また、貴方に会えたことが
風月 雫
第1話
夕暮れの穏やかな日には必ず、あの人があの場所にいる。
私は
大学の帰りに、いつものように自転車で川の土手を通った。
河川敷では、小学生の男の子が数人でサッカーをして遊んでいる。
冬が終わり、日中は少し温かくなり始めたけれど、まだまだ風は冷たく、日が傾き始めると寒くなってくる。
川沿いに植えられた桜の木には、まだ色付いていない硬そうな蕾がいくつか見えた。開花までにはまだ時間がかかるのだろう。
そして、この時間になると、ある青年が桜並木の下にあるベンチに座っているのだ。特に何かしているわけでもない。ただ、桜の木を見上げているようだった。それも穏やかな日には、必ずといっていい程だ。
私もほぼ毎日ここを通っている。最初は気に留めなかったけれど、ここを通るたびに見かけると、やっぱり気になりだす。
昨日もその青年の傍を横目に自転車で素通りした。
今日はいつもより早く大学が終り、いつもと同じ道を自転車で帰る。けれど、あの青年はいなかった。
「いつもより時間が早いのね」
自転車を降り、あの青年がいつも座っているベンチを見る。その時、足元に2,3メートル離れたところに黒い蛇がおり、とぐろを巻き頭を少し上げこっちを見ていた。何故か蛇と目があった気がする。じっと見つめると、蛇の目の色が紅く見え、ぞわりと寒気が走った。今にも飛び掛かって来そうな感じがしたのだ。
「ひぃ!」
私はビックリして自転車に急いで乗ろうとしたら、足がペダルに当たりバランスを崩す。こんな時は、大概スローモーションに見えるんだけど、回避できないんだよね。
結局、ガッシャーンと自転車ごと倒れた。
「キャッ!」
私は慌てて、蛇の方を見る。さっきまでいた場所に蛇が居なくなっていた。キョロキョロと周りを見渡すけれど何処にもいない。
「よかった……。なんだったんだろう、あの蛇は。見間違い?」
蛇が居なくなったことがわかると、安心したからか、一気に痛みが出てくる。一番痛みがあるのは、膝だ。最悪だ。スカートを穿いていたから、もろにすりむいてしまった。
「ああ、ついていないなあ……」
私はいつも青年が座っているベンチまで行くと、取り敢えずそこに座った。膝から流れてきている紅い血を持っていたティッシュで拭きとる。
ああ、ホント。もう最悪……。はあ……。
私はこれでもかというくらい大きな溜息を吐いた。
「どうしたんだ?」
ふいに視界に人影が見え、声をかけられた。地面に差す影から上に見上げる。
「あ……」
「うわあ、痛そうだな。転んだのか?」
「は、はい」
声を掛けてきたのはいつもここに座っている青年だった。
いつも少し離れたところで、それもベンチに座っている姿を見ていたからだろうか、思っていた以上に背丈がある。髪は短髪で整った目鼻立ちだ。髪を染めているのか、陽の光の加減で薄っすらと茶色く見えた。
「ちょっと、待ってろ!」
私の傷を見てそう言うと、青年はどこかに走って行き、白いナイロンの袋を下げ、5分ほどで戻ってきた。
はあ、はあと青年は息を切らしている。ずっと走ってきたのだろう。
「だ、大丈夫ですか?」
必死にこっちに走って来ていたので、私は声を掛ける。
青年は2回ほど大きく深呼吸をし、呼吸を整え、「大丈夫だ」と苦笑しながら答えた。
「ダメだな……そこの薬局まで行って来ただけなのに、こんなに息が切れるなんて。これは、もう完全な運動不足だ。恥ずかしいな」
顔を赤らめながら、青年は私の膝の前に屈む。そして持ってきた袋の中からミネラルウォーターのペットボトルとガーゼを取り出した。
「ごめん。極力、素手で足を触らないようにするから、不愉快だったら言ってくれ」
そう言うと、ペットボトルの蓋を開け、傷口にそっと水をかける。
「……っ!」
「い、痛いか? 大丈夫か? もう少し我慢してくれ」
本当に足に直接触れないように、青年は器用に水とガーゼを使って傷口を洗ってくれた。
話したこともない、ただ大学の帰りに見かける人に、こんな事をさせてしまっている事に申し訳なく感じた。
「いやだったら、言ってくれ」
青年は私の顔を見ながら、もう一度確認する。
不思議な事に、いやとか不愉快とかそんな気持ちは湧いてこない。
それより、何故か逆に安心感さえ出てくる。
「いいえ、大丈夫です。ありがとうございます」
傷口が綺麗になると、絆創膏を張ってくれた。
「よし! これで大丈夫だろう」
「すみません、本当にありがとうございます。手当に使ったもののお金を返します」
わざわざ薬局で買ってきてくれたのだから、と私は鞄の中から財布を取り出そうとすると、いらないよと青年は苦笑した。
「俺が勝手にしたことだから、大丈夫だ」
でも、と私が申し訳なく言うと、少しは格好をつけさせて、と今度ははにかんだ。
「いつもここを通る子だよね?」
「あ、はい」
いつもぼんやりと桜の木を見ているようだったから、私に気づいているとは思いもしなかった。
「あのいつもここに座ってる方ですよね?」
「ああ、そうだよ……隣に座っても良い?」
立ちっぱなしの話もどうかと思い、どうぞと私は少しずれる。青年は私との間を一人分ぐらい空け座り、袋の中から飲み物を取り出した。
「お茶だけど、どうぞ」
貰っても良いものか悩んだけれど、青年の顔を見れば「嫌いだった?」と訊かれる。
「い、いえ、ありがとうございます。あ、暖かい……」
「少し冷めちゃったけどな」
二人で並んで温かいお茶を飲む。初めは何の会話もなく、暫く時間が過ぎた。でも何だか嫌な気持ちになれない。居心地がよく心が穏やかになる。何故だろう。
「ここでいつも桜を見てますよね? 桜、好きなんですか?」
「……ん? そうだな。好きかな。桜だけじゃない、春に咲く花は好きだ。だから、春が待ち遠しい――。男でこんなこと言うのは、おかしいだろ?」
「いいえ……全然、おかしくないですよ。雰囲気が何だか『THE 春』って感じですよ」
青年が醸し出す雰囲気は、春そのものだと思った。
ちょっとした温かい気遣いや優しい話し方、微笑み。春の陽だまりのような安心感を感じた。
「ははははは! そんなこと言われたの初めてだな。俺は一ノ瀬 克己。この街の大学に通っている2年だ」
「え……私も同じです。私は1年です」
確かに、この時間ならサラリーマンはまだ仕事をしている時間だ。学生なら、この時間に、ここにいる事が出来る。
「へえ、そうなんだ。じゃあ大学内ですれ違っているかもな。だからかな、初めて話した気がしないのは……失礼かもしれないけど、嫌だったらいいんだけど、その、名前聞いてもいいか? 苗字はいい。下の名前だけでも良い……から」
彼は頬を掻きながら言った。何故、下の名前だけで良いかと訊いたら、初対面の男にフルネームを教えるのは気が引けるだろうと。苗字より名前の方が親しみがでるからという理由だった。
「桜子です」
「え、漢字は? 桜の木の桜?」
克己さんは、凄い偶然だと目を丸くして驚いていた。
そして、彼は私の名前を聞いて、凄く喜んでいた。大好きな桜の文字が入っているからと教えてくれた。
その日以降、帰りに見かけると私たちは、ベンチに座って話をするようになった。
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