ナノマシンチルドレン・ジェネシス(創世)

@Aceojisann

星を落とす声

第1話 クリスマスの墓標

2025年12月24日、午後8時14分。  世界が終わる瞬間、音はなかった。  少なくとも、雷神創一郎がいた地上二百メートルの聖域――アズマ連合島国の首都、中央府オウカの湾岸エリアにそびえ立つ「ライジン・セントラルタワー」の最上階ペントハウスにおいては、その終焉は、不気味なほどの静寂を纏って訪れた。

 部屋の空調は完璧に管理され、摂氏23.5度に保たれている。広すぎるリビングルームの空気は、高性能HEPAフィルターによって濾過された人工的な清潔さと、どこか無機質な寂しさを孕んでいた。部屋の中央には、この日のために父が秘書に命じて用意させたであろう、5歳の子供の背丈ほどもある巨大なモミの木が飾られている。  その枝葉から漂う生木の鋭く青臭い香りと、イタリア製の高級革張りソファが発する独特の鞣し革の匂い、そしてフロア全体に敷き詰められた深紅の絨毯の羊毛の匂いが、空調の微風に乗って混ざり合い、奇妙な不協和音のような芳香となって創一郎の鼻腔をくすぐっていた。時折、自動噴射されるシトラス系の芳香剤が、それらの匂いを覆い隠そうとするが、かえって鼻の奥にツンとした化学的な違和感を残していくだけだった。

 モミの木の足元には、完璧にラッピングされた大きなプレゼントの箱が置かれている。銀色のリボンが、天井の間接照明を浴びて冷ややかに光っていた。中身が何であるか、創一郎は知らなかったし、駆け寄って開けようともしなかった。その銀色の輝きは、子供を誘う温かみではなく、どこか拒絶するような硬質な冷たさを放っていたからだ。それは父、雷神創一からの贈り物というよりは、父子という関係を維持するための契約更新書類のように、幼い創一郎の目には映っていた。

 5歳の創一郎は、リビングの壁一面を占める巨大な防弾ガラスに張り付くようにして立っていた。  彼の小さな掌が、分厚いガラスの表面に押し付けられ、白く曇った脂の跡を残している。ガラスの向こう、眼下に広がる中央府オウカの夜景は、いつものようにクリスタルのような輝きを放っていた。首都高速道路を流れる車のヘッドライトの帯は、血管の中を流れる光る血球のように脈打ち、林立する高層ビル群の航空障害灯が放つ規則的な明滅は、都市という巨大生物の呼吸のようだった。それらは、人類が数千年かけて積み上げてきた文明の、揺るぎない証拠のように見えた。光の粒子の一つ一つが、人間の営みであり、今日という聖夜を祝う誰かの生活の灯りだった。

 だが、創一郎の肌は粟立っていた。  本能的な恐怖が、彼のうなじの産毛を逆立てていた。

 「……揺れてる」

 彼は小さく呟いた。自分の声が、吸音性の高い絨毯と広い空間に吸い込まれて、あまりにも頼りなく消えていく。  耳に聞こえる音ではない。腹の底、あるいは骨の髄を震わせるような、重く、低い振動だった。最新鋭の制振ダンパーと免震構造を備えたこの超高層タワーが、微かに、しかし確実に悲鳴を上げている。足元の床材越しに伝わるその震えは、まるで大地そのものが、これから来る何か巨大な災厄を予感し、恐れて身を縮めているかのようだった。床の下深くに埋設された鉄骨が、見えない巨人の手によってねじ切られようとしているかのような、金属的な苦悶の響きが足裏から伝わってくる。

 創一郎は、ガラスに額を押し当てた。ひんやりとした冷気が、熱を持った額に伝わり、思考を鋭敏にさせる。  その視線の先。漆黒の夜空で、最初の「それ」が起きた。

 雲の切れ間が、突然、真昼のように赤く染まった。  雷ではない。自然界に存在するいかなる稲妻とも違っていた。光は一つではなく、数え切れないほどの筋となって、天頂から垂直に降り注いでいた。  大気圏という地球を守る薄い膜を、外側から無慈悲に食い破り、宇宙から堕ちてくる鉄の雨。

 ヒュン、ヒュン、ヒュオオオオ……という鋭い風切り音が幻聴として聞こえた気がした。だが実際には、それは大気を引き裂く轟音だったはずだ。厚さ五センチメートルの多層構造防音ガラスがその叫びを完全に遮断し、光景だけを無音の映画のように、冷酷に映し出している。

 一つ目の光が、遠くの埋立地に突き刺さった。  一瞬の静寂の後、オレンジ色のドーム状の爆炎が膨れ上がり、夜の闇を食い破るように拡散した。それはスローモーションのように見えた。コンクリートの岸壁が飴細工のように溶解し、海水が瞬時に蒸発して白い壁となって立ち上る。数秒遅れて、衝撃波が物理的な質量を持ってビルの窓を叩いた。

 ドンッ。

 重い音が室内に響き、大理石のテーブルの上に置かれたシャンパングラスが触れ合い、チリンと乾いた音を立てた。その音は、あまりにも日常的で、あまりにも脆く、この世界の崩壊の合図としては不釣り合いなほど繊細だった。創一郎の心臓が、その音に合わせて大きく跳ねた。

 「……お父さん?」

 創一郎は振り返った。  広すぎるリビングには、誰もいない。  父・雷神創一は、帰宅してから一度も顔を見せることなく、奥の書斎に籠もったきりだ。母は、数日前のクリスマス・パーティの準備で疲れが出たと言って、頭痛薬を飲んで早々に寝室へ下がっていた。家政婦も、警備員も、この聖夜だけは家族水入らずで過ごすようにと、父が下の階へ下がらせていた。  その配慮が、皮肉にも今の創一郎の孤独を深淵のような深さにしてしまっていた。

 広い部屋にたった一人。  世界が壊れていく様を、特等席で見せられている。

 彼は再び窓の外を見た。  光の筋は増えていた。十、百、いや、千。  まるで空全体が崩れ落ちてくるようだった。  それは流星群のようなロマンチックな光景ではなかった。あまりにも規則正しく、あまりにも執拗で、そしてあまりにも「人工的」な軌道を描いていた。  あれは星ではない。人間が空に上げたものだ。創一郎は、かつて父の書斎で盗み見た図鑑のページを思い出した。人工衛星。通信、気象、偵察……人類の目となり耳となってきた数千の機械たちが、断末魔の炎を上げて帰還しているのだ。  空が焼けている。夜の闇が、赤熱した鉄の色に塗り替えられていく。

 壁面に埋め込まれた百インチの大型ホログラムモニターが、国家緊急信号を受信して自動的に起動した。  『――臨時ニュースです。現在、世界各地で大規模な通信障害が発生して……』  アナウンサーの女性の声は震えていた。顔面は死人のように蒼白で、プロとしての平静を保とうとする努力が痛々しいほどに伝わってくる。彼女の整えられた髪が一筋乱れ、頬に張り付いているのが見えた。瞳孔は開ききり、カメラの向こうの視聴者ではなく、自身の死を見つめているようだった。  背景のスタジオのモニターには、世界各地の惨状が映し出されていた。  『西方大陸連邦の首都ノヴス・ヨーク、大陸同盟のパリシア、東方通商連合のシャン・ラ……主要都市の上空が、同じように赤く燃え上がっています』  画面の中で、巨大な女神像が赤い光の中で崩れ落ち、凱旋門のような石造りの建造物が粉々に砕け散る映像が流れた。逃げ惑う人々の姿は、砂粒のように小さく、炎の海に飲み込まれていく。

 『太陽フレアの影響により、多数の人工衛星が軌道を外れ……繰り返します、ただちに屋内へ……地下へ……』

 プツン。

 唐突に、画面が砂嵐に変わった。  それだけではない。創一郎の手元にあった学習用タブレットも、部屋の室温や照明を制御していたAIスピーカーも、壁に掛けられたデジタル時計さえも、一斉に明滅し、沈黙した。  バチッ、というショート音がして、部屋を黄金色に照らしていた豪華なクリスタル・シャンデリアが落ちた。

 「……真っ暗だ」

 非常灯の赤い光だけが、部屋の輪郭を不気味に浮かび上がらせる。  高価な家具たちが、赤い影の中で怪物のように姿を変える。モミの木の影が長く伸び、創一郎の足元に黒い爪を伸ばしているようだった。  先ほどまで感じていた微かな匂い――革や生木の香り――が、急速に冷えていく空気の中で変質していくように感じられた。代わりに漂い始めたのは、焦げ臭いにおい。たとえ完璧な空調システムでも遮断しきれない、世界そのものが焦げる匂いが、微かに隙間から侵入してきているようだった。

 創一郎は、窓ガラスに再び額を押し当てた。ガラスは氷のように冷たかったが、外の熱量が視覚を通して伝わってくるようだった。  外の世界では、街の灯りがブロックごとに消えていくのが見えた。電力網が過負荷でダウンしているのだ。輝かしい文明の夜景が、虫食いのように黒い闇に侵食されていく。  その闇を照らすのは、空から降り注ぐ、燃え盛る鉄の塊だけ。  地獄の業火が、オウカの街を舐め回すように焼いていく。

 5歳の創一郎には、何が起きているのか正確には理解できなかった。  「ケスラーシンドローム」も、「情報インフラの全滅」も、「グローバル経済の即死」も、彼の語彙にはなかった。  けれど、彼は本能的に理解していた。生物としての勘が、けたたましい警鐘を鳴らしていた。

 今日まで当たり前にあった「明日」が、もう来ないことを。  この分厚いガラスの向こう側で、大人たちが積み上げてきた積み木のお城が、誰かの手によって蹴り崩されていることを。  そして、その崩壊の音を聞いているのは、自分一人だけなのではないかという錯覚。

 「……怖い」

 言葉にすると、涙が滲んだ。喉が引きつり、呼吸が浅くなる。酸素が部屋からなくなったような息苦しさ。  父の書斎へ走ろうとした足がすくむ。  廊下の奥、重厚なマホガニーの扉の向こうにいる父。この状況でも出てこない父。  創一郎は、直感的に感じていた。父はこの光景を見ても、驚いていないのではないか。あるいは、こうなることを知っていて、ただ冷たい目で数字を数えているだけなのではないか。父の眼鏡の奥にある瞳は、いつだって創一郎を見てはいなかった。父が見ていたのは、常にその向こうにある「何か」だった。数式か、未来か、あるいは「人間ではない何か」か。

 そんな予感が、燃える空よりも恐ろしくて、創一郎は動けなかった。  廊下の闇が、口を開けて待っている獣の喉のように見えた。そこへ飛び込めば、二度と戻れない気がした。

 ドォォォォン……。

 新たな振動がタワーを揺らした。今度は近かった。近くのビルに破片が直撃したのかもしれない。床の振動が足首を這い上がり、背骨を駆け抜ける。  赤い非常灯が点滅するリビングで、創一郎はその場に座り込み、膝を抱えた。  高価な服の感触も、絨毯の柔らかさも、今の彼を守ってはくれない。  プレゼントの箱に結ばれた銀色のリボンが、非常灯の赤を反射して、まるで墓標の飾りのように、禍々しく染まって見えた。  そのリボンは、誰のためのものだったのだろう。中身は何だったのだろう。  創一郎はぼんやりと思った。あれは、僕へのプレゼントなんかじゃない。あれは、父さんが「父親の役割」を果たしたという証拠品なのだ。だから、中身なんてどうでもいいのだ。  それはもう、永遠に開かれることのない箱だった。

 創一郎は目を閉じ、耳を塞いだ。  まぶたの裏に焼き付いた赤い空が消えない。  それでも、振動は止まない。  世界が壊れる音は、耳ではなく、心臓に直接響いてくるのだと、彼は幼い心で悟っていた。その鼓動のリズムに合わせて、外の世界の炎が揺らめいているように感じられた。

 「誰か……」

 助けて、とは言えなかった。助けを求める相手がいなかったからだ。  彼はただ、膝に顔を埋め、嵐が過ぎ去るのを待つ小動物のように震え続けた。  硝子の向こうで、一つの時代が、音もなく焼け落ちていくのを背中に感じながら。

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2025年12月10日 19:00
2025年12月11日 19:00
2025年12月12日 20:00

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