただひとつ」ヘレナは、ルティアとマリオンそれぞれと視線を合わせた。「フィルダーレンに住むみんなの眼に、私の大好きなルティアちゃんとマリオンちゃんの眼に、安寧のかがやきを取り戻すこと。それだけよ」
そんなわけで、さっさと木箱を整理しちゃいましょう。照れ隠しのように、ヘレナは手を動かしはじめる。
ルティアはマリオンと頷きあい、木箱の中身を取り出しはじめる。そのときにはもう、山羊の眼が怖がられているかもしれない、という胸中の不安は消えていた。
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