また、貴方に会えたことが

風月 雫

第1話

 夕暮れの穏やかな日には必ず、あの人があの場所にいる。


 私は小東桜子こひがし さくらこ、19歳。この街の大学に学生用アパートから通っている。

 大学の帰りに、いつものように自転車で川の土手を通った。

 河川敷では、小学生の男の子が数人でサッカーをして遊んでいる。


 冬が終わり、日中は少し温かくなり始めたけれど、まだまだ風は冷たく、日が傾き始めると寒くなってくる。

 

 川沿いに植えられた桜の木には、まだ色付いていない硬そうな蕾がいくつか見えた。開花までにはまだ時間がかかるのだろう。


 そして、この時間になると、ある青年が桜並木の下にあるベンチに座っているのだ。特に何かしているわけでもない。ただ、桜の木を見上げているようだった。それも穏やかな日には、必ずといっていい程だ。


 私もほぼ毎日ここを通っている。最初は気に留めなかったけれど、ここを通るたびに見かけると、やっぱり気になりだす。

 昨日もその青年の傍を横目に自転車で素通りした。




 今日はいつもより早く大学が終り、いつもと同じ道を自転車で帰る。けれど、あの青年はいなかった。


「いつもより時間が早いのね」


 自転車を降り、あの青年がいつも座っているベンチを見る。その時、足元に2,3メートル離れたところに黒い蛇がおり、とぐろを巻き頭を少し上げこっちを見ていた。何故か蛇と目があった気がする。じっと見つめると、蛇の目の色が紅く見え、ぞわりと寒気が走った。今にも飛び掛かって来そうな感じがしたのだ。


「ひぃ!」


 私はビックリして自転車に急いで乗ろうとしたら、足がペダルに当たりバランスを崩す。こんな時は、大概スローモーションに見えるんだけど、回避できないんだよね。

 結局、ガッシャーンと自転車ごと倒れた。


「キャッ!」


 私は慌てて、蛇の方を見る。さっきまでいた場所に蛇が居なくなっていた。キョロキョロと周りを見渡すけれど何処にもいない。


「よかった……。なんだったんだろう、あの蛇は。見間違い?」


 蛇が居なくなったことがわかると、安心したからか、一気に痛みが出てくる。一番痛みがあるのは、膝だ。最悪だ。スカートを穿いていたから、もろにすりむいてしまった。


「ああ、ついていないなあ……」


 私はいつも青年が座っているベンチまで行くと、取り敢えずそこに座った。膝から流れてきている紅い血を持っていたティッシュで拭きとる。


 ああ、ホント。もう最悪……。はあ……。


 私はこれでもかというくらい大きな溜息を吐いた。


「どうしたんだ?」


 ふいに視界に人影が見え、声をかけられた。地面に差す影から上に見上げる。


「あ……」

「うわあ、痛そうだな。転んだのか?」

「は、はい」


 声を掛けてきたのはいつもここに座っている青年だった。

 いつも少し離れたところで、それもベンチに座っている姿を見ていたからだろうか、思っていた以上に背丈がある。髪は短髪で整った目鼻立ちだ。髪を染めているのか、陽の光の加減で薄っすらと茶色く見えた。


「ちょっと、待ってろ!」


 私の傷を見てそう言うと、青年はどこかに走って行き、白いナイロンの袋を下げ、5分ほどで戻ってきた。

 

 はあ、はあと青年は息を切らしている。ずっと走ってきたのだろう。


「だ、大丈夫ですか?」


 必死にこっちに走って来ていたので、私は声を掛ける。

 青年は2回ほど大きく深呼吸をし、呼吸を整え、「大丈夫だ」と苦笑しながら答えた。


「ダメだな……そこの薬局まで行って来ただけなのに、こんなに息が切れるなんて。これは、もう完全な運動不足だ。恥ずかしいな」


 顔を赤らめながら、青年は私の膝の前に屈む。そして持ってきた袋の中からミネラルウォーターのペットボトルとガーゼを取り出した。


「ごめん。極力、素手で足を触らないようにするから、不愉快だったら言ってくれ」


 そう言うと、ペットボトルの蓋を開け、傷口にそっと水をかける。


「……っ!」

「い、痛いか? 大丈夫か? もう少し我慢してくれ」


 本当に足に直接触れないように、青年は器用に水とガーゼを使って傷口を洗ってくれた。

 話したこともない、ただ大学の帰りに見かける人に、こんな事をさせてしまっている事に申し訳なく感じた。


「いやだったら、言ってくれ」


 青年は私の顔を見ながら、もう一度確認する。

 不思議な事に、いやとか不愉快とかそんな気持ちは湧いてこない。

 それより、何故か逆に安心感さえ出てくる。


「いいえ、大丈夫です。ありがとうございます」


 傷口が綺麗になると、絆創膏を張ってくれた。


「よし! これで大丈夫だろう」

「すみません、本当にありがとうございます。手当に使ったもののお金を返します」


 わざわざ薬局で買ってきてくれたのだから、と私は鞄の中から財布を取り出そうとすると、いらないよと青年は苦笑した。


「俺が勝手にしたことだから、大丈夫だ」


 でも、と私が申し訳なく言うと、少しは格好をつけさせて、と今度ははにかんだ。


「いつもここを通る子だよね?」

「あ、はい」


 いつもぼんやりと桜の木を見ているようだったから、私に気づいているとは思いもしなかった。


「あのいつもここに座ってる方ですよね?」

「ああ、そうだよ……隣に座っても良い?」


 立ちっぱなしの話もどうかと思い、どうぞと私は少しずれる。青年は私との間を一人分ぐらい空け座り、袋の中から飲み物を取り出した。


「お茶だけど、どうぞ」


 貰っても良いものか悩んだけれど、青年の顔を見れば「嫌いだった?」と訊かれる。


「い、いえ、ありがとうございます。あ、暖かい……」

「少し冷めちゃったけどな」


 二人で並んで温かいお茶を飲む。初めは何の会話もなく、暫く時間が過ぎた。でも何だか嫌な気持ちになれない。居心地がよく心が穏やかになる。何故だろう。


「ここでいつも桜を見てますよね? 桜、好きなんですか?」

「……ん? そうだな。好きかな。桜だけじゃない、春に咲く花は好きだ。だから、春が待ち遠しい――。男でこんなこと言うのは、おかしいだろ?」

「いいえ……全然、おかしくないですよ。雰囲気が何だか『THE 春』って感じですよ」


 青年が醸し出す雰囲気は、春そのものだと思った。

 ちょっとした温かい気遣いや優しい話し方、微笑み。春の陽だまりのような安心感を感じた。


「ははははは! そんなこと言われたの初めてだな。俺は一ノ瀬 克己。この街の大学に通っている2年だ」

「え……私も同じです。私は1年です」


 確かに、この時間ならサラリーマンはまだ仕事をしている時間だ。学生なら、この時間に、ここにいる事が出来る。


「へえ、そうなんだ。じゃあ大学内ですれ違っているかもな。だからかな、初めて話した気がしないのは……失礼かもしれないけど、嫌だったらいいんだけど、その、名前聞いてもいいか? 苗字はいい。下の名前だけでも良い……から」


 彼は頬を掻きながら言った。何故、下の名前だけで良いかと訊いたら、初対面の男にフルネームを教えるのは気が引けるだろうと。苗字より名前の方が親しみがでるからという理由だった。


「桜子です」

「え、漢字は? 桜の木の桜?」


 克己さんは、凄い偶然だと目を丸くして驚いていた。

 そして、彼は私の名前を聞いて、凄く喜んでいた。大好きな桜の文字が入っているからと教えてくれた。


 その日以降、帰りに見かけると私たちは、ベンチに座って話をするようになった。

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